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四月から一二月まで運転員の三交代勤務だったのは、後にも先にも昭和63年入社の学卒新入社員のみです。最近はいつまで運転員実習が行われていたのでしょう。半年以上三交代勤務を続けるのは、二〇代前半の私にとってもかなり堪えました。
右脇腹痛があったときに、発電課長から、「勤務の途中で盲腸になると困るから、さっさと切ってしまえ。」と言われたことは忘れられません。なんと社員を大切にしない会社なのだろうと情けなくなりました。まあ、大企業ならば多かれ少なかれ、こんな扱いなのかもしれませんが・・
前年より学卒新入社員が運転員として1名のみ配属され始めました。「俺等の入社年度からは二人運転員に配属される」というまことしやかな噂がどこともなしに流れてきました。配属先の希望は、その前に聞かれており、私は「機械も予算も現場監督もできる 保修課 がいい。」と答えていました。
配属先の辞令は、一月四日(本当は、一月一日というふざけた日の発令なのですが、事務所が休みなので、正月休み明けの一月四日になった)。私は中央大電気卒のTと同じD班でした。最後の方には、1−2号機の運転員は、D班からという噂まで。「確率半分」なわけですから、かなり気をもんだことを思い出します。
年末年始の勤務は、次のとおり
12.28 水 1/2直
12.29 木 2直
12.30 金 3直
12.31 土 3直
1. 1 日 あけ(休み)
1. 2 月 休み
1. 3 火 休み
・年末に辞令を交付すれば、運転員を外れた場合には正月休みとなるわけですから、本来はそうするべき(実家にも帰れる)です。なぜ、1月1日辞令にしたのか、いまでも理解に苦しみます。(評判が悪かったため、次年度からは正月辞令はなくなりました)
昭和64年の正月は、原発の中央操作室で迎えました。夜食は、おそらく年越しそばを作ったはずです。(記憶なし)正月になったちょうどその時刻に、3−4号からページング(現場と中操で会話する呼び出しのこと)で「あけましておめでとうございます。」という挨拶がありました。おそらく、わたしのいた1−2号中操からも同じような挨拶をしたはずです。年越しの時には、さすがに現場にはだれもいませんでした。(通常23時くらいにパトロールを終了します)
正月を原発の中央操作室で迎えたのは、当然ながらあとにも先にもこの日だけです。後日、給与精算があり、正月特別手当をもらいました。少し不思議だったので、同期の原子炉班に配属されたMにきいたところ「俺が給与マニュアルを読んで、12月××日〜1月××日までは正月特別手当が付くことをみつけて総務に指摘した。それでみんなに手当がついたんだよ。」と。随分と細かいところまで気がつくやつがいるもんだなと舌を巻きました。
正月の勤務が明けてから、夜ノ森独身寮で朝食。なにやら豚汁を醤油味に変更し、豚が鶏になったお餅入りの(豚汁)が。なぜ、正月から、豚汁なんだろ?とその時は思いました。1年後になってわかったのですが、これが浜通りのお雑煮。私の母の実家は広島で、正月の雑煮はすまし汁とほうれん草+鶏の唐揚げ+かまぼこ でしたので、雑煮とは考えつきもせず。。日本の雑煮にはいろいろな種類があるのだなと初めて知りました。
さばきよ商店から

なんとなく、こんなイメージでしょうか。関東圏は、こういったお雑煮が多いようです。
さて、1月4日。発電課長の前で辞令を受け取りました。受け取った辞令には
「発電部 第一保修課 (タービン)を命ずる。」
と書かれていました。
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