なにか知りたいことがあるならば右側の検索ボックスを。(Googleは複合検索可能)
ブログ記事は、引用元リンクを明示の上ご自由にお使いください。
既に紹介した動画ですが、この中で紹介されている双葉厚生病院について調べてみました。
<動画再紹介>
(2011.3.13の画像)双葉厚生病院の位置

正面玄関


待合室の中


線量は、病院内でも 19.99 マイクロシーベルト以上

取るものもとりあえず、逃げ出した・・そんな感じです。まるで、難破船のメアリー・セレスト号を思い出させます。
この双葉厚生病院で表に出ているのは、このくらいです。
東電社員、警察官、自衛隊員…原発事故で被曝した人2011.3.14 23:43
東京電力の福島第1、第2原発事故でこれまでに被曝した人は次の通り。(発表内容に重複がある可能性があり、被曝の定義は発表者の判断による)
【政府災害対策本部発表】
▽東電社員9人と協力会社8人の計17人が顔面に放射性物質が付着
▽蒸気を外部に放出する作業をしていた作業員1人が被曝
▽警察官2人が被曝したが、除染完了。ほかに被曝した消防官は確認中
▽双葉厚生病院から避難していた3人が被曝 ▽バスで避難していた9人が被曝
【東京電力発表】
▽水素爆発で作業中にけがをした男性社員ら6人が被曝。うち5人は除染済み
【文部科学省発表】
▽水素爆発で作業中にけがをした男性自衛隊員が被曝
【新潟県発表】
▽原発周辺の放射線を調べるため福島県に派遣した職員2人が微量の被曝
衆議院議員 徳田毅のブログより抜粋
http://ameblo.jp/tokuda-takeshi/entry-10863321501.html
そして及川副院長の話から驚愕の事実を知る。
3月12日の一度目の水素爆発の際、2q離れた双葉町まで破片や小石が飛んできたという。そしてその爆発直後、原発の周辺から病院へ逃れてきた人々の放射線量を調べたところ、十数人の人が10万cpmを超えガイガーカウンターが振り切れていたという。それは人から人へ二次被曝するほどの高い数値だ。
しかし、そこまで深刻な状況だったとは政府から発表されていない。病院に立ち寄ることなく、被ばくしたことも知らずに、家に帰って子供を抱きしめた人もいたかもしれない。
そこで爆発から2時間後の枝野官房長官の会見を読み直してみた。水素爆発は起こったが、格納容器が破損していないことを確認した。従って原子炉格納容器内の爆発ではないことから、放射線物質が大量に漏れ出すものではない、と述べている。
13日での会見では、バスにより避難した双葉町の住民の皆さんのうち、9名が測定の結果、被ばくの可能性があることを発表した。この9名のうち4名の方が少ない方で1800cpm、多い方で40000cpmの数値。その上で専門家の判断によると、こうしたものが表面に付いているという状況に留まるならば、健康に大きな被害はない、とも述べている。南相馬市立総合病院で確認されているだけでも十数人が高い数値を示していた深刻な状況が、政府には情報として上がっていなかったのだろうか。もし情報が上がっていなかったとしたら、官邸の情報収集能力と危機管理の観点から問題であり、情報が上がっていたのに意図的に正確な情報を伝えなかったのであれば、、
それは政府による隠蔽であり、犯罪に近い行為と言える。
これだけではよくわかりません。幸いm3.comに記事がありましたので(医師のみ会員資格あり)、ここで紹介させていただきます。かなり長いので、一部の抜粋です。本来、この記事は公開されるべきだと思います。
「病院丸ごと避難」、当初は全く考えず- 双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く
ライフラインは確保、地震直後に帝王切開手術も
2011年8月11日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
――双葉厚生病院から、福島第一原発の距離は。
約4kmです。肉眼でも、原発の建物が見える距離です。
当院のある双葉郡は、8村町から成り、人口は約7万3000人、高齢化率24%。大学と県と厚生連の三者が協力して地域医療を再構築しようということで、地域医療再生計画を利用して、病院の再編を進めていました。2011年4月から、当院と県立大野病院を統合し、再スタートする予定でした。主に入院医療を担う「ふたば中央厚生病院」と、外来中心の「ふたば地域医療センター」への再編統合です。将来的には、410床規模の病院に集約して、一つの大きな病院に育てる予定でした。
その直前、まさに準備の最中に3月11日の地震が起きたのです。
――地震による病院の被害は。
物はかなり倒れましたが、診療はできる状態でした。電気は使え、水道はタンクの貯留がありました。ガスはダメになりましたが、地元の農協にプロパンガスをすぐに準備してもらいました。MRIは使えませんでしたが、CTや手術室は使用可能で、午後7時近くには帝王切開手術で女児が誕生しています。
――負傷者はどのくらい受診されたのでしょうか。
地震発生直後から、翌3月12日の午前6時までに来たのは、56人です。重症の患者さんは4人で、重症骨折+右股関節脱臼、内臓損傷、溺水+呼吸不全の3人はDMATが福島県立医大に搬送、溺水の1人はドクターヘリで同じく医大に運んでいます。
――あまり多くはない。
津波の被害に遭われた方は、たくさんいます。また病院に来る手段がなかった。車を流された方もいるでしょう。道路が地割れしていたので、救急車なども動けなかったので、自力で来た方が多かった。他の被災地の方に聞いても大抵そうですが、最初のうちは患者さんが少なく、翌朝から来ている。当院でも今後、患者さんが増えることを想定して、外来ロビーなどにマットレスを引いて準備をしていました。ここまでは普通の災害医療への対応です。

しかし、翌朝、明るくなって、「さあ、これから患者さんが来るぞ」ということで、体制を建て直していた時に、警察官が病院に入ってきて、「逃げろ」となった。
後から思い出しながら記録したので、多少時間が違っているかもしれませんが、3月12日の午前6時に対策会議を開いた後、6時30分くらいだと思います。いきなり、警察官が病院に入ってきたのです。
