
・オリジナルとパクリ、最近で有名になったのはオリンピックエンブレムの佐野研二郎である。その相違点の一番大きな点は、オリジナルほどの根の深さ、生まれるまでのエピソードなどがパクリにはまったく書けていることである。
・何事もそうだが、できるだけ自分の納得できる一次情報を重視すること、そしてそれらを統合して自分なりの結論を組み立てる。役人、学者の言葉を鵜呑みにする者は愚か者である。
「千の風に乗って」紅白にも秋川雅史 氏が出演したことでも有名である。
微妙に異なる「1000の風」がなぜ、ブログの最後に書かれているのか。ブログを読んでいくと、大変なことが分かってしまった。まず、最初に書かれていたのは次の通り。
2009.11.11 Wednesday
ぼくは5人兄弟の末っ子だ。それもすごく年の離れた末っ子なので、物心がついた頃には父も母もおじいさんおばあさんに見えた。だから両親を亡くしたのも早かった。
80年代にまず母が他界し、数年後に父も他界した。
ぼくはまだ30歳代だった。「お前は末っ子で両親と過ごした時間が短いのが可哀想だな」と兄に言われた。ぼくもそう思った。
父の死についてはこのブログにも書いたことがある。母の死についてもいつかは書いておきたい。
親が生きている間は親が「壁」になってくれているので「死」に向き合わなくすむ、と言われる。ぼくの場合は30歳代で「壁」がなくなってしまった。
"A THOUSAND WINDS"という作者不明の美しい詩に出会ったのは、両親を亡くして間もないころだった。そして95年には『1000の風』という本を作った。
この何年間か『千の風になって』という歌や本で日本中大騒ぎが起きていたが、ぼくは関わらないようにしてきたし、公の場では発言しないようにしてきた。新井満さんが引き起こしている騒動に巻き込まれたくなかったからだ。
このところいくらか騒ぎも沈静化してきた様子なので、そろそろぼくも書いておこう。"A THOUSAND WINDS"との出会いについて。新井満さんについても。
長い話になりそうなので、連載日記になる。
2009.11.15 Sunday
2001年の秋、ぼくは東京の事務所を引き払って横浜のこの小さな森に入り、里山仕事や畑仕事の日々を始めた。どうしてそんなことになったのかという話は、また別の話になるので別の機会に書きたい。
2003年の8月23日、朝日新聞の「天声人語」に驚くようなことが書いてあった。
「1000の風」についての記事だった。IRAのテロで死んだ青年の話、ジョン・ウェインが朗読したという話、マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたという話。
10年以上「1000の風」のことを調べてきたぼくが知らないことばかりが書かれていた。あたかも日本以外の国々では「1000の風」は誰でも知っている詩であるかのような記事だった。そんなはずはないのに。ぼくが森に引きこもってる間にそんなことに?????
ぼくが出した『1000の風』の本にも記事は触れていたが、メインはそうじゃなかった。
作家で作詞・作曲家の新井満さんが自分で作った私家盤のCD『千の風になって』を友人らに配っているというのがメインの記事だった。
そして新井さんが訳したという詩も書かれていた。「1000の風」が「千の風」になっているだけ。あとは、ぼくの訳詩の言葉の順番を変えたり、省略したりしているだけの詩に思えた。
すごくいやな予感がした。藤原伊織さんの話を思い出したからだ。
