と言う質問をよく受けます。何か特効薬があれば、もちろんお教えしますが、そんなものはこの世にありません。何しろ、私だって実家はいざ知らず、兄弟の家庭にすら話を聞いてもらっていないのですから。キサゴータミーの話ご存じでしょうか?
詳しくは、リンク先を読んでいただくとして、子どもを死なせてしまった金持ちの母が、その現実を受け入れられずに、死人を生き返らせようと狂ってしまう。お釈迦様が、それを教え諭す話です。
現実を受けいられない人をどう導くのか、宗教問題とも似た難しさがそこにあります。散々口やかましく言っても、「もう、いい。うるさい。わかった」と言われるだけの日々が続いているのではないしょうか。
その説得の一つのヒントとして、自分がなぜ、放射能の危険をすぐに察知することができたのか。それを考えてみるのはどうでしょうか。私は放射能から避難された方に会うと、なぜ避難することができたのか、聞くようにしています。なかなかその時にはピンと来る答えをもらえないこともあるのですが、
・お父さんに小さい頃から原爆の展示会に連れられていってたから
・もともと原発反対運動に加わっていたから、知識があった
・はだしのゲンの怖さが身に染みていた
等々。その理由は人によって違うでしょう。私の場合をご紹介します。
私の母の実家は、広島市にありました。祖父母が、母をかわいがってくれていましたので、私は小学生の間ずっと長期の休みの時には、広島に遊びに行っていました。当然8月6日の原爆が落とされた日のサイレンと、原爆記念式典はテレビでいつもそれとなく見る−そんな夏休みだったのです。祖父母、母ともにピカの被害は受けておらず、原爆投下後1年近く経ってから広島市に戻ってきたようです。祖母はABCCで検査を受けたことがあるのですが、直接そのことを存命中に聞いたことはありません(母から、先日初めて聞いて大変驚きました)。そして、ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館にも行ったことがありますが、その時の記憶は殆ど残っていません。
知識はないが、とてつもない爆弾を米国が使ったという感覚だけはあったのだと思います。
原子力は、とんでもない技術だと思ったのは、ゴルゴ13 2万5千年の荒野
<1984年7月作品>




定量的な内容を書き出します。
・アポロン1号の核燃料ウランの総量は170トン、分裂能力は8000万キューリー
・そのうち1%が漏れ出るくらい(公式発表では、チェルノブイリは1億8000万キューリー、フクシマは1000万キューリー)
・炉から2マイル(3.2キロ)いないは全員1日目に脳をやられて死亡
・ガンマ線被曝量は1日で320レム(3.2Sv)1週間で1万4千レム(140Sv)以上になりますから・・
・20マイル(32キロ)離れた地点にとどまった人は、第1日目に72レム(0.72Sv=720mSv)、90日で4600レム(46Sv)に達し、重傷の放射能障害が出ます。急性白血病で髪は抜け皮膚は落ち、50%が1州下院いないに死亡
・50マイル(80キロ)離れても、1日目に15レム(150mSv)、90日で250レム(2.5Sv)
・甲状腺では濃縮され、被曝量は1週間で、1240レム(12.4Sv)一週間で発病する人もいます
・子々孫々までも、長期の影響が現れます。誰も、住めないでしょう。
・桁が違います。ヒロシマの原爆の全放出量は数十万キューリーに過ぎません。原発はその200倍から400倍あるんです。それに死の灰で、地表や海、川、大気・・・あらゆるモノが汚染されます。
・数百マイル離れても、農作物は作れなくなります。・・・死の世界です・・・
どうでしょうか?私はこのマンガをチェルノブイリ前に読んでいました。実際に事故が起きて、ウクライナは終わったと確信したのですが、その後事故被害報道は尻すぼみ。あのマンガは、大げさだったか・・と思って、その後東電原子力に入社してしまいました。
今改めてこの本を読んで、その正しさがよくわかります。
それ以外の本としては、
皆さんもなぜ、放射能の怖さを知り得ていたのか、コメント欄で教えていただけますと幸いです。
◆関連ブログ
仏教聖典から・・・キサゴータミー2011年06月15日
結論の押し売りではなく、導きを2011年10月29日
タグ:放射能
宮城県では早くから女川に原発をつくるなら県庁のある勾当台に原発をつくればいいという議論はありましたね。
あの時始めて恐ろしさがわかりました。
中学は広島、必ず原爆資料館に行っていました。
小学校のころにはやはり「はだしのゲン」を読みました。
祖父は中国大陸で戦争をしていましたので、毒ガス兵器の話を子どものころによく聞かされました。
また、子どもが生まれてからは、鹿児島の知覧特攻記念館や長崎の原爆資料館に何度も連れていきました。
ですから、息子は絶対に自衛隊には就職しないと言うようになりました。
ただ、私の私論ですが、核であれ通常爆撃であれ、戦地での争いであってもその人にとってはどちらも同じ「死」である事から戦争だけは絶対にいけない。との信念を持っています!
長崎の原爆資料館には、小学生の時に行った時に見た、内側にこびりついた人骨があるヘルメット(鉄カブト)がありましたが、今でも展示してあります。
あれはショックでした。
それは歯科大で放射線の勉強をしたからです。
先生もご存じかとは思いますが教科書の最初の方で確定的影響と確率的影響という言葉が出てきます。
もちろんその内容は国家試験にも出ていたので大変重要な事で、放射線という物を扱う上で知らなければいけない必須事項だと思っておりました。
そして今回の事故、東京の水に数百ベクレルの放射性物質が混入し、その後100mSV以下は安全だとか平気で言う医者や学者が出てきた上に国までもそれに従う事に私は驚きを隠せませんでした。その時点で確率的影響は学問から抹消されたようです。
子供がいる私には到底納得ができず、十二分に引っ越す理由になりました。
ご参考にしていただければ幸いです。
私は1960年代前半の生まれで、小学生当時も、広島長崎の事は授業等でよく聞かされましたし(多分平和学習が盛んだったんだと思います)、「はだしのゲン」は学校の図書室にもあってよく読みました。
いや、今思い出しました。当時少年ジャンプで「はだしのゲン」は連載されていたのでした!それで目に触れる機会があったのです。今思うと、60年代から70年代にかけては、ジャンプだけでなく「りぼん」などの少女誌でも戦争体験や公害反対を叫ぶ作品はとても多かったのです。あのお陰で自分の中に貴重なベースが出来たと思っています。
そして80年代に大学生になると、ちょうど反核の機運が盛り上がっており、現代書館から出たグラフィカルな『反原発』という本をきっかけに、いくらでも反核・反原発を学ぶ環境がありました。(政治的に原水禁とか原水協とかあるのは知っていましたがあまりよくわからず...)
そしてチェルノブイリ事故。
でも、その後急速にその機運はいつの間にかしぼんで行ってしまい、私も自身の生活にかまけて?いる間に原発が55個も造られてしまいました。福島に原発がある事も311以前までは知らなかったくらいです。反省しきりです。
小学生の娘は、学校で平和教育を一応学んでおり、夏休みには自分で何か平和(戦争や原爆の事など)について調べ物をし、「平和新聞」という形で毎年1枚残していきます。そして6年生の修学旅行で広島を訪れ、6年間の仕上げをする事になっています。こういった取り組みがきちんとなされているのは大切な事だと、今回つくづく思いました。それがたとえ形の上だけであっても、各人がそれを最大限に生かしさえすれば、貴重な体験を子ども時代に残す事ができるのでは、そしてそれが核や放射能の事を体で知っている事につながるのでは?と考えています...
長文になってしまい誠にすみません!
