2011年06月12日

福島原発の立地と初期トラブル−資料・回想録から

週刊現代 6月4日号より
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この記事を見ますと、豊田正敏氏の回想が紹介されており、

運転開始早々から1号機は「最悪の事態」を迎えていたと繰り返し語っている。
「運転開始後、しばらくして大小様々の初期トラブルが多発した。(中略)その中には、燃料チャンネル・ボックスの損傷、原子炉給水ノズルの熱疲労割れ、制御棒駆動戻り水ノズルのひび割れ、燃料破損および1次冷却配管の応力腐食割れなどがあげられる」
「この中、燃料破損は、放射能の高い核分裂生成物が、原子炉水中に漏れ出て原子炉周りの保守点検作業時に被曝がおおきく、作業が困難となり、短時間で作業員の交代が必要となった」
「1号機の試運転を振り返ってみると、当初から予想外の困難に直面した。もちろん原子力技術が発展途上の技術であることは最初から認識していたつもりだったが、認識が甘かった。」


私が、福島の思い出で書きましたこのブログは、やはり正しかったようです。

興味がわきましたので、「福島 30周年記念文集」で検索をかけますと、当時のことを詳細に分析されておられるブログに突き当たりました。私なんかは足元にも及びません。

 この記事を読んで、当時私がうわさ話として聞いていたことが証拠とともに書かれています。いくつか紹介してみます。(時間が許せば、この方のブログをすべてお読みください)

東日本大震災の歴史的位置ー東電関係者が語る地元自治体による誘致の景況
大野駅前通りの商店街はみずぼらしい古い家が散見され、人通りも少く閑としていた。人々の生活は質素で人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。この地方は雨が少いので溜池が多く耕地面積が少いので若い人は都会へ出て行き、給料取りは役場、農協、郵便局のみで福島県では檜枝岐地方と対比してこの地域を海のチベットと称していた。しかし、人々は大熊町まで相馬藩に属しており、隣接町村が天領であるのに比べて「我々は違う」という気位の高さを誇っていた。

 この肉の話は、建設当時からすんでいた人からよく聞かされました。本当かよ。と思っていましたが、事実でした。また、海のチベットと呼ばれていたこと(私は東北のチベットと聞いてました)も。

東日本大震災の歴史的位置ー福島第一原発建設における「原爆体験」と「安全神話」2011年4月7日 by Hisato Nakajima
早速S(大熊町長。イニシャルのみ記す)町長に連絡して地元の人達に集まってもらうことになった。敷地の入口に近い道路交差点の角地にある雑貨店の丸添商店の2階で対話することになった。
原子力発電は原子爆弾と同じように危険であるというのが町民の声であった。
そこで私は答えた。「皆さんは原爆がどのようなものかご存知か、私は原爆を投下したB29とそのあと空に舞い上がったきのこ雲を見ている。多くの負傷者の看護にも当たった。その上私の兄も原爆で戦死した。皆さん以上にその恐ろしさは身に染みて知っている。従って皆さん以上に真剣に原子力発電について勉強しました。原子力発電は核反応を静かに優しく行うように考えられておりその反応が万一予想以上に進むときは2重3重の防御を行い、これでもかこれでもかと安全対策をしているので私は安全だと信じています。いささかの不安があればいくら会社の方針とはいえ肉親を失った私は会社に従わない。何も東京電力しか勤めるところがない訳ではないから私は東京電力を止めます。皆さん今まで申し上げた通り原子力発電は安全ですからご安心下さい。町長さんからお話があれば私共は従います。」と一生一代の熱弁をふるった。しばらく沈黙が続いた。やがて町長が「土木課長がこうおっしゃるのですから、原子力発電は安全だし、いつでも私共の話を聞いて貰えるのですから私に委して下さい。道路が完成すれば幅も広く、路面も舗装され我々にとって大変便利になります」と云はれ出席者一同から賛同を得た。この日を期して構外進入道路工事は測量、建設と順調に進捗していった。


 結局、この安全装置はすべて働かず、原爆と同じ状況となっていることは、皆様ご承知の通りです。

豊田氏の文章
当時、用地問題はほぼ終わったとは言っても、敷地に隣接する富岡町の毛萱地区では集落をあげて強い反対があり、足を踏みいれることも出来なかった。富岡町の議員の中には原子力発電に強力に反対する社会党及び共産党の議員もおり、楢葉町の議員の中にも共産党の議員もおり、楢葉町の議員の中にも共産党の議員がいた。しかし、こちらの方はしばらくして「俺は楢葉町の共産党員だ。地域の発展を考えてくれるなら反対しない」と言ってくれた。また、両町在住の高校の先生を中心に、「公害から楢葉町を守る会」、「相双地方原発反対同盟」などを結成し反対運動が繰り広げられた。