この「天声人語」をきっかけに新井さんの活動が活発になったようで、ぼくのところにも新聞やTVの取材がくるようになった。記者の人たちに「新井さんにぼくに連絡をくれるよう」頼んだけど新井さんからはまったく連絡がなかった。
(これは1985年頃、ぼくの事務所で。)
左からぼく、蛭子能収さん、新井満さん。この頃の新井さんはいつもカメラを持っていて、事務所に遊びにくるたびにこういうスナップを撮っていた。「小説家になりたい」と言っていた電通マンだった。
2009.11.18 Wednesday『1000の風』の詩がさざ波のように広がっていたことを書いたが、本が出て7,8年後、そのさざ波のひとつが新井満さんのところに届いた途端、彼はさざ波を津波に変えた。
まるで魔術師のように彼がさまざまな手法を駆使している報道を、ぼくはこの森の中から口をあんぐり開けて見ていた。彼からは相変わらず何の連絡もなかった。
06年の暮れの歌合戦で『千の風になって』が歌われたらしく、津波は大津波と化したようだった。友人たちからも「新井さんにあんな非常識なことをやらせてていいの?」という電話やメールがくるようになった。
2月の終わりにぼくはmixiの中で、限られた友人たちに「思っていること」を書いた。
「子どもがいないぼくにとっては、これまでに作ってきたたくさんの本が自分の子どものようなものだ。『1000の風』という本が孫やひ孫を作って、その連中が賑やかにやっているなあ、というような気持ちで騒ぎを眺めている」
友人たちからは新井さんへの怒りのコメントが相次いだ。
mixiにはその後もたびたび「思い」を書いた。
5月の終わりに突然新井さんから電話が入った。残間里江子さんに何か言われたらしかった。
彼はキリスト教系の雑誌でぼくと対談したいと申し込んできた。
「対談を申し込むより、物書きとして物づくりをする人間として、先にやることがあると思う」と返答した。
6月の激しい雷雨の日、新井満さんが大きな荷物を持ってわが家を訪ねてきた。
彼が来ると知って土光洋子さんも東京から駆けつけ、話し合いに同席してくれた。
「ぼくの本『千の風になって』はどう思いましたか?」と聞いてきたので、
「稚拙な本でした」と正直に答えた。本の著者を目の前にしてそんなひどいことを言うなんて過去になかったし、これからもないと思う。
隣りに座っていた土光さんがさぞ驚いただろうと、あとで聞いてみたら、
「あのときはほんとに胸がスカッとしたわ」と言っていた :-)
mixiに書いていた「思い」を(友人たちのコメントも)プリントアウトしておいたので読んでもらうことにした。A4で20枚以上を彼は時間をかけて読んだ。
読み終えた彼は、南風椎にまったく連絡もせずに似たような本を作ったことを詫び、これまでの自分の言動が元祖本である『1000の風』への敬意に欠けていたことを詫び、テーブルに両手を置いて、何度も何度も頭を深々と下げた。
その後彼は持ってきた荷物からおみやげのようにたくさんの本やCDを取り出した。
こんなにいっぱい作ってたんだ!

左端の本の表紙に驚いた。ぼくが『1000の風』で使ったのとそっくりの写真を平気で使い、しかもその本を平然とぼくに見せる人の神経が理解できなかった。
彼は荷物から『千の風』という名の日本酒やお香も取り出した。
「まさかこの言葉を商標登録したの?」と聞くと、否定も肯定もせずうつむいた。
"A THOUSAND WINDS" は作者不明でパブリック・ドメイン、人類の共有財産だと考えていたからこそ新井さんがやっていることに何も言わずにきたのに、商標登録!?
