大本営発表−初期は割合正確だったが、作戦が頓挫した珊瑚海海戦(1942年5月)の発表から戦果の水増しが始まり[1]、以降は戦況の悪化に関わらず、虚偽の発表を行なった。それが転じて、権力者による信用できない情報を批判する慣用句としても使われる(Wikiより)
大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか2018/08/15 05:20
日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。
軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。
良心の呵責もあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「
ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。
「撤退」は「転進」…言い換えで責任不問に
1943年(昭和18年)になると、ごまかしは戦果以外にも及ぶ。ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。
44年(昭和19年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を捧げて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。
「暴走」誰も止められず…メディアの責任も
戦争遂行の最高責任者だった東条だが、人に弱みを見せることも多く、
軍内部すら完全に掌握できていなかったという。辻田さんも「形式上は天皇が最高指揮官だったが、
実際にはトップ不在のまま手足が勝手に動いていたのが大本営の実態。誰もコントロールしないからウソがまかり通り、それを誰も止めなかった」と見ている。
書類の電子化が進んでいる今でも、役所や会社の中を回る決裁文書にはハンコを押す欄がずらりと並ぶ。権力がトップに集中する組織ほど、「上はこう望んでいるだろう」と忖度した文書が回る。ハンコは起案者が読んだ空気に同意した証し。正しく空気を読んだ文書ほどハンコがそろいやすく、効率的に仕事が進み、起案者は上の覚えもめでたくなって出世できるわけだ。
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posted by いんちょう at 09:22|
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