「玄関から誰かが入ってきた」となり、何だ、となった。放射線防護服を着ていたので、「何、仰々しいことやっているんだ」、「こんな派手な格好しなくてもいいじゃないか」とも思った。自衛隊の人も来たのですが、普通の制服姿でした。
警察官とは、1時間ほど、もめました。「放射性物質が飛散しても、収まるまで病院の中にいればいいでしょう。なぜ逃げなければならないのか」と。入院患者さんも多数いましたし。
――県などから情報は入らなかったのでしょうか。オフサイトセンターとか。
オフサイトセンターで本来、連絡をするべき人は皆、いなくなってしまったのでは。後から聞くと、県立大野病院では、その時点で既に避難が始まっていました。院長はこちらに連絡をしようと思ったそうですが、電話が通じなかった。少なくても、双葉町役場からの直接の連絡はなかった。役場からは歩ける距離なのですが……。その頃は、住民の避難始まっていたんですね。また防災無線は鳴っていたそうですが、聞こえない。警察官が来てくれたということは、県の指示なのでしょうが。結局、情報源はテレビのニュースだけでした。
警察官とやり合っても、なぜ逃げなければならないのか、きちんとした説明はありませんでした。結論から言えば、午前7時すぎ、テレビで、「内閣総理大臣が、半径10km圏内の住民の避難を指示した」というニュースが流れた。「総理大臣が言うのであれば、言うことを聞かなければならない」ということで、職員に避難することを納得してもらった。それまでは、職員の誰も、「逃げましょう」とは言わなかった。だから、「逃げよう」と私が説得するのが大変だった。
――テレビのニュースが最終的な決断を促した。
電話は通じたり、通じなかったり、という状況でした。最終的に避難を決定したのは、午前7時30分頃です。
――警察とは1時間くらいやり取りして、避難を決断した。
その時点でも、すべての入院患者を避難させることは考えていなかった。先ほども言いましたが、救急車もドクターヘリもなかったので。自力で動ける人はいいでしょう、ということで、精神科の患者さんと、一般病棟の何人かの避難準備を始めました。自力で動けなかった40人を残し、96人に警察の指示に従い、バスや自衛隊で避難してもらいました。食料と医薬品、そのほか必要なものと一緒に。
――中断後、避難を再開した。
実際に避難を開始したのは午前8時30分、約1時間後に中断、再開したのは12時頃です。その間、我々は病院の中で待機していました。警察官も疲れた様子でしたが。自衛隊の方も大変だったと思います。なお、この間にも、帝王切開手術で今度は男児が誕生しています。
再開後、点呼をやり直し、バス1台に必ず職員1人を付け、容態が悪い人がいる場合には医師が同乗しました。川俣方面にそれぞれ向かいました。
――皆さんは、すぐに戻って来ることができる、という認識で避難されたのでしょうか。
「警察が言うから、避難しようか」と。ぐずぐずとすねていても仕方がない。ですから、重症患者さんについては避難させるまでもないと考えていました。私たちは周囲の状況をあまりつかめていなかった。後から知ったのですが、その頃、既に「炉心溶融」などが起きていた。それを知っていたら、私たちもすぐに避難していたはずです。
双葉町は津波の被害も受けていたこともあり、その頃までには住民も避難、周囲は静かになっていた。病院の中だけに人がいる状態でした。どうもおかしい、と思っていましたが、本当に、この状況が分かったのは、県の災害対策本部にいた県立医大の教授からの電話です。「そんなに悠長なことをしている状況ではない」と言われたのです。
県の災害対策本部にいた、県立医大の教授とようやく電話がつながり、事態の深刻さを知ったという。「炉心溶融などが起きていると知ったら、私たちもすぐに避難していたはず」(重富秀一氏)。
――それまでも県の災害対策本部には電話をかけていたのでしょうか。
はい、何度もかけていた。つながったり、つながらなかったり。つながる相手が、担当の事務職員だったり、単に電話を受ける人だったり、その都度、違う。それでも、「患者さんを避難させろ、というのであれば、救急車やドクターヘリが必要だ」と要請していた。
重症の患者さんを40人搬送するのであれば、救急車は20台必要。当院にあるはずはありません。ドクターヘリを使う場合でも、ヘリが到着できる近くの場所まで、どうやって患者さんたちを運ぶのか。やはり救急車が必要です。しかし、県は「救急車の都合が付きません」と。そのやり取りを繰り返していた。埒が明かなかった。県立医大の教授にも、何度も電話したが、本人とは話せなかったので、「重富から、電話があったことを伝えてくれないか」と伝言を残しておいたのです。
そしたら先生から電話が来たのです。先生も30回も、40回もかけたみたいで、それでようやくつながった。「いったい、何をやっているのですか」と。私は、「全然、状況が分からない」と答えたところ、「今、そこ(双葉厚生病院)にいる状況ではない」と説明してくれた。それでようやく災害救助ということで、自衛隊のヘリコプターで脱出することになり、「ヘリコプターが到着する双葉高校のグランドに移動を」と指示をもらったのです。
それまでは、通常の避難だった。電話がつながった以降は、緊急脱出。だから意味合いが全く違ってきた。要するに、今度は自分の意思は無関係。だからもう後は指示に従って動くしかなかった。患者さんに負担がかかるとしても、自衛隊の車で運び、ヘリコプターに載せなければいけない。
この指示がなければ、全員退去は決断できませんでした。40人もの重症患者がおり、危なくて避難はできなかった。
全員退去を決め、自衛隊のヘリコプターの救援を待つため、双葉高校のグラウンドに移動を始めたのは、午後2時くらいだったと思います。何往復もしているその時に、1号機が水素爆発したのです。午後3時36分です。