「南風椎の本がなかったら自分があの詩に出会うことはなかったし、本も歌も作れなかった。これからは取材のときも講演でもそのことをかならず最初に言います」
と何度も約束をして新井満さんは帰っていった。
約束が守られているのかどうかは、知らない。
いやはや、おどろいた。まるで魔術師のように彼がさまざまな手法を駆使している報道を、ぼくはこの森の中から口をあんぐり開けて見ていた。彼からは相変わらず何の連絡もなかった。
06年の暮れの歌合戦で『千の風になって』が歌われたらしく、津波は大津波と化したようだった。友人たちからも「新井さんにあんな非常識なことをやらせてていいの?」という電話やメールがくるようになった。
2月の終わりにぼくはmixiの中で、限られた友人たちに「思っていること」を書いた。
「子どもがいないぼくにとっては、これまでに作ってきたたくさんの本が自分の子どものようなものだ。『1000の風』という本が孫やひ孫を作って、その連中が賑やかにやっているなあ、というような気持ちで騒ぎを眺めている」
友人たちからは新井さんへの怒りのコメントが相次いだ。
mixiにはその後もたびたび「思い」を書いた。
5月の終わりに突然新井さんから電話が入った。残間里江子さんに何か言われたらしかった。
彼はキリスト教系の雑誌でぼくと対談したいと申し込んできた。
「対談を申し込むより、物書きとして物づくりをする人間として、先にやることがあると思う」と返答した。
6月の激しい雷雨の日、新井満さんが大きな荷物を持ってわが家を訪ねてきた。
彼が来ると知って土光洋子さんも東京から駆けつけ、話し合いに同席してくれた。
「ぼくの本『千の風になって』はどう思いましたか?」と聞いてきたので、
「稚拙な本でした」と正直に答えた。本の著者を目の前にしてそんなひどいことを言うなんて過去になかったし、これからもないと思う。
隣りに座っていた土光さんがさぞ驚いただろうと、あとで聞いてみたら、
「あのときはほんとに胸がスカッとしたわ」と言っていた :-)
mixiに書いていた「思い」を(友人たちのコメントも)プリントアウトしておいたので読んでもらうことにした。A4で20枚以上を彼は時間をかけて読んだ。
読み終えた彼は、南風椎にまったく連絡もせずに似たような本を作ったことを詫び、これまでの自分の言動が元祖本である『1000の風』への敬意に欠けていたことを詫び、テーブルに両手を置いて、何度も何度も頭を深々と下げた。
その後彼は持ってきた荷物からおみやげのようにたくさんの本やCDを取り出した。
こんなにいっぱい作ってたんだ!

左端の本の表紙に驚いた。ぼくが『1000の風』で使ったのとそっくりの写真を平気で使い、しかもその本を平然とぼくに見せる人の神経が理解できなかった。
彼は荷物から『千の風』という名の日本酒やお香も取り出した。
「まさかこの言葉を商標登録したの?」と聞くと、否定も肯定もせずうつむいた。
"A THOUSAND WINDS" は作者不明でパブリック・ドメイン、人類の共有財産だと考えていたからこそ新井さんがやっていることに何も言わずにきたのに、商標登録!?
「南風椎の本がなかったら自分があの詩に出会うことはなかったし、本も歌も作れなかった。これからは取材のときも講演でもそのことをかならず最初に言います」
と何度も約束をして新井満さんは帰っていった。
約束が守られているのかどうかは、知らない。
新井満の本は南風椎の本のパクリではないか、という意見はネット上ではたびたび見かけたけど、印刷媒体でこうやって「パクリだ」と明言してくれたのは初めてだと思うので、うれしくてここに掲載させてもらった。
正直に言おう。ぼくもあれは完全なパクリだと考えている。
一例をあげよう。翻訳の一番重要な個所だ。
英語の原詩にはこうある。
I am a thousand winds that blow;
普通に翻訳すれば、こうなるだろう。
私は吹いているたくさんの風だ
ぼくはこう翻訳した。
私は1000の風になって
吹きぬけています
「1000の風」とあえて直訳にしたのがミソだった。
新井さんの「訳」はこうなっている。
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
「千の風」がパクリであり「になって」もパクリだ。

「あの大きな空を」は原詩にないが、ぼくの本の写真(上)からイメージをパクったに違いない。「ですます」調で訳したのも、写真と組み合わせたのもパクリ。
まったく恥ずかしくなるほどの本だったのだ。
文章を書く上で最も苦労した点は、非常に良く記憶していおり、なぜそういった表現になったのかも含めて、きちんと説明できるのである。この一つの例示だけで、新井満氏の欺瞞が明らかになったと言って良い。
新井満氏の経歴を調べてみる。
新井 満(あらい まん、1946年5月7日 - )は、日本の男性作家、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家、長野冬季オリンピック開閉会式イメージ監督。 新潟県新潟市生まれ。本名:滿(みつる)。
一方、南風椎氏
南風 椎(はえ しい、本名・長野 眞、1948年4月25日 − 2015年9月9日 )は、物書き、編集者、翻訳家。株式会社フライ・コミュニケーションズ代表。
新井氏には翻訳のベースが全くないことが分かる。つまり、このようなこなれた日本語訳を英語から作ることはできはずがないのである。
経歴をみれば、その人が何を専門にしてきたかはすぐに分かる。そして、理解力がどの程度であるかは、発言を時系列で追ってみればよい。
・プルトニウムは飲んでも安全、格納容器は爆発しない
・メルトダウンしてないダス
・春雨じゃぬれて参ろう
等々の発言をしていた人間を信じる方がどうかしている。彼らの経歴を見れば、そして専門を見れば、分かっているかどうかなど、あらためて言う必要もないのである。これらの人物よりもさらに劣るのは役人。かれらは、数年単位で移動するさすらい人に過ぎない。ホンモノの知識など得られるはずもないのだ。政治家はさらにひどい。が、これらの人物に日本が操られてしまっていることもまた、現実である。
■関連ブログ
1318.新井満の「千の風」は、南風椎氏の「1000の風」のパクリだった(1)2015年10月15日
そしてそのパクリをNHK始め広告代理店などが世間に広めて金稼ぎってのは、核発電と同じじゃん!!