3/12の時点では政府も東電も単にパニックを防ぐために「落ち着いて」と言っているだけだと思い、彼らの言葉を善意に受け止めつつも、3/14深夜に車で西に移動し始めました。
私にとって驚きだったのは、そのあと、3/10まで普通に「恐ろしい」とされていた事の多くが「じつはそうでもない」(レントゲンや飛行機etc…)とメディアが言い出したことでした。
「あの爆発では、もう関東には戻れないかもしれない」と思って避難したわけですが、結局、放射能への不安よりも、メディアと政府の暴走が恐ろしかったし、今も恐ろしいです。(3/16のヘリで水を撒く作戦も恐怖でした。知識が無くてもピカを見ていなくても、あんな水撒きで解決するなら元から誰も原発反対もしないし、チェルノブイリの問題が今も問題のままでいるなど考えられないと感じました。)
ということで、早く気づいたのは3/10までのメディアのおかげで、「避難」から「移住」に気持ちが固まったのは3/11以降のメディアのおかげ、ということになる気がします。(「死の灰」が「定時降下物」に変わったから、という感じです)
あまり参考にならない気がしますが、参考まで。
小5くらいのころTVドラマで
山口百恵さんと三浦友和さん共演の
「赤い疑惑」
を思いだしました。
たしか、幸子(百恵ちゃん)が地下室のレントゲン室に光男さん(友和さん)を探しに行ったときに爆発事故があってコバルト60を浴びてしまって急性骨髄性白血病になりました。
そのとき、強い放射線を浴びると白血病という血液のガンになるのかと11歳ころに思いました。
「テーマソング」も「勿忘草をあなたに」もカラオケで歌えます。(ちょっと、脱線)
他の避難しなかった方たちと違う点を強いて挙げれば、新聞・テレビなどの大メディアからのインプットがなかったことかもしれません。新聞は取っていませんでした。テレビは最初の揺れの一撃で転落・全壊してしまいました。ラジオは持っていませんでした。そのため、情報源は、ゆれの収まったときに恐る恐る開くインターネットと街の声、そして自分の実感だけでした。
で、私も好奇心にそそられて、その友人に「なぜ、放射能の危険性に敏感に反応出来たと思うか」と聞いた所、以前に広瀬隆さんの「危険な話」を読んでいて、原発の危険性を知っていたと答えてくれました。
私は・・? 日本の高度成長期に育って、公害やその裁判の話を常に耳にしていた、宇井純氏の本を読んだり、彼の「公害原論」の講義を東大に聞きに行ったりしてた、常に政府や官僚、(御用)学者、大企業に不信感を持っていた、大人になってからだが「はだしのゲン」を読んでいた、etc.
でも、これだけでは、何故数多い本の中から、彼女が「危険な話」を選んで読んだのか、私が「公害原論」や「はだしのゲン」を読んだのか、は説明出来ませんね。
院長先生のブログも、その他のたくさんのインターネットの放射能の危険性を訴える情報も、「気にしない」人達は読もうともしないでしょう。この差は、ホントにどこから来るのでしょうね。
ただひとつだけ、言える事があります。
私はアメリカ在住なので、新型(豚)インフルエンザ騒動の時に、日本のドタバタを恐怖感さえ覚えながら、見ていた記憶があります。この件では、アメリカの政府関係機関もマスコミも、非常に冷静でした。危険性は普通のインフルエンザと同じ位、ただ普通のインフルエンザ自体が、危険な病気だから注意をしなければいけない、というスタンスでしたので、国民にも不必要なパニックはほとんどありませんでした。日本では政府が大騒ぎして、マスコミが、今もそうですけど、大本営発表垂れ流し、独自の調査も知見もなしで、さらに国民の恐怖を煽りました。
マスコミは、患者の「魔女狩り」もしていましたよね。騒動初期に罹った高校生とその学校は、「なぜ、この時期に海外に行かせたのだ!」的なつるし上げに遭っていました。マスクは、売り切れになりました。海外在住組は、日本への一時帰国を、近所が怖いからと実家に断られたと言う話もありました。
これらのことは、日本人が基本的に「のん気」なのではなく、政府が「大騒ぎ」して、マスコミが乗れば、大多数の人々も、危機感を持つようになる、と言う証拠だと思います。(不必要な、科学的でない差別的な言動は困りますけどね。)
残念ながら、今の状況では政府は「大騒ぎ」してくれそうもないですし、当然マスコミもそれに右へならへですから、「知っている」私達が、一人でも多くに知らせる努力をしなければならないわけですが。「知ろうとしない」のが家族だったりすると、苦労も多いでしょう。
あ、今、思いつきました。「のん気」な人達の多くは、お上の言うことは常に正しい、マスコミはいつも正しく必要な情報を知らせてくれている、と信じている人が多いのではないでしょうか。だから、自分で積極的に何かを調べる必要はなく、与えられた情報だけで充分と思っている。そして、このブログに来る人達は、そんな信頼感を持っていない。自分で学ばなければ、知らなければ、他人頼りでは、安心して生きられないと思っている人達なのではないでしょうか。
5年後、10年後、30年後に、社会や歴史家が今の日本の、「教えない・知らせない・わからせない」状況にどう評価を下すのか興味がありますが、少なくとも「自分は知ってたけど、何もしなかった」と言わずに済むように、出来る事をしたいと思います。30年後に、まだ住める環境の日本が、存続していることを願って。
それ以前には、太平洋戦争の本(庶民や、兵隊の記録)を読み漁っていた(学校図書館の戦争物は全部読んだ)ため、日本政府の卑劣さを十分知り、反感を持ってました。はだしのゲンも小学校図書館にありました。
小学生の頃から政府を信用せず、原発は危険だと思う素地ができてました。
http://www.usio.co.jp/html/paetone/index.html
http://blog.goo.ne.jp/mcsammy/e/5e01ae564d6ca61d653522c44a4fd47c
http://www.amazon.co.jp/dp/4893930575/?tag=hatena_st1-22&ascsubtag=d-737v
ちょうどマンガ大好き時代だったので、たくさんの原発関連マンガと、岩波新書のチェルノブイリ事故関連本を貪るように読みました。
その時の感覚で、怖いと本当に思いました。
今も怖いと思いますが、水、食べ物には気をつけていますが
抜本的な移住ができず、日々悩んでいます
http://isinokai.blogspot.jp/2012/05/25who-2-1.html
今考えると、あの時の積み重ねだと思います。尊敬する大人から伝えられる真実を、子供は忘れません。
娘は東京から福岡勤務になり、愛知の娘家族には食材全てを送っています。
以前移住の相談をさせていただいた新潟市民です。
先日、地物のきゅうりが巨大化しているのが販売されていて、新潟も心配だとの声を聞かぬようにしてきた不安が再び沸き起っております。かといって移住は。。。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ご活動心より感謝とご尊敬を申し上げております。
去年の初夏ごろからか、変異や奇形した昆虫を見ているから、いくらぼーっとしている私でも、気付かない訳にはいきません。まさかこんなに早く?と思って、写真を撮らなかったのが悔やまれます。
植物も、一季咲きのはずの山野草が、年中咲いていたり、もっと酷い奇形が見られるようになったのは、ご存じの通りです。
鳥はもっと早く、みるみる居なくなりました。原発事故の前までは、この時期ウチの近くには、「あいつら全部に団結して襲われたら絶対死ぬな」と、冗談ではなく思うほどの数のスズメが、素晴らしい活力を放って生きていた。
少なくとも、自然を相手に暮らしている人の中に、この違いが判らぬということは考えられません。
そういう人が「判らない」と言ったとしたら、明らかに故意です。
読んでいるうちにあまりに怖くなって、周囲にも絶対読むように勧めましたが、全く相手にされませんでした。結局、本の通りのことが福島で起きてしまいました。
もっとさかのぼると、私の原点はたまたま読んだ船瀬俊介さんの著書です。
