わたしが、会社を辞めたのは阪神大震災、オウム真理教事件のあった1995年。
それから11年後の2006年(平成18年)2月に次のような封筒が届きました。

何となくいやな感じがして、中を見てみますと・・・

放射線疫学調査についてのお願い
財団法人 放射線影響協会は、低線量の放射線が人体に与える影響を調べるため、文部科学省からの委託により、原子力発電施設などで放射線業務に従事された皆様を対象に、平成2年度から放射線疫学調査を実施しています。対象者は現在20万人となっています。
詳しい調査の内容は同封のリーフレットに示すとおりですので、ご一読ください。なお、この調査は、放射線業務従事者(現在原子力発電施設などで放射線業務に従事しておられる方や過去に従事しておられた方)の氏名、住所、被ばく線量等を利用させていただき実施しています。
これまでの調査によると、線量の低い放射線が健康に影響を及ぼしているとの明確な証拠は見つけられませんでした。
また、当協会では、調査結果の公表、講演会の開催、あるいは当協会ホームページ等を通じて、この調査についての広報に努めてまいりましたが、ご存じでない方もいらっしゃるようですので、このたび、ご本人に資料をお送りして、調査の対象者となることについての確認をお願いすることにいたしました。
この調査にご協力いただけない方は、お手数をおかけして大変恐縮ですが、同封の用紙にご記入の上ご返送いただくなど、当協会へのご連絡をお願いいたします。なお、ご協力いただける方は、ご連絡の必要はございません。
この調査は低線量放射線の影響に与える影響を調べるための大切な調査と考えております。より信頼性の高い結果を得るため、今後も、この調査を継続する必要があります。本調査の主旨をご理解の上、本調査にご協力いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
平成18年2月
財団法人 放射線影響協会
理事長 青木 芳朗
東電にいるときの住所は、分かっているのかもしれませんが、この間に
福島の独身寮→東京の独身寮→東京のマンション→熊本のアパート→現在
とかなり引っ越しており、こんな協会に連絡した覚えなどありません。
このような紙

(住民票の交付申請)
6 この調査では、住民票の交付申請を行い、定期的に皆様の住所を確認させていただいております。
毎年1回私の住民票の交付申請を行い、転居の有無などすべて調べ上げていたのです。
(同意できない旨のお申し出)
8 以上をお読みいただいて、この調査の対象者となることに同意しない方は、同封の説明資料「放射線疫学調査の対象者となることに同意しない旨のお申し出について」に従い、財団法人放射線影響協会宛にお申し出ください。なお、この調査の対象者となることに同意いただける方は、特にお申し出の必要はありません。
申し出がなければ、同意したと見なす。・・・恐ろしい話しです。
パンフレットはさらに恐ろしい。
(表紙)

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調査の必要性
放射線業務に従事する人に対する被ばく限度は、国際放射線防護委員会(以下「ICRP」といいます)の勧告を基礎にして定められています。ICRPは、短時間に多くの放射線を受けた広島・長崎の原爆被ばく者等に対する健康影響の研究結果に基づき、「放射線が人体に与える確率的影響は、被ばくした放射線量に比例した一定の割合で低線量でも現れる」と仮定し、その影響が社会的に容認できるように線量を制限するという考えをとっています
しかし、低線量放射線の長期被ばくによる人体への影響は、十分には確認されておらず、今後さらに調査を続けることが必要と考えられています
注:1mSv/year です。
現在は御用達学者が 低線量放射線の長期被ばく は、大丈夫、かえって健康によいと話しているようですが、すくなくともこの時点では、十分には確認されていない のです。
調査・解析の方法
(前略)調査は、放射線従事者中央登録センター(以下「中央登録センター」といいます)から登録番号、氏名、性別、生年月日等の情報の提供を受け、次いでこれらの方について原子力事業者等から住所情報の提供を受け、その住所地の市町村から住民票(除票を含む)の写しを取得することによって行っています。死亡が確認された方については、厚生労働省の人口動態調査死亡票と照合することにより、死因を把握します。また、調査対象者となる方の被ばく線量の累計(累積線量)は、中央登録センターに登録されている線量記録の提供を受けて計算します。
収集した死因、被ばく線量情報等は、統計学的に整理し、解析します。解析する対象集団について、死因別に死亡率を一般の日本人と比較するとともに、累積線量の多少と死因別の死亡率との関係の有無の解析を行います。
つまり、調査対象者は毎年住所を把握され、死亡したときは本人の承諾なく死亡届の病名まであくまでも合法的に調べ上げられるのです。