その時、避難誘導していた職員と患者の半分ぐらいは、双葉高校のグランドにいたので、爆発を目撃しています。爆音はものすごかった。「死ぬかと思った」、「この世の終わりだと思った」と言った職員もいました。1号機爆発の時は、3号機爆発時よりは放射能漏れは少なかったですが、建物の断熱材などか、白い粉がパラパラと降ってきた。それを触った人もいました。幸い、後に行った放射線のスクリーニング検査では、問題はありませんでした。
私は病院の中にいましたが、「ドカン」とものすごい音がした。初めは、プロパンガスが爆発したのかとも思ったけれど、窓の外を見たら、白煙が上がっていた。
爆発後は、避難を中断、屋内退避をした。その後、再開し、最終的に全員が双葉高校のグラウンドに移動した時には、午後5時くらいになっていた。既に周囲は薄暗くなっていました。
3月12日時点での入院患者は136人。一般病棟患者80人のうち、転院したのは55人、退院21人、死亡4人。精神病棟患者56人中、転院53人、施設入所1人、退院2人です。
ざっと抜粋しました。最初のルポが入ったのが、3/13ですから、その前日に病院はもぬけの殻となっていたようです。
この文章で全体の三割ほどです。全てを公開していただけるようm3.comの方にお願いいたします。(このブログをチェックされているようです)・・m3会員の方は、リンクをたどってお読みください。
コメント欄で紹介いただいた双葉厚生病院薬剤師の証言
100万アクセスありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
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注意。
この双葉病院は精神科の病院で、双葉厚生病院とは場所も何もかも異なります。参考資料として、紹介しておきます。
福島第1原発 苦渋の90人放置 南西4キロの双葉病院(毎日新聞)ほか から
3/21追記
このブログ記事のコメント欄に寄せられた情報を掲載する。「双葉病院の医師が、ある掲示板(closed)で当時の状況を本日報告されました。全文コピーします。」とのこと。以下、上記でまとめた状況と矛盾しない情報が寄せられている。
私は今話題になっている双葉病院の医師です。 私自身避難先の病院にいますが、やっとこの掲示板を読み書きする余裕ができました。とりあえず私が経験したり院長から直接聞いた情報を書きます。賛成も反対も要りません。 皆様に事実を知っていただきたいと思います。
双葉病院は350床の精神科病院ですが、地域の認知症の患者さんを多数受け入れており、約半数が老人で寝たきりも多く、TPNの患者さんがが20数名、経管栄養が30名以 上いました。
3/11の地震直後に電気・ガス・水道は止まったものの、病院の建物は無事で、職員・患者さんに全く怪我はありませんでした。海岸から離れているため、津波の被害も全くあ りませんでした。 地震当日は帰宅困難な職員が泊り込み、救援物資が届くまで食事や経管栄養の回数を減らす、点滴速度を下げるなどの対応で凌ぐことにしました。
しかし翌日、原発事故のため第1原発から2キロだった避難指示が10キロになり、病院が避難エリアに入ってしまいました。このまま病院に留まっていても避難エリア内のライ フラインの復活や救援物資は全く期待できないため、大熊町に避難のバスを依頼しました(大熊町はバスを依頼するまで病院の職員と患者さんが残っていることを知りませんでし た)。
町から大型バス5台が来たため、自力で歩ける患者さんを中心に209名の患者さんと私を含め数十名の職員が5台のバスと数台の病院の車に乗って、数日分の薬と非常食を積ん で大急ぎで避難しました(避難したのは最初の爆発の2時間前でした)。この時は一時的な避難で、病院に数日以内に帰ると思っていました。私たちの出発時に院長は病院に間違 いなく残っていました。
最初に避難した209名の患者さんと職員は三春町の避難所(学校の体育館)で一泊し、翌13日にいわき市にある関連病院にバスで避難しました(2 名の患者さんは避難所で家 族に引き渡しました)。いわき市に避難した患者さんは、多くの病院の先生方のご協力を得て、殆どの患者さんが1人も亡くなることも病気が悪化することもなく茨城、埼玉、東 京、山梨、神奈川の病院に無事入院させていただくことができました(茨城と山梨の先生方はバスをチャーターして迎えに来ていただきました)。
また、患者さんを連れて各病院をバスで回ると、「空のバスで帰るのはもったいない」といってたくさんの支援物資を乗せて頂きました。ダンボールに書かれた「ガンバレ!」と いうメッセージを見て涙が出るほど嬉しかったです。
さて、病院に残った院長と数名のスタッフは、1回目の水素爆発の後も電気も水道も通信手段もない(携帯も公衆電話も不通)病院で点滴やオムツの交換をしつつ次の救援を待っ ていたそうです。
自衛隊の救援が来たのは、丸2日後の3/14の午前で、近くの老健の入所者98名と双葉病院の寝たきりの患者さん30名をバス8台で連れて行きました。その後院長を含む4 名が警察官と共に次の救援を待っている間に3回目の水素爆発があり、3/15午前1時に警察の車で強制的に川内村まで避難させられたそうです。
院長一行は川内村から再び病院に戻ろうとしましたが、避難指示のエリアということで戻ることは許可されず、1回目とは別の自衛隊員だけで最後まで残された90数名の患者さ んを避難させたそうです。自衛隊によって避難させられた患者さんは、名前も病名もわからない状態で医療機関や施設に収容され、中には亡くなった患者さんもおり、各病院の先 生方にはご迷惑をおかけし、大変申し訳なく残念に思っております。
以上の経過の通り、患者さんが全員避難するまで院長は病院に留まろうとしていたのにもかかわらず、強制的に警察に退避させられたのです。間違っても患者さんを置いて「逃げ た」わけではないのです。
おそらく最後に患者さんを避難させた自衛隊員の報告を聞いた県の担当者が、何の裏づけも取らず「なぜ入院患者だけがいたか、現段階では分からない。避難する中で混乱が起き ることはあるが、もし高齢者だけを置いて避難したとしたら許せない」と発言し、新聞が横並びに報道したものと思われます。後になって県は訂正しましたが、果たしてどれほど の人がこの訂正を知っているでしょうか?