合成洗剤や化粧品のまやかし、「産・官・学の癒着」(薬害エイズの原因)を知って、目から鱗が落ちる思いでした。それでテレビや雑誌の洗脳から解けたのです。
それ以来、スポンサーがついている組織の言うことや、常識と思わされていることを疑う癖がつきました。(花王もライオンも資生堂もコーセーもインチキばかりですね)
私が『放射能で首都圏消滅』を信頼したのは「食品と暮らしの安全基金」で出している本だからです。スポンサーなどなく、会員からの会費で運営されている団体だからこそ、発言に信頼がおけます。
でも、みんなに同じように期待するのは無理かもしれません。放射能の怖さは分かっている人でも、普通に合成洗剤(と同じ成分で)頭を洗ったり顔に塗りたくったりしてる人は多いんじゃないかな。合成洗剤の出発点はナチスの毒ガスだなんて、誰も教えてくれないですから。
これも突き詰めると、原発推進と構図が一緒ですね。
子供の頃、スーパーファミコンで「シムシティ」というゲームで遊んでしました。
市長になって、街づくりをするゲームですが、時々、町を災害が襲います。
数ある、災害の中でも最悪なのが「原発のメルトダウン」
原子発電所が爆発。周囲が汚染され、人が住めなくなり(発展しないです)、どうしようもなくなります。
この時の感覚が、生きたのかもしれません。
その頃、SF小説やPS小説、その手のアニメ・特撮物にハマっていた事。
同時期、今よりははるかに良心的だったNHK製作のドキュメンタリーを良く見ていたこと。
いわゆるミリタリーヲタクだった事。
その癖、政治的思想や歴史観がどちらかといえば左寄りだった事。
これらが今の私を形成したと思っております。
これまでずっと見ていた日本の報道内容と大差ないはずと思っていたところ、早くから聞いたこともない単語「メルトダウン」してるはず。とか、福島は壮大な人体実験が始まった。とか、ぞっとする内容が流れていて、その後、日本の報道とCNNの内容の差に気づき、自分から疑問を感じるところに対し、別の角度から探っていった結果、素直に、引っ越そう。と決めることになった。
別の角度から探っていった結果、政府も大手新聞も、民放のテレビも、NHKも、行政も、学校も、大手スーパーも、JRも、信じられなくなってしまった。絶対的に信頼を寄せていたものに、不信感を持つことが、本当に悲しい。
それでも引越を決める事に、転職をすすめることになんの抵抗もないほどの、危機感を抱いた。
いつも詳細な情報をご提供いただきありがとうございます。
私は高校の頃に物理学に興味を持ち、大学では理論物理学を専攻しました。
理論物理学の中には、原子核反応の学問もありますが
そこでは放射能の話はあまり大きく取り上げられません。
しかし、わたしはそこから原爆、水爆に興味を広げて書物を読みあさりました。
そもそも、物理に興味を持った高校生の頃(チェルノブイリ事故以前)から
原発が安全だなどどは信じていませんでした。
不安定な状態で制御しているのだから、小さな事故で何かきっかけがあれば
大事故につながるのは当然と思っていました。
その小さな事故を起こさないために、原発の職員はがんばっているのだと
高校生の私は漠然と考えていたものですが、
事実はそうではなかったと。
小さな事故は日常茶飯事に起こっていたということですね。
高校の物理の教科書にも、最後の章に、ほんの申し訳程度に
原子核反応についての記載がありましたが
大学受験に忙しい高校生は、そんな最後の章の、しかも入試の出題率の低い分野は
勉強する気にならないでしょう。
一方、受験しない高校生は、教科書の最後の章まで行かずに高校生活が終わってしまう
のではないでしょうか?
原子核反応を教科書の最後に持ってきているのは
何か作為を感じてしまうのは私だけでしょうか?
さて、私が反核・反原発・「放射脳」である理由は、小4で広島を訪れて原爆資料館を見学したことと、小学生のときに読んだ「はだしのゲン」と中学生のときに読んだ広瀬隆さんの「東京に原発を」によるものが大きいです。核の恐ろしさ、原発の恐ろしさがしっかりと胸に刻みこまれました。
漫画はほとんど読んでいなかったのですが、このような正確な情報が含まれていたのですね。私はたまたま広瀬隆氏の「億万長者はハリウッドを殺す」で、現代社会を動かす巨大な利権の存在を、原発関係の氏の著作から、原発の恐ろしさを知りました。何かあれば、巨大な利権が隠蔽に動くことも。そのため、周囲にはあきれられましたが、311直後に関東から避難しました。
現在九州におりますが、自治体に抗議したり、チラシを作ったりしていますが、周囲の人はほとんどが、原発事故や瓦礫問題は聞きたくないか、無関心です。関東の友人には、情報を集めて覚悟を決めて暮らしている人も少数いますが、その他の友人たちには原発の話はできません。不安になる話は、最初から受けつけないからです。福島だけでも28万人の子供が暮らしていると思うと、気持ばかりあせります・・・
また、東電の英語の発表と日本語の発表の内容が違うこと(報道陣の質問の内容等含め)おかしいことが一目瞭然であった。
それから、人生において一度離婚という大きな失敗をしたことが私にとっては今回の大きなポイントではないかと思う。
失敗した理由として、自分で余り物を考えず、相手の言ったことを鵜呑みにして結婚。その大きな失敗の後、自分で色々考えるようになってきたこと、再婚した相手が、自分で物を考えることを大事にしているため、さらに、日常的に物を考える習慣がついた。
最後に、我が子供たちはイギリス系のインターナショナルの学校にいっているが、5歳のわが子の宿題は、例えば、「植物が育つ過程の絵を書きましょう。」や、「始まり、真ん中、終わりの3つに分けて構成を考えた後に、物語を作りましょう」というように、考える宿題ばかりでこの年齢でこんな宿題!というものばかり。私がこのくらいの時は枠からはみ出さないように一生懸命ひらがなを練習した記憶しかありません。日本人は特に、教育課程で、論理的に物を考える力がついてないことが原因ではないかと思った。
チェルノブイリ原発事故のとき私は子供でしたが、母が当時ヨーロッパからの輸入食材を警戒し、イタリア製のスパゲッティ、オランダ産やフランス産のチーズ、スイスやドイツ製チョコレートなど乳製品を避けていた姿が今回まず思い出されました。なので、福島事故に際してはこの逆をしなければならない(=国産を警戒する)ことはすぐに理解できました。
あと私はかなりの映画好きで、本橋成一監督「ナージャの村」「アレクセイと泉」などの作品やトークショーを通してチェルノブイリ事故のもたらした現実を知る機会があったこと、また山形ドキュメンタリー映画祭等で上映されていた「六ヶ所村ラプソディー」で青森の現実について知る機会があったことぐらいが、私が放射能の危険性について事故前に考えるきっかけになったほとんど唯一の機会だったかもしれません。
しかしこれが大きかったのです。私の周りを見ていても、たぶんこういう経験のあるなしが避難行動に出る出ないを分けているという気がしますから。
しかし今回のような大きな事故では、何か見えない力が働いて、としか言えないような部分もありますね。最後に後押ししてくれたのは天国の母と父でしょうか。祖父母とかそういう存在のエネルギーを感じることができなかったら私も動けなかったかもしれません。過去と未来への大きな責任を背負っているような感覚です。
私の危険性の認識のきっかけは、はだしのゲンでなく、京大の小出先生の同僚だった故瀬尾健さんの「原発事故‐その時あなたは?」という本でした。
はだしのゲンは小学生の頃から兄弟で愛読していましたが、内部被曝に思いが至りませんでした。原爆と原発は別物と思い込んでしまいました。漫画にも入市被曝もぶらぶら病も出てますのに。
その後、成人して週刊金曜日の購読者になりました。広瀬隆さん、高木仁三郎さんなどの寄稿を読んでる中、書評で「原発事故」が取り上げられて読んだところ、過酷事故の場合、とんでもない範囲で癌死が出るということを知った次第です。
放射能の危険性が伝わらないことを改めて考えると、自分も既に十数年も前に危険性を認識しながら生活に忙しいと核反対の具体的行動をしてきませんでした。福島の事故が起こって、少しは、というところです。周りを責められたものではないですね。