もう、どうしようもねえ国に成っちまったもんだ、、。
昔読んだアメリカの小説、例えば「大きな森の小さな家」シリーズや「赤毛のアン」とか「若草物語」とかに、家庭で団欒の時間に家族の誰かが詩を読んで皆でそれを聞きながら手仕事をする場面や、学校や催し物で「暗唱」が行われる話などが出てきて、なかなか味わい深いゆったりした娯楽だなと思ったことがありますが、南風さんの訳詞もそういう風に親しい人の間で大切に分かち合われるものと考えてあったのでしょうね。テレビでがんがん歌われたりするものではなくて。
命をかけた小さい声はかき消されてしまうようなこの日本、その空で吹きまくっているのは放射能だけかも...。
それにしても、著者や出版社は新井さんに対してもっと大きな抗議をしてもよかったんじゃないですか。どうして今まで公にならなかったのでしょうか。もし公になっていたら秋川さんの紅白出演もなかっただろうと思うし、もっと別の形で南風さんの作品が話題になっていただろうと思います。
あの大ヒットした歌の裏に、こんな事があったなんて。
ブログ記事にしてくださってありがとうございました。
「パクリ」という言葉がいまいちピンと来ない年齢の私ですが、盗作したものを商標登録したという理解でいいのでしょうか。
大問題にならなかったのが不思議ですが、そこに南風さんのお人柄が見て取れる気もします。
惜しい人を亡くしました。
なぜなら、こんな素晴らしい詩を訳した人は誰だろうと思ったくらいで、新井満氏だと思っていたのです。そして、新井満のCDまで買ってしまいました。 しかし、人のものを勝手に商標登録するような下衆な人間だとは本当にいやな気分でいっぱいです。 CDを捨てようと思います。 嘘つきほど平気で写真からイメージからぱくって本人の前にだす。このような世の中になってしまっている今日が 悲しいですね。 なぜかやりきれません。
全く知りませんでした。
しかし…平気で他人の作品をパクって、
良心が傷まない人がゴロゴロいることに、驚きまくっています。
怖い国ですね…
いとせずに似るとかいう事はあるんでしょうからあまりガチガチに似ている似ていないをするのもどうかとは思うのですが、
これはちょっと…。
この2・3年、新井満の間抜け面がTVに出てこないのはこの事が原因していると、個人的には思っています。もしも出てきたら、それこそガンガン抗議してやるぞと、ハエCの応援団がてぐすね引いて待ち構えていましたから。
と書くと彼の死を思い出して涙が出ました。あのブログには辛くて何も書けないのよ。
南風さんの訳と記事、ありがとうございます。
千の風、しっくりしなくて何でだろうと
ずっと思っていました。
私はそこにはいない。
ではどこだといえば、あの大きな空だという。
どうして、この大きな空ではないのかと。
そこでなくて、あっちにいるって
君は一体どこからみてる(いる)のかと。。。
ささいなことですが、先生の記事で謎が解けました。南風さんの訳で、1000の風、好きになりました。天国の南風さん、素敵な訳をありがとうございます。院長先生、ありがとうございます。
ほんとうに先生紹介していただきありがとうございました。
新井満氏のCD「千の風」は捨てました。
本当にそうですよね!「あの」は変ですね。思わぬとこで偽物の馬脚が出てしまったような。私は「千〜」の歌のメロディーに気を取られて、その視点の矛盾したふらつきに気が付いてなかったのですが、院長先生がツイッターで貴方のご指摘に非常に感心してあったので、ああそうか!と膝を打ったことです。(遅いW)