今回の地震では、殆どの病院スタッフが被災しています。家を流されたり家族の安否がわからない状態で患者さんたちと共に避難しサポートをしている中で、病院と院長の名誉を 傷つけ、私たちの心を踏みにじるようなコメントを軽々に発した福島県を絶対に許すことができません。
以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
m3.comに掲載された文章全文(のぞく 写真)
「病院丸ごと避難」、当初は全く考えず- 双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.1
ライフラインは確保、地震直後に帝王切開手術も
2011年8月11日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
この記事に対する医師のメッセージ数: 5件
福島第一原発事故では、多くの医療機関が様々な形で被害を受けた。その一つが、福島第一原発から約4kmの場所にある、双葉町の双葉厚生病院。近隣の福島県立大野病院との統合を4月1日に控えた直前、今回の被災に遭い、入院患者全員の緊急避難を迫られた。従来から、原発周辺地域では訓練を重ねてきたが、今回のような事態は想定されていなかったという。「警戒区域」にある双葉町には今もなお、地域住民は戻れず、病院の先行きは見えない。
事故当時や避難の状況、職員の現状や福島県浜通り地域の医療のあり方などについて、双葉厚生病院院長の重富秀一氏にお聞きした(2011年8月3日にインタビュー。計5回の連載)。
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――原発事故前、どんな訓練をされていたのでしょうか。
重富秀一氏は、「初期被曝医療機関は、その場にとどまって治療ができるのが前提。事故で、『病院丸ごと避難する』事態は全く考えていなかった」と話す。
福島県と、原子力発電所立地町村では、原子力災害対策計画に基づき、原子力災害発生時を想定した防災訓練を実施しています。関係各所の連絡体制の確認、オフサイトセンターや現地対策本部の運営、住民の避難などです。これとは別に、当院は初期被曝医療機関として指定されており、そのトレーニングも実施していました。
――初期被曝医療機関として、どんな体制、設備を用意されていたのですか。
被曝医療と言っても、初期被曝医療。当院が主に担うのは、作業員の外傷など、被曝を伴った傷病者の治療です。東京電力の発電所内でそうした患者が出た時に、隔離した状態で搬送し、病院の一定区画内で治療するというトレーニングなどをしてきました。サーベイメーターや防護服は備えてあります。ただ、原発事故と言っても、今回のような大事故は想定していません。
――双葉厚生病院から、福島第一原発の距離は。
約4kmです。肉眼でも、原発の建物が見える距離です。
当院のある双葉郡は、8村町から成り、人口は約7万3000人、高齢化率24%。大学と県と厚生連の三者が協力して地域医療を再構築しようということで、地域医療再生計画を利用して、病院の再編を進めていました。2011年4月から、当院と県立大野病院を統合し、再スタートする予定でした。主に入院医療を担う「ふたば中央厚生病院」と、外来中心の「ふたば地域医療センター」への再編統合です。将来的には、410床規模の病院に集約して、一つの大きな病院に育てる予定でした。
その直前、まさに準備の最中に3月11日の地震が起きたのです。
3月11日午後7時頃の総務課(左)。12日午前2時すぎの医事課カルテ庫(右)。地震で書類が散乱し、足の踏み場もない状態に(写真提供:双葉厚生病院)。
――地震発生時、先生は病院におられたのですか。
私はその時、福島に向かっていました。東京に出張の予定で、阿武隈山地の中腹ぐらいのところを車で走っており、地震発生後、慌てて病院に引き返しました。普通は1時間くらいで戻れるはずのところ、2時間以上かかった。ようやく病院に戻ることができたのは、午後6時前のことです。道路の亀裂などがあり、メーンの道路が通れず、わき道を通ったりしながら、最後は結局、病院から300mくらいのところに車を置いて、歩かざるを得なかった。
当院は海岸から約2kmの距離にあり、津波は病院から600、700mくらいのところまで来ていました。副院長や看護部長などが指揮を取り、午後3時30分には緊急管理者会議を開いています。私が戻った直後、午後6時に対策会議を開催しました。
――地震による病院の被害は。
物はかなり倒れましたが、診療はできる状態でした。電気は使え、水道はタンクの貯留がありました。ガスはダメになりましたが、地元の農協にプロパンガスをすぐに準備してもらいました。MRIは使えませんでしたが、CTや手術室は使用可能で、午後7時近くには帝王切開手術で女児が誕生しています。
――負傷者はどのくらい受診されたのでしょうか。
地震発生直後から、翌3月12日の午前6時までに来たのは、56人です。重症の患者さんは4人で、重症骨折+右股関節脱臼、内臓損傷、溺水+呼吸不全の3人はDMATが福島県立医大に搬送、溺水の1人はドクターヘリで同じく医大に運んでいます。
――あまり多くはない。
津波の被害に遭われた方は、たくさんいます。また病院に来る手段がなかった。車を流された方もいるでしょう。道路が地割れしていたので、救急車なども動けなかったので、自力で来た方が多かった。他の被災地の方に聞いても大抵そうですが、最初のうちは患者さんが少なく、翌朝から来ている。当院でも今後、患者さんが増えることを想定して、外来ロビーなどにマットレスを引いて準備をしていました。ここまでは普通の災害医療への対応です。
しかし、翌朝、明るくなって、「さあ、これから患者さんが来るぞ」ということで、体制を建て直していた時に、警察官が病院に入ってきて、「逃げろ」となった。
3月11日午後10時30分頃の外来ロビー(左)。マットを引いて、傷病者の来院に備えていた。12日の0時を回る頃には、DMATが到着(右)(写真提供:双葉厚生病院)。
――職員の皆さんは、地震当日は病院に泊まられた。
壊れている道路が多く、帰るに帰れませんでした。特に双葉町周辺はひどかったのかもしれません。電話で情報を収集したりしていましたが。
――電話は通じたのですか。
何度もかけて、やっと通じるという状況です。
――福島第一原発の状況は把握していたのでしょうか。
誰かが観ていたかもしれませんが、私自身は、テレビを観る暇もありませんでした。そもそも原発事故が起き、こんな状況になるとは思っていなかった。地震や津波による患者さんへの対応に集中していました。医師もあまり多くはないので。しかも、大きな余震が続いていた。
――双葉厚生病院の常勤医は何人でしょうか。
計10人。内科は私も含めて5人、外科1人、産婦人科1人、精神科2人、眼科1人。そのほか、その時、応援で来ていた先生が、整形外科2人、小児科1人、皮膚科1人。皆、帰れず、翌朝まで付き合ってくれました。
――平常時の災害訓練の際は、どんなルートで原発に関する情報、連絡が来ることになっていたのですか。
あまり詳しく決めていなかったのが事実。原子力安全・保安院も、こうした事故は起きない想定で、「一応、念のため訓練をやろうか」という感じもありました。しかも、福島第一原発の敷地はものすごく広い。放射能漏れと言っても、その敷地内での放射性物質の飛散しか想定していない。敷地外への飛散を想定していたら、当院のような原発近くの医療機関を初期被曝医療機関にしていなかったでしょう。
