私は、福島第二原発に配属されましたが、その際に先輩から
「柏崎でなくてよかったね。あそこは反対運動が強いから大変だよ。福島はそんなこと全くないから、安心していいよ。」
と。私はそれを今までずっと信じてきました。(福島で立地買収の時に少し苦労したという話しだけ聞きました。寮母さんのご主人の話)
が、調べてみるうちにそんなことは、とんでもない。海のものとも山のものともつかぬ状態だった福島第一の立地時代と比べると福島第二は、もう反対運動が起きているのです。
立地時のトラブルに関しては、
「日本の原発地帯」 鎌田 慧著 が詳しい。
以前も紹介しましたブログから
『東京電力三十年史』では、福島第二原発を、第一原発の南方10kmの富岡・楢葉両町の境界地点に建設する方針を決めた時点を1965年9月としている。…そして、東京電力としては、「当社は地域に対してこの構想を打診し、地元意思の熟成を待った」としている。
『楢葉町史』によると、1967年11月25日に「富岡、楢葉、広野、川内の四ヶ町村で、南双方部総会(合の間違いか)開発期成同盟会結成(会長富岡町長)」となっている。『東京電力三十年史』では、四ヶ町村の町村長・全町村会議員が出席したと記載されている。そして、11月27日には、期成同盟会は、企業誘致を県知事に陳情した。…『楢葉町史』では、1967年12月25日に、楢葉町長と富岡町長が南双開発に関する話し合いをもったとされている。その上で、翌26日に、楢葉町は「南双開発のため、第二原子力発電所建設地として、波倉小浜作地内を部落地権者に発表、協力を要請」(『楢葉町史』)したのである。…福島県知事は、1968年1月4日に、「東京電力が第二原発建設を決定」(『楢葉町史』)と発表した。
このように、すでに1965年頃より、東電は福島第二原発の候補地を決めていたが、たくみに、地元富岡町・楢葉町に自発的に誘致させる形をとったのである。そして、前のブログにも書いたが、富岡町・楢葉町に誘致させるにあたっては、福島県側の強い働きかけが前提であった。
鎌田慧『日本の原発地帯』(1988年)より
四二年(1967)十二月十一日 午後五時十分 晴 役場総務課長(猪狩輝記)来宅
南双地区開発の為向山地区に大工場誘致を計画し、県も本腰を入れて来たので実地検分したい。明十二日午前九時より楢葉役場より二、三人くることになっているので、区長も立ち会って欲しいと話あり、立ち会うことを約す。其の間二五分なり
十二月十二日 午前九時 火 晴
区長として立会いを約すも、私一人よりはと思い副区長石井一郎氏に朝食前話し、同時に立会いを求め承諾を得、八時四〇分、町より遠藤助役、総務課長、長野書記が自動車にて毛萱橋に来る。石井氏宅で楢葉町役場の方々の来るのを待つ。約三〇分。
楢葉町役場より助役、公民館長他二人ジープにて来る。自動車に分乗して向山に至る。先ず、中の沢地区の海岸線を約十五分程見る。ところが、五万分の一の地図を出し、赤線の枠内をみて拡大するに驚く。これ程の大きな地域を必要とする工場とは何か、と総務課長に問うも何工場か不詳ぬと言う。
其の後、小浜作及波倉の部落頂上迄行き其処で、こんな凸凹の激しい場所に来る工場とは何かと問うも不詳ぬと言う。十一時頃、自動車にて私宅迄帰る。全員で約三十五分間程茶を飲み帰る。其の間世間話しで内容等全然不明なり
正直な話しをすれば、反対運動が起きるのはわかっているから最初からだまし討ち。「正直」という言葉は、原子力村には一切ありません。
原発反対の強化 三原則
一、話し合いには絶対に応じないこと
一、だんまり戦術により多忙な様に仕事する
一、印は絶対に押さないこと
(イ)部落一致団結して堅く三原則を守り勝ち抜く
(ロ)町当局の策戦として各要人を差配して話し合いの糸口を見つけ出そうとしております。地権者挙げてこの謀略には乗せられない様たしかめましょう
毛萱原発反対委員会
各位殿
原発に就て寸言
先方のずるいやり方に注意しましょう。
境界がはっきりしないから立ち会ってくれとか、あるいは杭ぐらい打たせてくれとかで甘言を以てくる場合、うっかり立会いしたり話したりすると、既に承諾したものと見做すとして測量に取り掛りますから、この点お互いに注意しましょう
話し合いには絶対に応ずるな。仕事場にいっても相手にするな
話し合いになれば測量することになる恐れあり
今は役人は泣きおとしみたいなことを言う
成り立ちからして、まさしくとんでもありません。「白を黒と言い含めるなんて、お茶の子さいさい。罪悪感など一切なし」