(6)人口動態調査死亡票
戸籍法の死亡届に基づいて市区町村長が作成した人口動態調査死亡票を厚生労働省が集計しています。この統計は統計法に他定める指定統計なので、本来の目的以外に使用することは原則として禁止されていますが、専門的な学問的研究であり、公益性が高いものについては総務大臣の承認を得ることによってその使用が認められています(統計法(昭和22年法律第18号))本疫学調査では志望者の死因を特定するために人口動態調査死亡票を使用することとしており、第II期調査(平成7年度〜11年度)においては総務庁長官(当時)に使用が認められました。

速効で出した返事

放射線影響協会のホームページ
設立の経緯と目的
広島、長崎原爆後の原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)
沿革 [編集]1945年8月広島・長崎に原子爆弾投下
9月 アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院に収容された被爆者から陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、都築正男博士、Dr. Oughterson、Dr.Warrenによる日米合同調査団を編成、約1年間の被爆調査が行われた。ここでの収集資料の解析に日本の研究者の参加は認められず、全調査資料が米国に送られ、アメリカ陸軍病理学研究所に保管された。[3]
1946年11月 原爆放射線被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国科学アカデミー−米国学術会議(en:United States National Research Council ; NRC)が行うべきであるとするハリー・トルーマン米大統領令が出され、10日後に4人の専門家が広島入り
1947年3月広島赤十字病院の一部を借り受けて原爆傷害調査委員会(ABCC)開設
1948年1月厚生省国立予防衛生研究所広島支所が正式にABCCの研究に参加、ABCCが広島市宇品町旧凱旋館に移転
3月 主要遺伝学調査開始
7月長崎ABCCを長崎医科大学附属第一医院(新興善小学校)内に開設
10月主要小児科研究プログラムを長崎で開始
1949年3月主要小児科研究プログラムを広島県呉市で開始
7月比治山で地鎮祭を行い、研究施設の建設を開始
1949年8月ABCC被爆者人口調査開始
11月長崎ABCC、長崎県教育会館へ移転
1950年1月白血病調査開始
8月成人医学的調査を広島で開始、その後長崎でも開始
10月国勢調査の附帯調査として全国原爆被爆生存者調査を実施、全国で約29万人を把握
11月比治山研究施設工事が完了、移転開始
1951年1月胎内被爆児調査開始
1952年1月死亡および死因の試行調査開始
1953年12月広島ABCC施設内に10床の病室設置
1955年9月剖検に協力した被爆者の第1回追悼法要(広島市寺町徳応寺)
11月アメリカ原子力委員会(AEC、現エネルギー省)と学士院、学術会議でつくる「ABCCに関する科学的再検討特別委員会(フランシス委員会)」が研究計画の大幅見直しを提案、固定集団を基盤とする「統合研究計画」を勧告
11月 第1回ABCC日本側評議会を開催(東京)
1958年7月成人健康調査開始
8月国立予防衛生研究所(予研)と寿命調査に関する同意書が交わされ、日米共同研究体制の基盤が確立
1966年6月第1回ABCCオープンハウス(長崎)
1975年2月米国科学アカデミー視察団来訪、のち3月26日付でABCCに関する科学的再検討特別委員会の報告を作成
4月広島・長崎で放射線影響研究所開所式、広島で第1回理事会開催[4][2]
ABCCは何をしたか から
資料館のABCCの説明には、「原爆の人体への影響を長期的に調べるため、1947年にABCC(原爆障害調査委員会)が広島・長崎両市に設けられました。1951年、市内比治山の高台に移り本格的な施設が整いましたが、市民からは『研究、調査するだけで治療行為をしない』と、その活動を批判する声もありました。
1975年に日米対等で管理・運営されることになり、(財)放射線影響研究所(RERF)として改組されました。」
占領軍とABCCがどのようなことをしたのかは具体的には書かれていませんので、新聞記事や証言で見てみましょう。
◎記事
1.ABCCに関する朝日新聞の記事(1998年7月29日付)。記者(添田孝史)の質問に答えたのは、87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして、被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授。