 私は、「全会一致でないと東電は進出しないと条件をつけた。この共産党議員は、トイレに行っている間に採決をとられたことになった。」と聞きました。

福島第一原発の回想から原子力技術の今後に警鐘をならす元東電副社長豊田正敏ー東日本大震災の歴史的位置より
2011年5月6日 - 作成者: Hisato Nakajima
この中、燃料破損は、放射能の高い核分裂生成物が、原子炉水中に漏れ出て原子炉まわりの保守点検作業時に被曝が大きく、作業が困難となり、短時間で作業員の交替が必要となった。また、原子炉水に放出される放射性希ガスが原子炉1次系及びタービン系の弁などから漏れ出し、建屋内の放射性レベルが突如として高くなる現象が見られ、その漏れの場所を調べるため、ビニール・カーテンで間仕切りしたり、テープで密封するなどして、順次測定箇所を絞り込む方法を採るなど大変な苦労があった。

引用していて、背筋が寒くなるような記述である。

福島第一原発の状況を、豊田は次のように回想している。


…原子力発電所の停止期間が大幅に長期化し、一時は福島1号機から3号機まですべて停止するという最悪の事態となり、稼働率は最低19%という事態に立ち至った。
 社内のトップ層からは、「一体何時になったら原子力発電は信頼できるものになるのか。ダメならダメといってくれ。石油燃料を余分に手当てするなど対策を講ずるから。」といわれ、社内外から四面楚歌の状態で肩身の狭い思いをさせられ、また、現場の士気も著しく低下した。


原子力発電所の経済性をよくいわれるが、トラブル続きで稼働率が下がるならば、石油火力のほうがましと社内ではいわれていたのである。

このような経験を踏まえて、豊田は、原子力発電の未来に警鐘をならしている。


信頼性についてもう一つ重要なことは、一般国民特に、地元民の信頼の確保である。このためには、わかりやすくかつ、都合の悪い点も包み隠さず正直に説明することが必要である。いやしくも、虚偽の説明、改竄、捏造などはもっての外である。地元民との親密な接触を行い信頼を得ることが是非必要であるが、最近トラブルも減ってきており、地元民との接触が薄らいで来ているのではないかと懸念される。
 次に経済性については、安全性を大前提に、設計の贅肉を落とし、系統の単純化及びプラントのコンパクト化により、経済性の向上を図ってきた。特にA−BWRでは、従来のプラントに比べて建設費を二割削減することができた。さらに、設備利用率の向上、燃料燃焼度の向上、廃棄物発生量の軽減及び減容化が図られた。近年、コンパインド・サイクル火力発電の登場により、原子力発電の経済性をさらに高めることが急務になっているので、関係者の更なる努力を期待したい。いくら二酸化炭素の排出量がなく、環境に優しいと主張しても、安全性について国民の信頼が得られず、火力発電に比べ割高であれば、原子力発電の将来は暗いといわざるを得ない。


豊田は、次代の技術者の奮起を促しているのであろうが、この文章では、原子力発電は、火力発電より割高であり、安全性への国民の信頼もなく、ゆえにいくらエコといっても、その将来は暗いとしているのである。パイオニアすら、すでに原子力技術については楽観視していなかったのである

 この通りです。原子力は社内的には元々信用されておりません。

青息吐息で運転開始した福島第一原発一号機ー東日本大震災の歴史的位置
2011年5月9日 - 作成者: Hisato Nakajima
池亀亮は、「初号機の誕生」(樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』、2002年所収)で、福島第一原発一号機のトラブルについて語っている。池亀は、GE社との契約担当者で、一号機の運転開始の責任者として、1969年に発電準備事務所次長として赴任している。その彼が、とにかく福島第一原発一号機のトラブル続出について語っているのである。

読んでいると、私が読んでいても信じられないものがあった。配管などの資材の運搬・保管方法が不備で、据付け後大量の錆が流出し、その錆が放射化されたうえ、再循環により管壁に付着し、作業場の放射線バックグランドを上昇させたというのである。さらに、池亀は「加えてこの一号機には運転当初から燃料の破損があり、これも補修作業時の放射線被ばくを増加させる要因となった」と述べている。

また、そもそもスペインの仕様でつくったため、原設計では耐震設計基準を満たせず、結局支持構造物の補強が必要となって、結果として内部空間が狭隘になり、作業員が構造物の間をすり抜けていくため、無駄な時間・被ばくが増大するということもあったとしている。