富岡町毛萱における福島第二原発建設反対運動の終りー東日本大震災の歴史的位置
部落のひとたちが気づいたときに、賛成派は三分の一の十一戸となっていた。リーダーのひとりがいつの間にか東電側に抱きこまれ、賛成派を集めていたのである。Bさんたちは、ある晩、彼のところへ抗議にいった。
「反対といっていながら、陰にまわって賛成派をまとめていたのはどういうことか」
Bさんたちが詰問すると、彼は返答のしようがなく、ただ涙をこぼして謝ったという。やがて、彼の息子は東電に採用されて守衛になった。それが寝返る条件のひとつになっていたのであろう。
さらに、『日本の原発地帯』では、その後の毛萱部落の景況を次のように語っている。
条件派が旗揚げすると戸別訪問はさらに激しくなった。代議士、県議、町議が入れ替り立ち替りやってきた。県の職員は海岸にテントを張って泊りこんだ。ことさらテントで寝起きしなくても、ちかくの旅館から通えばすむことなのだが、一種の威嚇ともいえる。あとは、お定まりの、あそこもハンをついた、ここも承諾した、がんばっていても、強制収用されて元も子もなくなるぞ、とまわって歩くのである。こうして、毛萱部落は集中砲火を浴びることになった。部落内でも強い家と弱い家との差が現れるようになった。
このように、代議士、県議、町議、県職員による、戸別訪問が繰り返され、毛萱部落の人々は個別に撃破されていったのである。
なお、この交渉にあたったのは福島県であって、東電が直接交渉にあたっていないことにも着目しなければならない。『楢葉町史』第三巻では、1969年7月31日の項に「福島県開発公社に対し、用地取得、漁業補償業務委託」とされている。福島第一原発同様、福島県開発公社が用地買収を担当したのである。このことは、原発誘致における福島県の主導性の現れといえる。もちろん、東電においても、福島県が交渉を担ってもらうことは都合がよかったに違いない。
そして、『日本の原発地帯』によると、毛萱部落の反対運動は、次のような結末を迎えるにいたった。
七〇年八月、部落内だけの運動ではもはや耐え切れなくなっていた。
「どうせ駄目なら、みんなで謝るべえ」
Aさんは負けた心境をそう語った。部落に亀裂を深めないための弥縫策である。
八月下旬、部落集会に県知事がやってきた。異例のことである。当時の知事は、のちに全国知事会長にまでのぼりつめたあと収賄容疑で、逮捕、転落した木村守江だった。知事は全面的な協力を申し入れた。部落からは二十七項目にわたる要望書が町当局に提出された。富岡駅から部落にわたる踏切りを立体交差にしろ、川を改修しろ、道路を改修しろ、防波堤を強化しろ、港をつくれ、炉心から一キロ以内に社宅をつくって東電職員も一緒に住め、などである。これらにたいして、町は「検討する」と回答したまま、いまなお実行されていないのがほとんどである。
毛萱部落の反対運動は、部落組織が基盤となった。そして、結末もまた、部落集会で行われ、そこに福島県知事が同席して行われたのである。このような結末は、まさに部落の亀裂を融和するためであっただろう。最初、部落集会を無視して交渉が始まったが、最終的には、部落集会に県知事が出るという形で収拾されたのである。部落組織の重要性が、ここにもうかがえるのである。
日本の原発地帯には、このほか
・福井
・伊方
・柏崎
・島根
・下北
・人形峠
・巻町
がのっています。いずれの地域においても、こんなことが日本で行われていたんだと愕然とする内容ばかりです。
ほとんどなにも知らずにのほほんと福島で勤務していた5年間に対して、本当に申し訳なく思います。
寮母さんから
「どうしても納得しない人には、子どもの就職の世話で落とした。」
「反対派に見つからないように、夜中に会合を持ったりした」
とは聞いてました。この方のご主人がもしかすると、まとめをされていたのかもしれません。そういった経緯もあり、寮母さんになられていたのでしょうか。今となっては、もうたずねることもできません。(堀川さんだったでしょうか。お名前は。はっきりとは記憶しておりません)
独身寮にすんでいる人数と食堂のまかない、(個室のぞく)部屋の掃除をする人などサービスに携わる人の人数がほとんど同じ(寮生 20数名足らずと、 サービス関係者 10名以上)でしたね。そういえば。
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