――他でも、初期被曝医療機関は原発の近くにあります。
そうです。その場にとどまって治療ができる前提であり、「病院丸ごと避難する」ことは全然考えていなかった。
東日本大震災(被災地の現場から)
突然、病院に警察官、「逃げろ」と指示 - 双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.2
行政などからの連絡なく、ニュースで避難決断
2011年8月16日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
この記事に対する医師のメッセージ数: 5件
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――先ほど、警察官が入ってきて、「逃げろ」と言ったと。
「職員の誰も、逃げましょうとは自ら言わなかった。だから、避難を説得するのが大変だった」と話す、重富秀一氏。
後から思い出しながら記録したので、多少時間が違っているかもしれませんが、3月12日の午前6時に対策会議を開いた後、6時30分くらいだと思います。いきなり、警察官が病院に入ってきたのです。
「玄関から誰かが入ってきた」となり、何だ、となった。放射線防護服を着ていたので、「何、仰々しいことやっているんだ」、「こんな派手な格好しなくてもいいじゃないか」とも思った。自衛隊の人も来たのですが、普通の制服姿でした。
警察官とは、1時間ほど、もめました。「放射性物質が飛散しても、収まるまで病院の中にいればいいでしょう。なぜ逃げなければならないのか」と。入院患者さんも多数いましたし。
――当時の入院者さんは何人くらいですか。
県立大野病院との統合直前だったので、入院患者さんを減らしており、通常よりは少なかった。当院は260床ですが、136人でした。一般病棟(内科、外科、眼科)に70人、産婦人科病棟に10人、神経精神科病棟に56人です。それでも136人を動かすのは容易ではない。バスは来ていたのですが、救急車は来ないし、ドクターヘリもない。職員からは、「患者さんを動かして、何かあったら、院長は責任を取れるのですか」とも言われ、さすがに困った。
――テレビなどで、原発の状況を把握されていなかった。
明け方(3月12日の朝)、少しゆとりができた時に、テレビを玄関の方に移動させて観たりはしていました。その時に、「何か気持ち悪いニュース」をやっていたような気がします。入れ替わり職員が観ており、「何か変だな」と。
――しかし、避難しなければいけないという危機感はなかった。
なかったです。後から調べると、3月11日午後8時50分の時点で、原発から半径2km圏内に、午後9時23分には半径3km圏内に、それぞれ避難指示が出ていましたが、その情報を聞いた記憶もありません。
白い防護服を着て病院に来た警察官(左、3月12日午前6時40分頃)、自衛隊も多数救助に訪れた(右、3月12日午前7時頃)(写真提供:双葉厚生病院)。
――県などから情報は入らなかったのでしょうか。オフサイトセンターとか。
オフサイトセンターで本来、連絡をするべき人は皆、いなくなってしまったのでは。後から聞くと、県立大野病院では、その時点で既に避難が始まっていました。院長はこちらに連絡をしようと思ったそうですが、電話が通じなかった。少なくても、双葉町役場からの直接の連絡はなかった。役場からは歩ける距離なのですが……。その頃は、住民の避難始まっていたんですね。また防災無線は鳴っていたそうですが、聞こえない。警察官が来てくれたということは、県の指示なのでしょうが。結局、情報源はテレビのニュースだけでした。
警察官とやり合っても、なぜ逃げなければならないのか、きちんとした説明はありませんでした。結論から言えば、午前7時すぎ、テレビで、「内閣総理大臣が、半径10km圏内の住民の避難を指示した」というニュースが流れた。「総理大臣が言うのであれば、言うことを聞かなければならない」ということで、職員に避難することを納得してもらった。それまでは、職員の誰も、「逃げましょう」とは言わなかった。だから、「逃げよう」と私が説得するのが大変だった。
――テレビのニュースが最終的な決断を促した。
電話は通じたり、通じなかったり、という状況でした。最終的に避難を決定したのは、午前7時30分頃です。
――警察とは1時間くらいやり取りして、避難を決断した。
その時点でも、すべての入院患者を避難させることは考えていなかった。先ほども言いましたが、救急車もドクターヘリもなかったので。自力で動ける人はいいでしょう、ということで、精神科の患者さんと、一般病棟の何人かの避難準備を始めました。自力で動けなかった40人を残し、96人に警察の指示に従い、バスや自衛隊で避難してもらいました。食料と医薬品、そのほか必要なものと一緒に。
まず自力で歩くことができる精神科の患者から避難(左、3月12日午前8時30分頃)。第一原発のベントに伴い、避難を一時中断し、屋内退避(右、3月12日午前9時30分頃)(写真提供:双葉厚生病院)。
――職員も一緒にバスに乗ったのでしょうか。
その点が後で少し問題になったのですが、96人は連続して避難でき、行き先も一緒だと思っていました。
――出発する時には行き先は分かっていたのでしょうか。
最初は国道288号線を越えて、川内村の方に、という話でした。しかし、途中から、国道114号線で川俣町の方へと話が変わった。川俣町に行くことは出発前に分かっていたので、「行き先が一緒なら大丈夫だろう」ということで、最初の2台のバスには、ほとんど問題がないと思われる患者さんを乗せて、職員は乗らずに出発した。しかし、避難を始めたら、すぐに「屋内に避難してください」と言われた。
それは、結局、原発でベントをやるためだったと思うのですが。結果的には最初の2台のバスだけが行ってしまい、職員が付いていけなかった。それでも、すぐ(ベントは)終わるだろうし、いずれ後から行くのだから、と思い直しました。しかし、結果的には3時間も避難を中断せざるを得ず、電話も通じなくなった。
挙げ句、最初の2台のバスに乗った患者さんの何人かが、途中でバスから降ろされてしまった。半径10kmを超えたところで。理由は分からないですが。「オンフール双葉」という特別養護老人ホームです。後から所在確認はできたのですが、当初はものすごく心配しました。
東日本大震災(被災地の現場から)
「死ぬ、この世の終わりだと思った」と職員 - 双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.3
避難中、高校グランドで原発の水素爆発を目撃
2011年8月19日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
この記事に対する医師のメッセージ数: 5件
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――中断後、避難を再開した。
実際に避難を開始したのは午前8時30分、約1時間後に中断、再開したのは12時頃です。その間、我々は病院の中で待機していました。警察官も疲れた様子でしたが。自衛隊の方も大変だったと思います。なお、この間にも、帝王切開手術で今度は男児が誕生しています。