池亀は、このようなトラブル続出の要因として、本来、先行するスペインの同型炉の建設が遅れ、1号機が同型1号炉となってしまったこと、GE社とターン・キイ契約をしたことにより、かえって、同社と意思疎通ができなかったことをあげている。

池亀は、回想の最後に、次のようなエピソードを語っている。

−営業運転開始
 初期トラブルに悩まされながら、なんとか試運転の試験項目をこなし、一号機は昭和46年3月26日営業運転に入った。
 しかし、試運転責任者である私から見れば、プラントは青息吐息。いつダウンしてもおかしくない状態にあった。本店に運開の報告に行った時には、プラントの状態を正確に認識して貰う必要があると思っていた。
 ところが、本店ではどこへ行っても「よくやった」と言われた。とくに財布の紐を預かる、今は亡き長島副社長からは「100%出力をキープしているのはまことに立派」とお褒めの言葉を頂いた。
 一号機の建設は予算超過の連続で、長島副社長からは常々「原子力は金喰い虫」と叱られていたからこのお言葉は嬉しかった。一方、実は何時ダウンするか分からない状態ですと言い出すきっかけを失ってしまった。
 その後も発電所は何とか全出力で運転継続でき、そのうちに初期故障も次第に少なくなって、プラントの運転状態も安定に向かった。こうして初期故障はなんとか収まりかけてきた頃、次の問題、応力腐食、SCCが起こった。このSCC問題はBWRにとって死活の問題だったが、これはまた別に語られるべき主題である。


「泣き落とし」で福島第二原発建設同意をせまる富岡町当局ー東日本大震災の歴史的位置より 鎌田慧『日本の原発地帯』から
とにかく、部落の代表者の印鑑がほしい。もし、あとで部落総会で反対になった場合、そのときにはこの調印はなかったものにする。このことは絶対に約束する、町の幹部はたちはそう泣きついてきたのである。そのときだされた条件は、つぎのようなものであった。
一、土地を失い、農家だけで経営出来ない者は東電職員として雇用する。
一、失う土地の代替地は当局に於て絶対に保証する


 私の聞いていた通りでした。

富岡町毛萱における福島第二原発建設反対運動の終りー東日本大震災の歴史的位置 鎌田慧『日本の原発地帯』から
部落のひとたちが気づいたときに、賛成派は三分の一の十一戸となっていた。リーダーのひとりがいつの間にか東電側に抱きこまれ、賛成派を集めていたのである。Bさんたちは、ある晩、彼のところへ抗議にいった。
「反対といっていながら、陰にまわって賛成派をまとめていたのはどういうことか」
 Bさんたちが詰問すると、彼は返答のしようがなく、ただ涙をこぼして謝ったという。やがて、彼の息子は東電に採用されて守衛になった。それが寝返る条件のひとつになっていたのであろう。


「男はつらいよ」で反対運動に対応した福島第二原発建設準備事務所長豊田正敏ー東日本大震災の歴史的位置
2011年6月11日 - 作成者: Hisato Nakajima

豊田の説得工作は続いた。次の回想をみてほしい。

町の当事者、議員及びオピニオン・リーダーの方たちには、接触の機会はあったが、一般の町民の方々には接触の機会が少なかったので、その方々の本音を聞き、また当方からも説明をする機会をもつため、夕食後、各集落に映写機を担いで、「男はつらいよ」という映画を上映し、途中フィルムの巻き戻しの時間などを利用して、当方から用意したパネルを使って原子力発電所の安全性を中心に説明し、質疑討論を行った。どの地域にどのような考えを持っている人がいるかが判り、今後の広報活動をどのように進めていくかに大いに参考になった。

「男はつらいよ」の映写会で福島第二原発の安全性をアピールしたというのである。最初、のけぞってしまった。原発と映画「男はつらいよ」は全く不似合に思える。豊田も「『男はつらいよ』という映画」と述べて、そもそも「男はつらいよ」という映画自体にあまり思い入れがなさそうにみえる。

ただ、福島第一原発の広報活動でも、映画会を利用することは行っていた。ある種の手法になっていたようである。

内容も、今考えてみれば、「理屈抜きの誠意を信じてもらう」という点で、「男はつらいよ」でもよかったように思われる。もちろん、このようなことがいいといっているわけではない。このような手法が使われ、その意味で豊田は適任であるというだけである。


 今回は大変勉強になりました。漠然としたうわさ話だった内容が、やはり本当だったのだとわかりました。
中嶋 久人氏にお礼を申し上げます。ありがとうございました。
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posted by いんちょう at 20:00| 原子力