放射能や戦争の怖さを教えてくれたもの・・・
小学校での原爆写真パネル展/広島原爆の絵本/火暮るの墓/月の子(少女マンガ)/猿の惑星/夢(黒澤明)/教科書掲載の「ラッキー・ドラゴン」/チェルノブイリ由来白血病の子供達の日本ホームステイ特集地方番組/はだしのゲン/黒い雨(井伏鱒二)/野火(大岡昇平)/白痴(坂口安吾)
※ラッキードラゴン・・・ベン・シャーンの第五福竜丸を題材にした絵画
http://www.nikkei.com/life/review/article/g=96958A9C93819497E2E7E2E3E38DE2E4E2E6E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E5E2EBE0E2E3E3E6E1E4E0
問題は原爆写真パネルや夢、猿の惑星などは多くの人が目にしているという事です。
しかし放射能危険派はまだ少数な現状です。不可思議です。
私は幼少から色々な想像が止まらなく、戦場に自分の身が置かれたらどうしようなどと寝る前に考える子供でした。そのため放射能も怖くて仕方ありません。
タイプによって有効な説得法が違うのでしょうか。
私は今の酷い政府の対応に怒りと反発心が湧いてきますが、
母は「情報を知ったってしょうがない、自分では何も出来ないし何も変えられない。政府に従うしかない。運命として受け入れるしかない。」といいます。
普段から怒りが湧かず脅しに弱いタイプで、今まで何度も騙されています。
こういうタイプの人が、どのように放射能危険論を受け入れてくれるのか日々悩みます。
親はテレビへの信頼度が高いです。ゲームや漫画に触れた私の世代と違い、真のテレビっ子は団塊の親だと感じます。
目には目をで、信頼の高いテレビにて放射能の危険を訴えている動画をiPadで見せようと考えています。
NHKの「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」にしようと思っています。
原発や核兵器にはあまり関心がありませんでした。
ただ私は子供の頃からアトピー体質で、
これが人格形成に多大な影響を及ぼしてきたと思います。
雑誌やテレビで宣伝している化粧品やシャンプーは使えませんし、
安いお店の揚げ物やコンビニ弁当を食べると目まいと頭痛に見舞われます。
去年は頂き物の千葉産の魚を食べて背中一面に蕁麻疹が出ました。
(九州産として売っていたらしいです)
去年から今年にかけて
放射能被害に関する本を読み少し勉強しましたが、
基本的には自分の体が教えてくれる事がすべてです。
こういう体質は不便ですが、
情報が錯綜する時にも迷う必要がないという点では
幸運なのかもしれません。
また核実験の頃は、「雨にぬれると禿げる。」と子供同士で言い合っていました。
やはり映像、写真など視覚に訴えるものは深くに残ります。
もう1つは、実際自分に起こっていることに繊細になったこと。
おできがよくでき、治りにくくなった。
外食すると皮膚にプツプツできるようになった。
外出時、また、北の物品を買ったり、送られてきた時、喉がいがらくなったりくしゃみが出ること。
自分の身体に気をつけるようになり、だんだん体感として汚染が分かってきました。
震災当日 大阪の自宅は揺れなかったので、それから数日間テレビにかじりつく余裕がありました。どの放送局の学者も、「メルトダウンはありえない、格納容器は健全。建屋はあまり意味のない箱です」と言っていたが、次々と爆発。
爆発してもなお、「爆発的事象」といい、首をかしげながら「それでも格納容器は健全です」とコメントする場面で、テレビを切った。失望した。
それで、テレビも新聞もやめて、ネット検索した。できるだけ危険を訴える情報を探して、放射能防護プロジェクト、SAVE CHILDなど、などを見つけた次第。
こちらの院長のブログは、飛行機の危険(上空の放射能)を感じて検索をかけたら、行き着きました。
私は子ども2人を連れて、主人の実家のある京都に今年三月に避難してきました。
私の場合、放射能の危険に気付いたのは四月頃。母乳からセシウムの報道がされてから、私も粉ミルクに切り替えようと思い、メーカーに問い合わせた結果に非常に疑問が残り、そこから自分で調べるようになりました。当時一歳の娘のおかげかと考えてます。
昨日宇治市の病院に子供の血液検査と心電図を診てもらうため
行ってきました。最初から何でこんな検査するの?と怪訝な顔で言われましたが、息子の口内炎、口角炎が通院しても治らず、給食を止めて完治したことを話し、夜中に溢れ出る鼻血の話をしたらようやく画面に向かって検査の手配をしてくれました。この辺では1番大きく信頼されてる病院だったのと、最後に先生自ら被曝についてこう思う、と話をしてくれて、勇気を出して行ってよかったと思いました。心電図は異常なく、小野先生の尿検査も異常はなかったです。が、三月の事故の日、何も知識なく川崎に住んでいて学校に薄いマスク一枚で行かせてしまったこと、しばらくはテレビの情報を鵜呑みにしていたこと。後悔してます。今後も検査はしていこうと考えてます。
ですので、自力で資料を集めて比較検討してみれば、3・11までは年間1ミリという法律が厳然と守られてきていたこと、低線量被曝の影響がわかっていないこと、その2点ははっきりしています。
これだけわかっていれば、自分には関東でたいせつな子供を育て続けることは、できませんでした。
強いて挙げれば「闘病」というもののつらさ(本人にも、周囲にも、精神的にも、経済的にも)を知っていることが、強力に後押ししてくれた気がします。「ちょっと体調が悪い」だけで、社会で自立して生きていくことは大変なことです。そんな目にはわが子を遭わせたくないです。もちろん、日本中の子がそんな目に遭ってほしくないのですけれど・・・・・・・
原発事故以前から、放射性物質が人知を超えた怖いものだと強く感じていたのは、隣県の東海村JCO臨界事故の犠牲者大内さんの闘病記録を見たからです。彼の壮絶な死を決して無駄にしてはいけません。人間は核を制御出来ると本当に思っている人がいるのだとしたら、何と傲慢なことでしょう。
後の時代に私たちは負以外の何物でもない遺産を残してしまっているのです。
ブログや院内勉強会での貴重なお話、ありがとうございます。
僕が放射能の危険性を知ることが出来たものは、漫画の「はだしのゲン」、アニメの「風が吹くとき」、スーパーファミコンの「シムシティ」のメルトダウンシナリオ、です。全部子供の頃に読んだり観たりしたものです。
福島の原発事故後、事態の深刻さを共有出来る友人の1人から、今回のブログにある「ゴルゴ13」の話も聞きました。
それでも、移住を決断するのに1年近くかかってしまいました。夫婦揃って、体調の異変が多発してようやくでした。
これからも多くの人達が、ジワジワと被害が広がりながらも、何事も無いように過ごして行くのだろうと、自分の体験を振り返り、そう思ってしまいます。
この経験から言うと、衝撃的な写真や映像をもっと前面にだした方が大衆には理解しよすいと思います。
イヤラシイようですが、わたしは理性的、論理的な説明には限界があると痛感しています。
勿論、爆発した翌日には、東京に住んでいた子供をつれて関西に引き上げました。
乳児にあたえる粉ミルクも汚染の可能性があることを知り、情報を得る為手に取ったのが広瀬隆氏の「東京に原発を」でした。初めて知った原発の実態にじっとしていられず、友人にも本を回覧をして読んでもらいました。その後十数年たちイラク戦争でアメリカが劣化ウラン兵器を使ったこと、イラクの子供、戦場の兵士が次つぎと被爆したことを知りました。7年ほど前に初めて広島の原爆記念館を訪ね、廃墟と化した広島の街の写真を見て、これまで自分自身が本当の広島の被害を理解していなかったと思いいたりました。
3月14日成田空港でのこと、水素爆発のニュースをみていた数人の作業着姿の男性たちが、「これ、やばいよ」とぼそぼそと話しているのを耳にし、今から思うと彼らは関係者の方たちだったのかなと。丁度同じときTVからは「直ちには影響ありません」と流れており、そのことが事故と同じ位不気味に感じられました。1537