再開後、点呼をやり直し、バス1台に必ず職員1人を付け、容態が悪い人がいる場合には医師が同乗しました。川俣方面にそれぞれ向かいました。
ベント中、屋内退避を命じられ、警察官も疲れた様子だった(右、3月12日午前11時すぎ)、避難再開後(右、3月12日午後0時30分頃)(写真提供:双葉厚生病院)。
――行き先は、一緒だった。
結果的には、一緒ではなかったのです。でも出発時点では、「一緒の場所に、行ってくれる」と信じていました。自力で動けない40人以外の避難は、3月12日の午後1時すぎくらいには完了、警察官と自衛隊は退去しました。
重症・要介助の患者さんなど40人については、残りの職員とともに「少し落ち着くまで待とう」と考えていました。
――皆さんは、すぐに戻って来ることができる、という認識で避難されたのでしょうか。
「警察が言うから、避難しようか」と。ぐずぐずとすねていても仕方がない。ですから、重症患者さんについては避難させるまでもないと考えていました。私たちは周囲の状況をあまりつかめていなかった。後から知ったのですが、その頃、既に「炉心溶融」などが起きていた。それを知っていたら、私たちもすぐに避難していたはずです。
双葉町は津波の被害も受けていたこともあり、その頃までには住民も避難、周囲は静かになっていた。病院の中だけに人がいる状態でした。どうもおかしい、と思っていましたが、本当に、この状況が分かったのは、県の災害対策本部にいた県立医大の教授からの電話です。「そんなに悠長なことをしている状況ではない」と言われたのです。
県の災害対策本部にいた、県立医大の教授とようやく電話がつながり、事態の深刻さを知ったという。「炉心溶融などが起きていると知ったら、私たちもすぐに避難していたはず」(重富秀一氏)。
――それまでも県の災害対策本部には電話をかけていたのでしょうか。
はい、何度もかけていた。つながったり、つながらなかったり。つながる相手が、担当の事務職員だったり、単に電話を受ける人だったり、その都度、違う。それでも、「患者さんを避難させろ、というのであれば、救急車やドクターヘリが必要だ」と要請していた。
重症の患者さんを40人搬送するのであれば、救急車は20台必要。当院にあるはずはありません。ドクターヘリを使う場合でも、ヘリが到着できる近くの場所まで、どうやって患者さんたちを運ぶのか。やはり救急車が必要です。しかし、県は「救急車の都合が付きません」と。そのやり取りを繰り返していた。埒が明かなかった。県立医大の教授にも、何度も電話したが、本人とは話せなかったので、「重富から、電話があったことを伝えてくれないか」と伝言を残しておいたのです。
そしたら先生から電話が来たのです。先生も30回も、40回もかけたみたいで、それでようやくつながった。「いったい、何をやっているのですか」と。私は、「全然、状況が分からない」と答えたところ、「今、そこ(双葉厚生病院)にいる状況ではない」と説明してくれた。それでようやく災害救助ということで、自衛隊のヘリコプターで脱出することになり、「ヘリコプターが到着する双葉高校のグランドに移動を」と指示をもらったのです。
それまでは、通常の避難だった。電話がつながった以降は、緊急脱出。だから意味合いが全く違ってきた。要するに、今度は自分の意思は無関係。だからもう後は指示に従って動くしかなかった。患者さんに負担がかかるとしても、自衛隊の車で運び、ヘリコプターに載せなければいけない。
この指示がなければ、全員退去は決断できませんでした。40人もの重症患者がおり、危なくて避難はできなかった。
寝たきりの患者は、4人で自衛隊の車まで運んだ(左、3月12日午後3時すぎ)。国道114号線は、双葉町から避難する車で大渋滞だった(右、3月12日午後4時すぎ)(写真提供:双葉厚生病院)。
――レスピレーターをつけている患者さんもいた。
1人だけですが、レスピレーターも一緒に運び、ヘリコプターに乗せました。この時点で職員は56人残っていたので、助かりました。マットの上に患者さんを載せ、四隅を持ち、4人で患者さんを持ち上げ、病院の玄関まで運び、自衛隊の車に乗せる。双葉高校で下ろし、ヘリコプターにまた乗せる。いったい病院と高校を何往復したことでしょうか。
――電話の際、医大の教授は、双葉厚生病院の状況をどの程度、把握していたのか。
我々が病院にいるとは思っていなかったのでは。何で今頃、と思いつつも、「つないでくれ」と私が言っていたので、折り返し電話をくれたのかもしれません。教授からは、「原発の状況は、相当危ないようだ」などと聞いた。
全員退去を決め、自衛隊のヘリコプターの救援を待つため、双葉高校のグラウンドに移動を始めたのは、午後2時くらいだったと思います。何往復もしているその時に、1号機が水素爆発したのです。午後3時36分です。
その時、避難誘導していた職員と患者の半分ぐらいは、双葉高校のグランドにいたので、爆発を目撃しています。爆音はものすごかった。「死ぬかと思った」、「この世の終わりだと思った」と言った職員もいました。1号機爆発の時は、3号機爆発時よりは放射能漏れは少なかったですが、建物の断熱材などか、白い粉がパラパラと降ってきた。それを触った人もいました。幸い、後に行った放射線のスクリーニング検査では、問題はありませんでした。
私は病院の中にいましたが、「ドカン」とものすごい音がした。初めは、プロパンガスが爆発したのかとも思ったけれど、窓の外を見たら、白煙が上がっていた。
爆発後は、避難を中断、屋内退避をした。その後、再開し、最終的に全員が双葉高校のグラウンドに移動した時には、午後5時くらいになっていた。既に周囲は薄暗くなっていました。
ヘリコプターにはストレッチャーが4台入ります。最後の方は、私と副院長、もう一人の先生が残っており、重症な患者さんが乗るヘリコプターについては1人ずつ同乗しました。副院長は二本松へ、私ともう一人の先生は仙台に搬送されました。最後に残ったのは、それほど危なくはないものの、自力で動けない患者さん16人と看護部長などです。「先生、いなくても大丈夫です」とのことで、看護部長に残ってもらったのです。ところが、その後、来るはずのヘリコプターが到着しなかった。
――それはなぜですか。
理由は分かりませんが、職員9人と患者さんが16人、ほかに地元の老人保健施設の入所者などが取り残された。自衛隊の方も一緒に、双葉高校に1晩残る事態となり、翌朝13日のヘリコプターで避難しました。
東日本大震災(被災地の現場から)
職員の4割は退職、全国各地に移動 - 双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.4
残りの大半は福島県内の厚生連病院に勤務
2011年8月26日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
この記事に対する医師のメッセージ数: 5件
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――職員は、ほとんど何も持たない状況で避難された。
何も持っていないです。職員は自宅に戻っていませんから。私もそうです。私自身は、公益目的の立入で、病院には4月と7月に戻って、書類などを持ち出しています。4月の時に、私の自宅にも戻りましたが、物が倒れ、中はぐちゃぐちゃ。それをかき分けて、ノートパソコンだけを持ち出しました。しかし、その後、自宅には戻れませんので、今、どうなっているかは分かりません。