南風さんの訳ならば、引っかかりなく言葉に導かれごく自然に、広やかで透明な世界の中で亡き人を偲べる感じがします。
もっとも「千〜」の歌で心を慰められた人も多くいらっしゃることでしょうから、新井氏は南風さんばかりでなく歌を聴く人にも申し訳ないと思ってほしいです。.....ツユ程も思ってないでしょうがね。
共感いただき、うれしいです。
ありがとうございました。
●新潟で5日「千の風市民の集い」
東北復興支援へ心結集
新井満さん 絵本「希望の木」朗読
新潟市出身の作家新井満さんが、5日に新潟市中央区のクロスパルにいがたで開かれる「千の風市民の集い」(新潟市、千の風・市民の会開催)への来場を呼び掛けている。集いの中で、岩手県陸前高田市の奇跡の一本松をテーマに自身が刊行した「絵本 希望の木」を朗読する新井さんは「音楽や映像をふんだんに使い巨大な紙芝居のような仕掛けにした。東日本大震災の復興支援イベントなので多くの人に来ていただきたい」と語る。
集いは、新井さんが日本語詩と作曲を手掛けた曲「千の風になって」を記念したモニュメントが新潟市中央区柳島町3に完成して3年になるのを記念。新井さんが絵本を朗読し、講演する。
「希望の木」は、一本松を少女に擬人化した。生き残った少女が、親からもらった命を子どもたちにつないでいく役割に気付く物語。新井さんは「命のバトンを未来につないでいく大切さを呼び掛けたい」と話す。
陸前高田市などを訪れ、絵本を朗読したという新井さんは「復興はまだまだ道半ばという感じで心が痛んだ。大震災を決して風化させないという強い思いで朗読したい」と意気込む。
篠田昭新潟市長をらを迎えての記念シンポジウムもある。午後6時開園。入場無料だが、チャリティー募金への協力をお願いする。定員150人(先着)。
(以下略)
・・・池波正太郎じゃありませんが、
「人間、悪いことをしながら良いこともしている」
ですか(笑)。
しかし記念モニュメントが出来て既に3年とは!
恥も外聞もなく絵本を朗読して講演するとは!なんたる恥晒しだ。
両親は新潟県出雲崎町出身です。耐え難い恥辱感に打ちのめされています。
でも、安吾も、今でこそ多大な評価を受けておりますけど、覚せい剤乱用者で尚且つ被害妄想狂ということで、友人には絶対したくはないタイプですね(笑)。そう考えると、壇一雄は偉かった(笑)。
今回、「1000の風」の記事をみて、あらためて「森の日記」を辿って読みました。コメントのなかに、千の風のコード進行はご自分が学生時代に作った曲を模倣したものだと、南風椎氏のブログを読んで確信に近い感覚をもったというのがありました。「(著作権などとは無縁の代物とはいっても)若き日の純粋な産物を無断で商業物に替えられたことにわずかならぬ怒りを感じざるを得ませんでした。」とのことです。わたしも一連の記事を読んだ後では、この方のように「やはりな・・・」と思ってしまいます。
それにしても、南風椎氏の最晩年のブログに近藤誠氏の著書をあげておられたのをみると、切ない。
明日は長野眞さん(南風椎)の命日です。
木場公園で2017年9月9日と10日はアースキャラバンというイベントがあります。
そちらに自分も参加しています。
9日ではないのですが10日にステージで日本国憲法前文を詠います。もちろん南風椎さんの訳です。
千の風も勝手に会場の何処かで歌ってみます。
お葬式の時奥さんに頼まれ彼のご遺体の前で1000の風と日本国憲法前文を詠い送らさせていただいたことが昨日のようです。