更に、こと放射能の障害に関しては、政治の力で、隠蔽されてきています。戦争で使う劣化ウランや、核実験で犠牲にあっても、認められてきていません。チェルノブイリを経験したロシア、ウクライナの知人も、事故後に、家族が病気で苦しんでいる話をしてくれます。
私は広島市内で育ちました。小学生だった1970年代、8月が近づくと被爆経験者の方が学校にやってきて怖い話をするのがイヤでした。
けれど今は「放射能は見えないけど怖い。遺伝子をズタズタにするんです」と教えてくださった方に感謝しています。
20年以上前ですが、近くで水爆実験が行われた島の様子がテレビで放映されました。何気なく画面を見ていた私は凍りつきました。島の子供は笑顔いっぱいなのだけれど、手がなかったり足がなかったり。五体満足な子がいないのです。
東海地震の予想震源地あたりに原発があることに気づかされたのは大学の通信教育のサマースクールでした。2002年です。ひとたび事故になれば300キロ圏内には人が住めなくなると。
慶応大学の藤田祐幸先生(今は退官されていますが)が続けてこられた活動にも感謝です。
小野先生にも感謝しています。論理的かつ理解しやすいブログのおかげで、正気を保てています。実名で活動されることは大変だと存じますが、心より応援しています。
友人知人には危険を訴えましたが誰にも相手にされず、身近な子供たちが被曝し続けていることが悪夢のようです。
昨年の3月12日は昼のニュースで原発の事故を知り、東京の大学に通う子供にすぐに帰省するように連絡したため、爆発したときには新幹線の車中でした。
50年以上を生き、多くの書物を読んできたので直感的に原発事故の恐ろしさは知っていました。
先生のブログは毎日拝見しています。
私には3人の娘がいますが、放射能の影響は今後数十年以上続くこと、少しでも被爆を減らす方法等を折に触れ説明しています。
論理的な先生のブログは、子供に説明するときに非常に役に立ちます。
今後ともよろしくお願いします。
見学終了後、男子も女子も、何人か泣いていました。
中学か高校の時、外国のアニメ観賞会がありました。内容は、近所に原爆が落とされた夫婦が、死ぬ間際に放射能に気づく。麻袋に駆け込ん
でDeadend。でした。教室に戻り、先生「感想ある人」生徒「シーン」。凹む映画でした。
安全厨か危険厨かの違いは、放射能の怖さを、身近に感じられるかどうか、と思います。人間が人間でなくなって、ヒバクシャ差別始まる頃
には、安全厨も気づいてくれると思う。本当に悲しいです。
チェルノの事故の時、事故の様子を撮影しにヘリで入った人が3日後に亡くなったというのを聞いて、その頃から原発の本を読むようになりました。しかし日々の忙しさに、頭から薄れていましたが単純に皆原発嫌だよね?怖いよねと思っていたのですが、3.11後これだけ、皆が恐れないのが不思議でたまりません。
父は関東に移りましたが、父の兄は50台で胃がん、姉は60代で食道がんになりました。原発事故後、広島周辺の瀬戸内海の放射線量は高かったことを知りました。伯父も伯母も野菜は好まず、魚が好物でした。
低線量の放射能でも恐ろしいということはイラクの劣化ウラン弾による被害をDVDなどで見て知っていました。
震災直後から海外のニュースサイトで震災の報道がどのようになされているかチェックしていました。
3月14日の3号機の爆発はネットの中継でリアルタイムで見ていて、心臓が痛くなるほどショックを受けました。そして、この日を境に日本のマスメディアの報道は豹変したと記憶しています。
小野先生のDVD購入させていただきました。ネットをしない人に見てもらいたいと思っています。
「はだしのゲン」の映画があること、初めて知りました。きちんと見てみたいです。
今までのコメントを読んでいて感じるのは、広島・長崎の原爆という体験を日本人として、心に沁みつけた体験が、今回図らずもふたたび起きて(起こして)しまった原発事故の際に役立ったと考える人が多いことは、まさしく、原爆の被害にあわれて亡くなられた私たちの祖先にとって何よりの供養になるということです。
歴史に学ぶとは、そういうことだと思います。
私もおそらく、今回の事故後即座に、正しく放射能の怖さを実感することができたのは、広島・長崎の原爆の記憶が、それを絶対許さないという気持ちが、個人の記憶の中で風化してなかったおかげだと思います。
私の場合、中学生の時にチェルノブイリがあり”本当に危険な話”を読んだのが原発の恐ろしさを感じた最初のきっかけだと思います。幼少の頃母が原爆の映画に連れて行ってくれたり、広島の原爆資料館にいったことも影響しているのかもしれません。身近な所に薬害により障がいを負ったクラスメートがいて、その理不尽さを感じたこともあるかもしれません。薬害エイズのことや諸々の公害などを調べて、とにかく自分で考えて情報と知識を仕入れないとやられ損だと思うに至りました。国は利権に沿ってしか動かないのだと。そんなこともあり、医師になりました。
原発については、その広瀬氏の著書を読んで以来ずっと日本の運命に危機を感じてきたのです。偶然にも震災時は海外にいました。身内や友人に危機を訴え避難を促しましたが、一人しかとりあってくれませんでした。その一人も今やすっかり安全だと信じています。
友人の医師で真剣にこの問題に取り組んで考えている人は、日本にはいません。煽るのはやめてくれ、と言われる始末。海外では話の通じる仲間がいますが、皆関東でそのままの生活をしています。医者の使命とは、人の健康と安全を守る事だとずっと考えてきたのですが、どうやらそうではなかったようです。そんな状況に絶望を感じそうになりますが、とにかく自分の出来ることをしたい、何が出来るかと考えています。
当時5歳です
ものすごくおもしろく
ものすごく怖かった…
その後、太陽を盗んだ男を観て
原発の問題を感じました
身近では被爆された方のお孫さんが
白血病で5歳で亡くなった事がありました。
それと、年を経るごとに
政府の嘘・欺瞞が苦手になり
常に報道の裏読みするようになってしまい…苦笑
なぜ放射能の教育をしないのか
長年、不思議でした…
(うすうす、わかっていましたが)
被爆大国に住みながら、関心を持たない一般人が1番やっかいな生き物で、なおかつ真っ先に犠牲になるだろうと、昔から頭にありました。
30年前に大学での放射性同位元素を使う実験の時に、助教授の指導教官が言っていました。昔は電気もみんなは怖れていたが今は安全に使っている。放射能も将来はどこにでもあるものになっている、と。今、別の意味でどこにでもあるものになってしまっています。
私の場合、友達関係のなかで、六ヶ所村ラブソディやミツバチの羽音・・の映画を観たりして、放射能というより環境問題としての反原発でした。
私は関西在住です。311当初の気持は、(非難されるかも知れませんが)、どうせ、市町村は電力の助成金をもらって誘致したのでしょう、原発被災者はどうせ補償金をもらえるのでしょう、それより宮城県など天災の被災者救援に義捐金などを使うべきだと考えていました。
去年の11月ごろ、知人のジャーナリストのブログで、ぬまゆさんのブログが紹介されていて、福島では大変なことが起こっているのだと知り、原発関係の情報をインターネットで積極的に調べるようにしています。今は福島のことをひとりでも多くの人に知ってもらえるようにすること、食品に含まれる放射能の怖さを伝えること、関西の土地を汚染から守ることを考えています。福島の人には避難をして欲しいけれど、自ら動き出さないと私たちは何もできません。避難してくる人に対しては暖かく迎えるつもりです。
広島長崎の人体実験に続いてアメリカに福島までやられてしまったとしか思えません。
欠陥だらけのGE製の原発をこの狭い地震国日本に55基もおいていつの日か爆発させるようにアメリカは仕組んでいたのでしょう。
ともだち作戦なんて笑えます。何が友達?
本当は日本再占領作戦じゃないですか。
平田オリザが韓国でアメリカが放射能汚染水を太平洋に長せと日本の官邸でいったという重要な発言は決して忘れません。
日本人は広島長崎だけでなく福島まで生きた実験材料としてアメリカに差し出しているのが今の腐った現実だと思います!目を覚ましてください!
