私は、バブル真っ盛りの昭和63年卒業組でした。
この年は、証券、金融業などのサービス業に人気が集まり、私の所属していた東大工学部精密機械工学科は、卒業組の半数以上がこのサービス業にいくことになり、教授がずいぶんと嘆いていました。「ものずくり、日本はどうなるのか・・・」と
学科の定員は、50名足らず。東大工学部大学生の大半はふつう大学院に進学しますが、精密機械工学科は、大学院の定員がすくなくやむを得ず、半数が就職することになっていました。(大学院浪人生までいるくらい)。・・私は、ハナから進学する気はなかったのですが・・
・第一勧業銀行
・富士銀行
・日本興業銀行
・山一証券
(そのまま残っている会社は、ひとつもありません)
といったところから
・リクルート
などなど。こういったサービス会社には、学校推薦も関係なく、学生たちが自分たちで面接に行き、就職を決めていきました。
今の学生さんからすると考えられないでしょうが、4年生の4月になってものんびりしたもので、就職活動をしていたやつなどほとんどいませんでした。私もご多分に漏れず、7月過ぎまでなにもせず、さすがにまずいと思って、動き始めました。
国家公務員の一種試験を受けるとともに
・旭化成
・沖電気
・JR東日本
・東京ガス
・リクルート
などに電話をかけ、先輩にあい、話を聞き、食事をごちそうしてもらう。それが、就職活動でした。特に、沖電気は、栃木県(だったか?)の工場まで、当時大宮まで開通していた東北新幹線にのせてもらって、案内してもらいました。
その時、「携帯電話は、アメリカでは必要なんだよね。でも、日本はあちこちに公衆電話があるから、それほど普及しないと思うよ。必要ないからね」という話をしてくれました(予想は、完全に外れています)。
いずれの会社も、少し遅いんだけどなぁ・・といいながら、是非入社してほしいと引っ張りだこ。
ちょっと、国家公務員のことを書いておきます。国家公務員I種試験は、一次試験と二次試験があり、合格発表は9月初旬くらいだったでしょうか。合格してから、官庁巡りをしてもどこも相手にしてくれません。一次試験前から面接は始まっているのです。
東大法学部の連中のトップは、全員大蔵省(当時)を目指していました。彼らが言うには、成績表に良があったら、それだけで出世が遅れるくらい厳しい。毎日、予習復習はかかさないと。
警察官僚のトップになるには、
・東大法学部でトップ
・国家公務員試験でトップ
・司法試験合格必須
ときかされました。
東大に行けば、だれでも楽に中央官庁に行けて、出世できると思ったら、大きな間違いなのです。
わたしが、面接を受けたのは、通産省、そして、科学技術庁だったでしょうか。通産省に行ったところ、「外人を東京見物させるなら、あなたはどこにつれていきますか?」といった問題用紙も渡され、解答を書いた後で、
「きみは、何大学出身?」
「東大です。」
その後、担当の秘書と思える女性といくつか会話をした後、ずらっと名前の書かれたリストに○を二つほどつけられ、
「このひとにあってきなさい。」
と言われました。
その人のところに行くと、「何か質問ある?」 とだけ聞かれます。これには参りました。ただ、いろいろ話をすると、中央省庁は
「暗いうちに帰れればよい。」(日が昇ってから帰ることが多い)
という大変な激務であることだけ、理解できました。
時々、待合室で待たされていましたが、そこでびっくりしたのが、一橋大学の評価が非常に高いこと。彼らは、就職をなめきっており、(ま、人のことはいえませんが)
「今は、富士銀行に内定をもらっているが、本当は大蔵省に行きたい。富士銀行には、大蔵省の面接を待ってくれと行っている。まあ、やつらも(おれが)大蔵省に行くかもしれないから、そんなに強く言わないよ。」
「経済企画庁は、出てきた書類をまとめるだけ。ホッチキス官庁と揶揄されているくらいだから、本当は行きたくない。」
あるいは