「当初は患者さんの避難が優先だった。ここまで避難が長期化することは想定していなかった」と語る重富秀一氏。
――結局、患者さんや職員は、結局、何カ所に避難されたのでしょうか。
川俣、二本松、そして仙台の3カ所です。私は仙台の自衛隊の駐屯地に行きました。しかし、一時期、所在がつかめなくなった患者さんが約20人いました。先ほどもお話しましたが、10km圏外までバスで避難した後、降ろされてしまったのです。その後、15日に二本松に搬送してもらえることになり、待っていた。
しかし、1日経ってもこない。なぜかバスで原町に移動し、放射線のスクリーニング検査を受け、その後、那須塩原に移動されられていた。そこで、患者さん1人と住民数人が降りた。さらにその後、バスはいわき市に向かい、いわき光洋高校に避難していることが分かりました。そこで、当院の看護部長、事務職員、運転手らが手分けして、那須塩原といわき市に所在確認のために向かった。地元の病院に入院させてもらったり、(手続き的には入院患者のため)退院扱いとした患者もいました。
最終的に、職員および患者さんの全員の所在を確認し、他院への入院手配などを終えたのは、3月17日のことです。
避難開始からの2日間で死亡した患者さんは計4人。70歳以上のがんの末期などの患者さんで、いずれも病死です。多少ストレスがかかったかもしれませんが、ご家族ともトラブルなく、看取りました。
3月12日時点での入院患者は136人。一般病棟患者80人のうち、転院したのは55人、退院21人、死亡4人。精神病棟患者56人中、転院53人、施設入所1人、退院2人です。
自衛隊のヘリコプター内部。避難は3月13日の午前までかかった(3月13日午前8時30分頃)(写真提供:双葉厚生病院)。
――患者さんのカルテなどはどうされたのでしょうか。
紙のカルテを使っていたのですが、地震発生直後に、まず本人確認ができるように手に名前を書いたり、患者さんの枕元にカルテを置くようにした。警察官が来て、バスで避難する際には、カルテもまとめて乗せました。自力で動けない患者さんについては、カルテと一緒に移動させた。この辺りは、看護部が考え、しっかり対応してくれました。
また外来患者さんについては、4月に病院に戻った時にパソコンなどを持ってきています。レセプトなどがあるため、処方内容などの問い合わせにはそれで確認し、答えています。
――避難当初、先生方はその後、どうなるとお考えだったのか。ここまで避難が長期化すると思っていたのでしょうか。
そこまで考えていなかった。とにかく患者さんが無事に避難できるか、またその後の所在を確認するのが優先でした。原発事故のことは、頭にはそれほどなかった。
患者さん対応を終えたら、今度は職員の番です。単身赴任で双葉町に来ていた人は十数人、ほとんどの職員が地元の方です。だから、家には帰れない。その頃には原発事故の深刻さも分かっていたので、職員がバラバラになっても連絡が取れるようにするため、まず部署ごとに職員の電話連絡網を作りました。
また、川俣と二本松の避難所で、それぞれ責任者を決めました。避難所にこのままいるか、あるいは親戚や知人を頼っていくか、それは各職員に任せました。結局、どこにも行く場所がない人がおり、避難所生活を送ることになった職員もいます。「今後は、行政の言うことを聞いて、避難民として行動してください。移動する際には、その都度、連絡をください」とお願いしました。県外に避難する職員もおり、青森県から九州まで、職員が散らばりました。
震災後1カ月間は、厚生連本部に災害特別休暇という扱いにしてもらったので、給与も支払われました。職員の解雇もしませんでした。この間、全国各地に散らばった職員に電話をかけ、福島県内の他の五つの厚生連に勤務するか、他の病院を自分に見つけるかを聞きました。
3月24日時点の双葉厚生病院。病院前の道路には亀裂が入り(左)、ナースステーション内にも物品が散乱(右)(写真提供:双葉厚生病院)。
――結局、職員は何人が退職されたのでしょうか。
3月11日時点で在籍していた職員は216人。震災による犠牲者は一人、育休中の看護師さんです。お気の毒ですが、自宅で津波に遭われています。退職者は86人。それ以外の方々は、福島県内の他の5つの厚生連の病院や厚生連の災害対策本部に勤務しています。
10人の常勤医のうち、私はここ(福島市の厚生連本部)にいますが、福島県内の厚生連病院で勤務している医師は5人、後は大学の医局に戻ったりしています。
病院としては、職員の再就職も含め、1カ月くらいで対応は終わりましたが、職員はいまだに落ち着かない日々でしょう。4月の半ばから働き始めた職員もいれば、休暇を取った職員などもいます。
――先ほど、福島原発の1号機が水素爆発した際、双葉高校のグランドにいた職員もいたとのことですが、その後、放射線関係の検査などはされたのでしょうか。
避難する際に、スクリーニング検査を受けています。3月12、13日のことですから、まだスクリーニング体制が確立しておらず、1万5000cpmか2万cpmを超えると除染と言われた。その後、10万cpmに基準が上がりましたが。私自身も除染しました。
――数値は、どのくらいだったのですか。
分かりません。教えてくれなかった。DMATの方が、検査をし、「先生、ちょっとレベルが高いから、除染した方がいいかもしれませんね」と言われた。結局、その時、着ていた洋服は廃棄。職員も除染され、「その辺りにある服を着てください」と言われた。ただし、問題のある被曝をした職員はいませんでした。我々は放射線に対しては、ある程度、知識はあるので、過剰には怖がらなかった。ただ、事務職員や若い看護師などは、やはり多少、デリケートになっていました。
東日本大震災(被災地の現場から)
災害対策のカギは人心の把握 - 双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.5
モノがあっても人が動かなければ意味なし
2011年8月30日 聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)
この記事に対する医師のメッセージ数: 5件
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――先生は今、どんな仕事をされているのでしょうか。
双葉厚生病院は組織としてはまだ残っています。また、JA福島厚生連の医療体制整備室長でもあり、今後、浜通りの医療をどうするか、そのお手伝いをしていきたいと考えています。
「私自身は職員に助けられた、という思いが非常に強い」と語る、重富秀一氏。
――警戒区域や緊急時避難準備区域などを除いた、浜通りの医療の現状は。
浜通りは、もともと医師不足などで大変な地域でした。
双葉郡には、北から、浪江町・双葉町・大熊町・富岡町・楢葉町・広野町の6町のほか、川内村と葛尾村の2村があります。原発周辺の双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、この辺りはどうなるか分かりません。放射性物質による土壌汚染はひどい。地域の方々には気の毒ですが、原発から5km、10km圏内の方はこの先、いつ戻れるのか、全く見えません。
その周囲の地域でも、道路が非常に問題。広野町や川内村など住民が戻れそうな地域もありますが、双葉町や大熊町の道路が通れないために、交通の便が極めて悪くなっています。「双葉郡」の8村町が、もはやまとまれなくなっています。