愚かな日本人たちよ!こうして今もどんどん日本全国に放射能汚染は広がっているのです。
今も昔もアメリカは日本の敵であり、日本は戦争をやめたけれどアメリカは今でも戦争をやめていないのです!日本に基地を置いて今でも日本を占領している、決して日本を守っているのではないんだということです。
わたしは12日に子供の幼稚園のママからメールでコスモ石油の爆発で汚染があるらしいから完全防備で外出すべしという内容を受け取った時から違和感を感じました。それからはインターネットでありとあらゆる情報をかき集めました。
ニュースで1回目の水素爆発が起きた時から一切窓は開けず、エアコン、換気扇も止め、汚染に備え風呂の水も溜めて籠城しました。幸い別の災害用に水のストックはあったのですが、15日覚悟を決めて、マスク、帽子、コートを着込み、車で新宿大久保のドンキホーテに水の追加ストック分と缶詰を買い込みに行った際、韓国系の人々の多くが無防備の日本人と対照的にマスクや雨は降っていないのにビニール傘姿でマスクや水を買いにきていて水よりもマスクの在庫を店員に殺気立って問い合わせているのを見たときには手遅れかと鳥肌が立ちました。
結果私だけ一番汚染の酷い時に外出してしまったせいかどうか、家族の中で唯一鼻血を出したり咳喘息のような症状がずっと続いています。丸々1か月の籠城で子供に不調は初期のおできのような湿疹以外は今のところ見られません。
NYの911の日、ニュースステーションが切り替わりCNNニュースになってリアルタイムで惨事を目の当たりにしました。脳内で今まではフィクションだった事が現実になったのを経験した事で私の中のアラートにスイッチを入れるきっかけを作ったのかもしれません。
絵本を見せてくれました。
内容はかなり衝撃的で原爆で人がドロドロに溶けてゆく様を
淡々と何ページも描かれている作品で、子供心にしばらくトラウマになりました。
ですが、自分が小学生だった頃は平和学習と称して
「はだしのゲン」や「とびうおのぼうやは病気です」など
沢山の映画や書物を教育の場で見る機会に恵まれておりましたので、
当然、放射能は危険だと言う事は自然に意識に根付いてます。
そういえば、中学の教科書に水爆実験で被爆し、腕が
グローブのように腫れた兵士の写真も載っておりましたね、
週間少年ジャンプに連載された「飛ぶ教室」も核戦争を題材にした作品でした。
これで放射能は安全だって信じるのはアホとしか言えません。
ところが今では教育現場でも放射能は安全ですって教えてるらしいですね。
こんな教師の仮面を被った悪魔達は頭カチ割ったろか!という憤慨やるせない思いです。
私の母は、原爆が落ちた近県の出身です。
祖母が、あやしい灰が飛んでくるのを見たとき、母はお腹の中にいました。
祖母は、ガンで早く死に、母も、病気だらけの人生を送り、早死にしました。
私も、昔から体力がなく、免疫の病気を受け継いでいます。
母のようなもっとひどい病気を発症したらどうしよう、と恐れて生きてきました。
これまで、「個人差」「家系」だと思っていたものは、放射能の影響だったのではないか、祖母、母、私の三代に渡って、人生を翻弄されてきたのではないか、とようやく気がついたのです。
母は学校の先生から、「君たちは、一番お母さんの栄養状態が悪いときにお腹にいたのだから、勉強や運動ができなくても仕方がない」とよく言われたそうです。
今から思えば、本当に栄養だけの問題だったのでしょうか?
同じ土地出身の親類は、母子共に健康で出産、ということがなかなか難しい。どちらか、あるいは両方が病気になりやすいです。
母には、結婚したい人がいました。
しかし、相手の家業を手伝っていくことが、体力的に難しく、あきらめました。
死ぬ間際まで言っていました。「あの人とどうしても結婚したかった」と。
私は、昔から、夏にやる戦争ドラマが苦手でした。
修学旅行で、原爆資料館に行きましたが、まともに見ていません。悲惨だと分かっているものを、なぜまじまじと見なければいけないのか、当時の私には分かりませんでした。
祖母は、「海を汚してはいけない」「こういうものは食べてはいけない」と、今で言う環境問題に熱心でした。
母もその影響を受け、私の食べ物に気をつけてくれました。公害で、私に魚を食べさせられないとか。私もその影響を受けていて、究極の環境問題としてとらえているのかもしれません。
ちなみに、父親は、国を信じて、食べて応援派です。戦後は、国を茶化す替え歌を歌っていたそうですが。
原発への恐怖は広瀬隆氏の「東京に原発を」と「危険な話」から。
放射能に限りませんが、「沈黙の春」も中学生の頃に読んで驚愕し、「将来に、今現在では解っていない、何らかの物質によって、公害が引き起こされるかもしれない。科学の発展は果たして良いことなのか?」と、いう作文を書いたくらい、環境汚染には敏感でしたから、今回の事故でも最初は騙されかけましたが、徐々に矛盾をを感じ、テレビで初めて小出氏の見解を聞いてから、「正しいのはこの人だ。」と、すぐ解りました。
危機を感じた理由は、大昔に伝説の番組11PM内で「危ないバイト」という短編ドラマを観たためです。
「ドラム缶を運ぶ簡単な仕事だと思っていたら実は放射性物質で、働いていた人が次々に倒れて行く」といった内容でした。
原発100キロ圏内のため安全ではないことは漠然と知っていましたが、内情は本当に怖いな…と思いました。
その日の夜は映画を思い出し、怖くて眠れず、「怖い!爆弾が落ちてきたらどうしよう」と家族のいる居間に泣きながら起きて行きました。
そして小学校の修学旅行が長崎、中学校が広島。
どちらも原爆資料館へ行きました。
8月6日は毎年登校して、平和授業を受けていました。
なので、核と戦争の恐ろしさは、私が他の人より心配性ということもありますが、小さな頃から染み付いていました。
『ヒロシマナガサキ』というDVDの中で若者に「8月6日は何の日か知っていますか?」と言う質問に答えられないシーンが出てきます。
答えられないことが私には信じられませんでした。
最近そのシーンのことを思い出し、原爆のことを知らなければ、放射能のことも知らなくて当然かも…と思いました。
今は大切なことを教えてくれた先生方に、感謝しています。
@漫画
書籍名:チェルノブイリの少年たち
著者 :三枝義浩
出版社:講談社
→たぶん、高校生位の時に、なぜか兄が持っていて、読んでいた。最後に、おじいさんが原発へ向かっていく姿(リクビダートル)が強い印象
A大学で、水俣を卒論に書いた
→これが一番大きい。
→政府の正体と、人間の怖さ・弱さを知った、という印象
→事故後、あまりに対応が同じで、
今後何が起こるか予想できてしまった。
B3.11の前に、いくつかネットで見ていた
「元GE技術者・菊地洋一さん講演「命はほんとうに輝いている」」など
http://www.stop-hamaoka.com/kikuchi/kikuchi2.html
都内にいて、3.11の地震で帰れなくなり、みんなで会社でのんびりお酒など飲んでいたのだが、ECCSが止まったというニュースを見たときは青ざめた。津波のニュースしか流さないTVを見て苛立った。4月一杯は、正直パニックだったと思う。
小さい頃からの戦争関連の本、少女漫画月の子、風が吹くときの絵本DVD、チェルノブイリの真実、土門拳さんの写真、茨木のりこさんの詩、様々なドキュメンタリー(311の前に劣化ウラン弾で米兵と地元の子ども双方に奇形が産まれているもの見ました)が土台になっています。