「就職しようと思ったら、どこにでも行けるから、とりあえず今は官庁巡りをやっている。」
と、そんな感じでした。
科学技術庁にも行きましたが、開口一番
「きみはどこに行きたいんだね?」
「通産省です。科技庁は第二希望です。」
「だいたい、通産省はだねぇ・・」とさんざん、通産省の悪口を聞かされ、それで終わり。
まだまだ、未熟な田舎ものの学生でした。本来ならば、面接に行ったすべての省庁で、行った省庁が第一志望ですとしれっと嘘がつける人間でなければ、中央省庁のエリートにはなれないのです。
文系の人間は、どこにでも行けます。(理系の技官は限られています)が、序列はしっかりしており、(まあ、予算の順でしょう)
・大蔵省
・通産省
・郵政省
・通産省
・建設省
・・・
・・・
・文部省(ほぼ、最後)
となっています。文部省にいるお役人で、本当に心から文部省に行きたかった人など、ほとんどいないと言っても大げさではない。極論すれば、全員ほかに行きたかった省庁があったのに面接で通してもらえず、しかたなく選んだ。それが文部省役人なのです。(あくまでもたとえです)
私は、どこの省庁も一次面接で落とされましたが、同期の通産省に行ったやつにきいたところ、五次から六次面接があり、最後はお座敷だった という話でした。二次試験の試験結果が決まる前に各省庁の採用者は決まっており、ときどき採用予定者が試験で落ちたりして、番狂わせが起きると行ったとも耳に挟みました。(これは、あくまでも私の卒業年のことです。今はどうなっているかは、全く知りません)・・面接に関係なく、私は二次試験で落ちました。
当時は、円高不況が叫ばれていましたので、
・為替レートに左右されない
・内需産業
・ある程度安定
を考慮に入れて、
・東京ガス
・東京電力
・当時民営化したばかりのJR東日本
に候補を絞りました。一番、不親切だったのが東京電力。所属していた講座の講師の同級生に当たるN氏を紹介され、会いに行きました。ざっくばらんな方で、
「ごめん、昼くらいかごちそうできない。」
といって、非常に素っ気ない対応。ほかの会社の歓待とは全く異なりました。
最終的にどこに就職するかは、学生間で話し合って決めます。私の学科では、求人が出ている場合、学校推薦がつけば、かならず入社できました。が、一つの会社に二名まで。それ以上は、だめ。(社内で競争させないようにという配慮のため)
一番の優先は、学部卒業生、その次が大学院試験で落ちた人間 と行った順番でした。
まず、進学しないと決めた学生が、黒板に会社名と、自分の名前を書いています。この時民営化された会社にNTTがあり、やはりそこが一番人気でした。
人数が重なった場合は、話し合い、あるいは(信じられないかもしれませんが)じゃんけんで決定します。話し合いになった場合は、不人気な講座に入らざるを得なかった人が、
「俺に譲れ。」
などと今考えるとかなり理不尽なことをいったりしていました。
私の当初の希望は、東京ガス。そのうち、いろいろ考えて、結局、東京電力にしました。
(どちらも志望者なし。精密機械工学科からは、上記にあげたN氏のほかに、私の一年上に一名だけ入社しただけでした===この先輩には、入社5年後に本店で会うことになります。)・・・私が3人目。
会社の配属先の志望も最初は、
・水力
・火力
・原子力
(機械系の就職は、上記3部門だけに限定されていました)
と書いていたのですが、やるなら困難な方がよいと最終的には
・原子力
・火力
・水力
と提出し、福島第二原子力発電所勤務が3月頃に決まりました。
配属先が決まったとき、くだんのN氏のところに挨拶に行き、
「3年後くらいに東京に戻ってこれるのですよね?」
とはなしたところ、
「うーん、どうかな。」
と意味深な笑い顔をされたことが、今でも思い出されます。。
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