平成5年版 原子力発電運転管理年報より(市販されている年報です。機密情報ではありません)
なお、最新版は、こちらより閲覧可能ですが、運転実績は直近5年に短縮されています。
とある週刊誌では、1号機はトラブル続きと書かれていますし、わたしも福島の思い出の中で少し触れたことがあります。起動以来の運転曲線を示します。
1970-1973
1974-1977
1978-1981
1982-1985
1986-1989
1990-1992
いかがでしょうか、しょっちゅう止まっては起動を繰り返していたことがよくおわかりだと思います。まだ、この1号機の時点では、東京電力も原子力発電所を手探りで運転していたのでしょう。
「私も、被ばくした」――蓮池透が語る、原発労働の実態(前編)
●多くの人が原発で働き、被ばくしている
私は1977年から2009年まで、東京電力で働いていた。その間、原子力発電所や核燃料リサイクル業務を担当。最初の赴任先は福島第1原発で、そこで3年半ほど計測制御装置の保守管理などを行っていた。例えば原子炉の水位や圧力、中性子などを計測していた。
(中略)
●私も、被ばくした
私は福島第1原発に、計7年ほどいた。そして、被ばくもした。通算で90〜100ミリシーベルトほど、あびている。もう私の命もあまり長くはないかもしれない。
現場では放射線量をたくさんあびた人間は「女の子しか生まれない」という噂がある。私も子どもが3人いるが、全員女の子。もちろん噂話のレベルだが、このほかこんな実話がある。作業員は放射線の異常を知らせるアラームメーターが鳴ると仕事ができなくなる。なのでアラームメーターを外に置いて作業していた。昔は頻繁に、こうしたことが行われていた。
新入社員で原発に配属されると、先輩から「鍛えてやる」と言われた。そしてアラームメーターなどを持って、放射線量の高い場所に連れていかれるのだ。私は福島第1原発1号機にある廃棄物処理建屋というところに連れていかれた。配管をまたいだとたんに、アラームメーターから「ビーッ」という音が鳴った。このように新入社員は“みそぎ”のようなものを受けさされるわけだが、今振り返ってみると「随分無駄な被ばくをしたなあ」と感じている。
私が入社したころはトラブルがあって、原発はほとんど動いていなかった。原子炉に直結している配管にヒビが入っていて、その配管を交換しなければいけなかったのだ。その作業を誰かがしなければいけないのだが、そのとき米国のGEは、たくさんの黒人を連れてきた。当時、黒人には放射線量をどのくらいまであびることができるのかといった制限がなかったので、彼らを連れて来たのだろう。(後略)
運転線図をご覧ください。蓮池氏が入社した当初は、確かにほとんど止まっています。これだけの起動停止を繰り返せば、燃料破損していたことも頷けます。(週刊現代にもそのような記述あり)全体の稼働率は、50%いけばよいくらいか。
恐ろしい話です。私は福島第二原発でしたので、蓮池さんのように先輩から鍛えられることもなく、5年間での被曝線量は、1mSvを遙かに下回る値でした。
ちなみに、東海発電所(廃炉)
こんなに汚いとは・・・
美浜1号機
1970-1973
1974-1977
これは、果たして発電所と呼べるのでしょうか?
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