311後は、ネットの歌で目が覚め、放射能の真の怖さに気づいたのは映画チェルノブイリハートです。自分が被曝者となった立場で見る、沢山の人が苦しんでいる映像が大変ショックでした。特に10代らしき娘の心臓手術を待つ父親が、先祖代々の土地から引っ越すなんてあり得ない、政府はここが安全だと言っていた、という言葉にこれからの日本の姿が重なりました。映画ヒバクシャも心にきました。
避難を決めたのは、自分の住む地域の土壌汚染を知り、木下さんが「子どもを産むことも含めて自分の可能性を放射能のせいであきらめてほしくない」と講演で言ってくださったからです。
私の周囲で若くして亡くなったのは、白血病が2人、心筋梗塞1人、蜘蛛膜下出血1人。死んではないけど、同級生で心房中隔欠損が2人。私の母も1人目は流産していて、私自身が子どもの頃、頻繁に鼻血を出していました(友人にも何人もいました)。事故後、点が線で繋がりました。
それから、足尾鉱毒事件の被害自治体(うちの周りでは大した被害はありませんが、同じ自治体内で被害を受けた地域がある)で生まれ育っているので、その教育を受けていたこともありますでしょうか。被害者切り捨てという。
これほど知識の詰まったブログと自然と分かりやすいおかしなブログにめぐり合えるとはありがたいことです。
自分は気づくのが遅かったと思います。西日本在住で、子どもたちに多大な影響がなかった(であろう)ことが救いです。
まず気づきのきっかけは、内閣官房参与の小佐古教授の記者会見。「政府の対策は法にのっとっておらず、場当たり的だ」として内閣官房参与を辞任したというニュース(4月29日) http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html#more
この頃は自分の仕事と子育ての毎日で、「あれ?何かが変だ」とニュースで気になった程度でした。
その後、やや教師の仕事が楽な夏休みが到来、決定打となる児玉教授の国会参考人説明を動画でつぶさに見ました。http://savechild.net/archives/6135.html
その後、夏休みの夜はネットを通して毎晩勉強しました。
人それぞれの気づきの差には、その人のネット環境と情報を集める時間の余裕があるか、「気づける疑える自分で考える」ができるか、が関係するように思います。私の場合は子育ての過程で初めての本当の意味で自分で考えるようになったと思います。上の子は赤ちゃんの時から重い食物アレルギーがあり、早くから食と環境、マスコミや業界のうそに敏感になりました。2人目は妊娠後期に身体障害があることが分かり、出産するが死産しました。このことで精神的に強くなれましたし、自分の中に子どもを守る親としての自覚がやっとできました。3人目は今8歳ですから、日本の3.11以降の現状には敏感にならざるを得ないです。本当に子どもたちに勉強させてもらっている感じです。
他の皆さん同様、3.11以降に被爆を恐れないで普通の生活を継続できる人が多い日本の現状にあぜんとするばかりです。
事故後の報道が「何か隠してるんじゃないの?ごまかしてない?」って直感的に思いました。枝野さんが「直ちに影響はない」という度、「直ち…って何よ!」と心の中で突っ込んでいました。
子供もいるので心配で、早い段階で情報をテレビではなくネットに切り替え、危険性を知りました。
ところで、最近ご近所の方がなくなりました。高齢ではありましたがとても元気な方で持病なし。ところが突然急性白血病で息を引き取りました。
その方はいつも「井戸水だからウチのお茶は美味しい」とお茶をいれてくださる方でした。炊飯も井戸水とか。そしてご家族は最近口内炎がずっと治らないと話されています。
埼玉南西部、井戸水は大丈夫なのかと私は即座に思いましたが、周りの人には「あり得ない」と笑われてしまいました。
先生どう思いますか?
なにぶんこの辺のコンプターテクノロジーに疎いので届くかどうか解りませんが。
www.pakalertpress.com/2012/05/13/plume-gate-secret-documents-prove-global-cover-up-of-continued-fukushima-radiation-pollution/
ではなぜ、その言葉が残っていたのか?
私は、小さいときから、特に「怖い」と感じる事象について、絵や言葉や体験がフィルムのように残るタイプでした。また、戦争体験を聞いただけでそれが映像として浮かび上がってくるようなところがありました。
広島の原爆の絵本の中で、皮膚がただれている人たちが歩きながら川に向かっている挿絵。ガラスのウサギ他、ピカの光だったか、黒い雨の打たれてだったか、陰だけが人の形に残っている場面。
そのとき感じた「こわい」「危険だ」との認識を
今もずっと持っていたことが、仕事もそれまでの社会的信用をも”些末なこと”に追いやり、今、とりあえずの安全を求めて、疎開する原動力となったと思います。
私の場合は、NHKの放送です。
昨年の4月8日から1週間、BSでチェルノブイリ特集をする予定だったのですが、当日の朝になって突然放送が中止されました。(5月頃になって放送されました)
今回の原発事故の放射能はどの程度危険なのかチェルノブイリの事故を通して知りたかったので、このドキュメンタリーを是非見たいと思っていました。NHKはこの重要な情報を当然放送してくれると信じていました。
放送中止に対してNHKに抗議の電話をしながら、ふとこれが言論統制というものか、戦時中に行われた表現の自由の抑圧とはこのことだったのかとわかると同時に、今の日本の状況が怖ろしくなりました。
そして、その日からネットを通じて情報を集めるようになりました。
放射能の怖ろしさについては、小学校5年生のときに広島の原爆資料館に遠足で行ったこと、中学校の修学旅行では長崎の原爆資料館へ行き、宿泊したホテルでは実際に被爆された人からお話を聞いたことから知っていました。
良かったら拡散してください。
被曝での健康被害には、具体的な病名がつかないものも有るのだという事実を強く認識したのはこの頃からです。
その後、ロックに目覚め、「宝島」という雑誌がチェルノブイリ事故後に広瀬隆氏や広河隆一氏の著作の広告を載せていたことから興味を持ち、購読し、ショックを受け、しかし泊原発反対運動で挫折し、その後は若さゆえに危機感は風化していました。
全て隠蔽の為の国を挙げての世論工作だったのかと、今なら解ります。悔しいです。
さて、自分はどうでしたでしょうか??
去年政府の暫定基準値の説明が、
「年間200回のレントゲンを受けるのと同じ被爆・・」(少しうろ覚え)と言う記事を読み、あり得ない!と思ったのが”気づき”の最初だったと思います。
個人的には、3.11以前から野口整体の考え方に沿う生活を心がけていましたので、人間のからだ・治癒力などについては、西洋医学への疑問はもっていました。(院長先生、ごめんなさい!)
院長先生が、水俣病と今回の事故の関連性を指摘されていたので、もっと水俣病について知りたいと思いました。
偶然学校の後輩が、「みなまたの木」と言う絵本を出版したことを先日知り、早速買ってみました。
悩み苦しんだ末、作者はこれを書き上げたと聞きました。
日本はこの先どうなってしまうのか?
せめて、子ども達が安心して暮らせる国を受け渡すのが、親(大人)の責任と思って原発NOの意思表示をしています!
(政治家に、”黙認”なんて言わせませんッ!)