また、双葉郡の北は、南相馬市。双葉郡の方も相当、南相馬市に避難しています。南相馬市も一部は、20km圏内であり、沿岸部は津波の被害を受けています。社会資本がどんな形で再建されるか、企業活動や住民の生活がどうなるか、この辺りもまだ見えません。
これらを総合的に考えないと、今後の医療をどうするか、その姿は見えてきません。患者さんがいるから、住む人がいるから、そこに医療が必要、というのは正しい。しかし、そこに恒久的な医療機関をどう作り上げていくかは別の問題でしょう。双葉郡の医療を確保するために病院統合するのは、住民の生活が安定している前提があって成り立つ話です。今はその前提が崩れています。
ここから先は全く個人的な意見ですが、住民が戻れるようになった時に必要な医療を提供しなければなりませんが、それは行政がきちんと責任を持ってやること。病院経営や収益を考えたら成立しない話で、民間が委託を受けてやることは考えられますが、すべて民間が担うのは問題。
また病院や診療所の建物を作り、そこに医療資源を投入するというやり方は、今は正しくないような気がします。住民が流動的、しかも道路事情が悪く、病院に来たくても、来ることができない患者さんもいる。だから移動診療所のような形で、動くべきです。仮設の施設を作っても、そこで診るのではなく、そこから巡回診療車を出すような形にしないと当面は難しい。
南相馬市も恐らく同じだと思うのです。完全に住民が安定した生活を送れるようになってから、質の高いしっかりとした入院治療もできる病院を再構築しようという話になってきます。
――最後に今回の教訓、他の原発周辺地域の医療機関が準備しておくべきことがあれば、お教えください。
そうですね、それは難しい。私自身は職員に助けられたという思いが非常に強い。指揮命令系統をきちんとしておくことは大事ですが、指示を出しても、職員が動かなかったら何もなりません。今回は、「よろしくお願い」と言うと、「はい、分かりました」と言い、皆がやってくれた。
具体的に、耐震構造にするとか、何かを備蓄することは確かに重要。それは誰が考えても同じです。しかし、モノがあっても、人が動かなければ、どうしようもない。特に病院の場合は人、コミュニケーションの問題に尽きます。
7月30日に、福島市の飯坂温泉に当院の職員たちが集まりました。退職した方も含め、参加者は150人くらいに上りました。これがチームワークでしょう。退職者も、「いずれ病院が再開したら、雇用してください」という人がたくさんいます。
7月30日、職員の親睦会の総会のために集まった職員たち。震災時、216人いた職員のうち、退職者も含め、150人くらいが集まったという。
――声をかけられたのは、先生ですか。
病院の親睦会があり、年に1回、総会を開催し、予算などの承認をしなければいけない。その作業が残っていたのです。せっかくやるなら、泊りがけで、ということで集まりました。お酒を飲んで、一晩過ごしただけですが。「また来年もやりたいね」という話も出ました。「来年も」と言うのは、「来年までは(双葉町に戻るのは)無理」と皆が思っているから。複雑な思いです。戻りたいけれど、戻れないなと。それでも皆、元気でしたね。その笑顔に私は助けられました。
また、防災マニュアルが稼動するのは、時間的に余裕がある時です。同じ震災でも、原発事故がなければ、「マニュアルをこう見直した方がいい」などの点はあると思うのです。もし事故が起き、汚染された環境の中で、診療をしなければならないとすれば、防護服やサーベイメーターをもう少し病院に設置するなど、具体的に見直すべきところはたくさんあります。
――防護服は病院に何枚くらいあったのでしょうか。
数枚です。東京電力が何かあれば、持ってくることになっていました。ただ、もう少しすれば、この辺りの課題も整理したいとは思っています。例えば、原発の近くの病院は、シェルターを置き、最初の1、2週間、20、30人の重症患者については、そこで診療できる体制を作るとか。アイデアとしては幾つかあるのです。
しかし、私たちが経験したような状況になった時には、人心の把握、これが一番重要。家のことも心配で、電話をかけている人はいましたが、誰一人、自宅に帰るとは言わなかった。それどころか、病院に駆けつけてきた非番の職員、結局、患者さんと避難して、家族とは何日も連絡が付かなかった職員などもいました。運転手さんは自宅が流された。だけど、運転して一緒に行動してくれました。本当にありがたかった。
さらに、我々は奇跡的にうまく避難できましたが、行政、国、地域としてどうするかについては、また別のことを考えなければいけません。双葉郡の7万人強の人口を数時間、半日程度で10km圏外に避難させる。それは個人の力ではどうしようもありません。患者さんの避難も、個々の病院の責任ではできません。私は、自力で動けない入院患者40人の避難させるために、20台の救急車が必要、と県に訴えました。東京など、より人口や患者さんが多い地域で、こうした避難指示が出たら、いったいどうなるのか。
「自前で」というのなら、我々の病院で救急車を20台用意しておく、という話になります。それは無理な話です。800床、1000床という病院で、いきなり全員避難という指示が出たら、対応できるのでしょうか。
タグ:P
いつも記事の更新、ありがとうございます。
http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20110322000024
...双葉町役場に直行したが、役場玄関の扉は閉ざされたまま。緊急連絡先などの張り紙もなかった。静まりかえった町に、ときどき小鳥のさえずりが聞こえる。
入院患者に被ばく者が出たと報じられた双葉厚生病院に向かったが、ここも無人。玄関には患者を運び出したとみられるストレッチャーが何台も放置され、脱出時の慌ただしさがうかがえた。地震で倒れた医療機器や診療器具が散乱。消毒薬の臭いが漂う。
原発から約3キロの同病院前でも測定器の針は100マイクロシーベルトで振り切り、上限に張り付いたまま。そこで1000マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)まで測定できるガイガーカウンターを取り出したが、これもガリガリガリと検知音を発し、瞬時に針が振り切れた。「信じられない。怖い」。私は思わず声に出していた。
放射性物質の違いなどにより同列に論じられないにしても、これまで取材した劣化ウラン弾で破壊されたイラクの戦車からも、今も人が住めないチェルノブイリ原発周辺でも計測したことのない数値だった。
放射能汚染地帯の取材経験が一行の中で最も多い広河さんも信じられない様子。「これから子どもをつくろうと思っている人は、車から降りない方がいいかもしれない」と真顔で言った。...
転載終わり。
はじめ、この投稿記事を見た時、
おかしい、あるはずの45名死亡者の記事がない、と思ったらそれは別の病院でした。
双葉町の双葉厚生病院と、「大熊町の双葉病院」は別の病院なんですね。
双葉病院のほうでは死亡者記事があります。
http://sociologio.at.webry.info/201104/article_125.html
双葉厚生病院関係者の証言
爆発時の模様を語っています
http://www.youtube.com/watch?v=f8Bljrh6bkM