Q: ABCCの研究は軍事目的だったのですか。
A: 研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がないニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった。
Q: ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。
A: 治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ。ABCCは、多い時は千人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて一人ひとりにインタビユーし、亡くなった7500人を解剖した。
(記者のコメント)現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆二世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。
2.「葬られた原爆展・スミソニアンの抵抗と挫折」(1995年、五月書房)より。
『米国政府は、放射能が多数の人口に及ぼす影響をよりよく理解するため、1947年に米国防総省学士院の後援で原爆傷害調査委員会(ABCC)を発足させた。この委員会は結局12万人の原爆生存者を確認し、その人たちのいた正確な場所と放射線量を確認し、長期にわたって健康状態を調べることになった。この調査委員会は犠牲者に対し治療をしなかったので、日本で厳しく非難された。治療をしないという決定は二つの理由からだった。それは、日本の医者から患者を奪いたくないことと、生存者を治療すれば爆撃した罪を認めることになるからであった。日本人の側からすれば、合衆国政府はこの調査委員会を通し、日本への原爆投下を一つの実験として、生存者をモルモットと見なしているとしか思われなかった』
◎証言
1.深川宗俊氏「広島はたたかう」より(1966年、胎内被爆者・被爆二世を守る会発行)
1945年8月6日、広島市内の救護所、病院は全滅しました。多数の救護班や救援隊が県内・県外から送られて来ますが、日本の調査団の貴重な調査研究は、すべて米軍の占領軍の命令で没収されました。原爆に関する研究発表も、原爆をテーマにした芸術作品も、9月19日に米軍が実施したプレスコードで、私信まで検閲されました。当時宇品にあった原爆救護病院も10月14日、米軍メイソン大佐らの手で、それまで行った調査結果の提示を求められ、あらゆる研究資料や剖検材料を没収しました。メイソンらは、それは作戦行動の一部であると脅したのです。
アメリカはABCCの敷地について、元宇品と比治山を要求したが、広島市は強く反対の意向を伝えました。「どうしても反対すれば、広島市にとっても日本政府にとってもいい結果にはならない。」というGHQの殺し文句でけりがついたのです。占領中はこのような殺し文句が大手を振って通ったのです。学校の授業中でも子どもが連れ去られたり、街で遊んでいる子どもにチョコレートなどをばらまいて、ジープに乗せていったりしたのです。それに反すると、軍法会議にかけると脅すのです。ある少女の場合は、一糸まとわぬ裸にされたうえ、前・横から写真を撮られ、それを気にやみ精神異常をきたしたそうです。
2.岡村ヒサさんの証言
私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。
何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。
3.講談師、久保浩之さんの証言
妻は的場の電停にいましたが満員で次の電車を待っていて原爆に遭いました。前の電車に乗っていたら助からなかった。その後ABCCが何度も呼びに来て、最後は憲兵(MP)と一緒に来て、強制的に比治山の施設に連れて行かれた。抵抗すると軍法会議にかけると脅され、泣きながら採血され、脊髄液も取られた。また、ABCCは死産した奇形児などの胎児を渡すと、内緒で報酬がもらえた。
4.知人の女性の証言
ABCCで脳を取られて、返された子どもの様子を今でも鮮明に覚えている。頭部は目だけが見えるが、他の部分はすべて包帯でグルグル巻きにされて、悲惨な状態だった。
5.当時の女学生の証言
2年後、ABCCが市内の学校を回って、ケロイドのある生徒を教室の外に連れ出して写真を撮っていた。私の学校にもやって来たというので、私はまだ戸が付いていない出口から走って逃げた。