一つ目は、放射線学の雑誌に掲載されるDNA修復に関係する論文を時々読むことがあったのですが、分子生物学系の雑誌に掲載される論文に比べて個人的に古臭いという印象があり、どうも学問分野としての放射線医学が好きになれませんでした。今の状況を見て当時の自分の印象が正しかったのだと思っています。
二つ目は内部被曝を実感として理解したことです。ガンマ線はいくつもの細胞を突き抜けるかも知れないが、細胞の側からすると一つのガンマ線のエネルギーをたくさんの細胞で分け合っており、一個一個の細胞に対するダメージは少ない。逆に紙でも遮られるアルファ線は、たまたま隣接するたった1個の細胞に全エネルギーを与えて力尽きる。ある時このようなイメージが湧きました。その時から内部被曝が外部被曝の数百倍悪いということも実感として理解できるようになりました。またDNA修復遺伝子に多型性があるように内部被曝を含めた放射線感受性というのはかなりの個人差があるのではないかと危惧しています。
私は今、30代ですが、この年齢でこれだけの放射能汚染事故を目にするとは思ってもいませんでした。現在の世界の原発、核の状況は、もともと悲観的であった私の想像より更に悪化しているのだと、実感しています。
少しでも放射能の危険性に気が付いてほしいと、知り合いにこちらのブログを紹介させて頂いております。
しかしながら私自身は姉や兄からも理解されず、アジテーター扱いされる始末です。
同じ環境で育った私が何故放射能の危険に気が付き移住の準備をしているのか…。
多分、「怒り」という部分が関係するのではないかと思います。
私は国や東電のせいで命を縮めたくも病気にかかりたくもない!とt強く思っています。
でも姉や兄は放射能瓦礫拡散も放射能汚染食料も「仕方がない」と思っているようです。
今思えば、小学生の低学年の時に見た東大の樺美智子さんが亡くなられたデモの写真や、戦争時の情報統制に対して幼心にふつふつと怒りが湧いて来た事が挙げられます。
それから大きくなるにつれ、国は民を守らない、国体を維持する事のみ力を注ぐ、民の命は羽毛より軽いと言い放った国は信じるに値しないのだと認識するようになったのだと思います。
そして神戸在住の折、阪神大震災に合い、国だけでなく地方自治体も被災した市民の事など税金を取る数の一つにしか捉えていないのだと確心するに至りました。
知る権利とばかりに錦の御旗をはためかせ、美談に仕立て上げるマスコミも事実を伝えない只の組織なのだという事も理解しました。
今回の枝野氏の会見は、正に国民を愚弄するものでした。
あの会見を見ておかしい!と直感的に感じない人は、危機意識が欠如しているお人好しかもしれません。
でも移住を真剣に考え始めたのは、やはり今までにない体調の変化が現れてからです。
同じような症状が出ていても、内部被曝など露とも思わない人も勿論いますので、これはもうテレビや新聞に洗脳されているとしか言いようがありません。
放射能の怖さについて3・11以前ほとんど知識がなかった私に移住を決断させてくれたのは、院長先生のような真摯なブログのお陰です。
本当に有難うございました。
放射能の絶対的な危険性に気が付いてもらう為にもこちらのブログをもっと多くの人に紹介させて頂きたいと思っております。
本能的にヤバイと思いました。
私は昨年の3月15日午前9時頃にテレビで原発の爆発する様子を目にして、「もうダメだ」思い。
奈良の友人宅に電話をして宿泊の了解をとり、リュックに着替えと少しの食料と子供のヘルメットを持って飛び出しました。
会社の旦那には「奈良に行くから」とだけメールして。
その時は実際の放射能の怖さなどわかっていませんでした。
「もう東京にはもどれないかもしれない」と思い。
近くの実家によって、両親に挨拶をして。
父親には「東京を出る必要はない。このまま精神病院に行ったほうがいい」と言われました。
気が狂っている扱いされましたが、「一刻も早く東京からはなれなくては!」と何かわからない想いに強くおされて行動していました。
奈良の友人にも「東京大丈夫だよ。帰りなよ」っていわれましたが。
4歳の子供を連れて、ホテルを転々としました。
1ヶ月関西に滞在して東京にもどりました。
私の話は科学的知識も明確な理由もなく、皆さんのお役にはたちそうもないですね。
今は北海道に移住しましたが、15日の決断は間違ってはいなかったと思っています。
東京(東部)に戻ってから、子供を幼稚園に半年通わせとことは後悔しています。
自分は横浜から京都に移住しました。
私の場合は全く知識がありませんでした。原発事故は怖いという漠然としたイメージだけです。
原発が危なくなってから、わからないながらもネットで情報を調べ CNIC のストリーミングに行き着いたのが強く危機感を感じたきっかけでした。
CNICでは「東京でも安全かどうか分からない。できるだけ遠くはなれた方がいいとしか言えない」と言っていました。換気扇を止め、目張りをして、外に出るなら水マスクがいいと言っていたと思います。ヨウ素剤や昆布の事も。
東電会見とCNICとテレビを見ていて、そのギャップにまず危機感を持ちました。爆発等トラブルがあった時のメディア発表の遅さもとにかく避難!と考えた理由の一つです。
3月17日からようやく主人の休みが取れて、10日間関西に避難しました。
関東に戻って食べ物にも気をつけていましたが、4月位から慢性的な副鼻腔炎と喉のつまりに悩まされ、2ヶ月ほどで身体に紫斑でき、また自治体の対応の酷さにも悲観的になり、夏に移住を決断しました。
私の場合はツイッターをしていた事、情報を比べることが出来る環境にいた(情報を調べる時間があった)事が人より早く危機感を持てた要因だったと思います。
放射能が怖いというよりも、政府と自治体が信用できないと感じた事が大きいです。
身体の症状はトドメでした。
それでも必要であると言う人に反論する言葉を持ち合わせていませんでした。
数年前、北山耕平さんのブログに『原子力について忘れてはいけない呪文』というのがあって、以後それが念頭にあって、以下にその文を転載します。
原子力について忘れてはいけない呪文
*原子力はクリーンエネルギーじゃない。
*原子力は安いエネルギーじゃない。
*原子力は地球温暖化への解答じゃない。
*原子力は安全なものじゃない。
*ウラニウム採掘には危険がいっぱい。
*核兵器の投げかけた脅威は終わってない。
*核廃棄物の問題はずっと未解決のまま。
*核施設の誘致はその土地を豊かにしない。
*ウラニウムは掘り出さないのがなにより。
そういえば、小学1〜2年の時にチェルノブイリ事故が起こり、当時の記憶は、常温/長期保存の牛乳を暫く飲ませられ、不味いなぁ、というものだけです。
飲ませてくれた母親は、見事に(?)テレビと新聞に操られ、チェルノブイリとは違う、東京は大丈夫、早く帰国してこい、の一点張りですが。。。
今回危機を感じたのは
『ただちに危険はない』→すぐには影響は目に見えないが、しばらくしたら危険?あいまいな表現になにか隠そうとしていると解釈しました
3号機爆発時のきのこ雲→広島長崎の原爆の雲と同じに見えました!ただの爆発ではなさそうだ。
前に読んでいた本「放射能で首都圏消滅」→原発が壊れたらどうなるかというシュミレーションが、いま現実に同じようにおこっている、と本を読み返しながら実感
あと、私自身は出産を機に大きく変わりました。子供の健康を守るために、子供に与えるもの(衣食住、医療、環境など)を調べ始めたところから、いろいろなことが見えてきました。今までよく考えずに選択してきたこと、CMや慣習などが知らず知らずのうちに安心材料になっていたことに気づきました。
1995年1月 阪神淡路大震災が発生。この
時報道された映像・画像を見た時に、「あぁ、
原発も無傷ではいられないな」 と感じました
た。
当時、浜岡から100km余り離れた静岡県東部に
住んでおり、可能なら安全な場所に移らなくて
はと常々思っており、幸運にも2001年に現在
の場所に移り住むことが出来ました。
お陰で、福島第一原発の放射能渦からは家族
を守る事が出来たかなと思っています。厳密
には、そうではない事は判っていまが・・・。
海外に住んで居ると、食品からの内部被曝
に関しては、日本に居る場合とは格段の違
いで危険度が少ないのではと思っています。
この、ストレスが無いだけでも有り難いと
思っています。
様々なハードルをクリアーしなくてはなり
ませんが、海外移住も視野に入れない事
には、自分と家族を守れない世界になって
しまったと言う事でしょうか?
関東軍がどんな連中だったか、最初(満州事変)から最後(降伏)まで何をやっていたか、昭和時代には優れた文学やルポルタージュがたくさん出版されました。
関東軍が在留邦人をどのように裏切ったのか、そして、その責任者どもがその後どんな栄達を遂げたのか、そいつらの戦後の交友関係がどうなっているのか、知れば知るほど嫌悪感を募らせていましたが、今回の「原発事故」も、気味が悪いほどその構図が重なりすぎていたことでしょう。
悪を悪と指弾せず、なあなあで済ませる、あるいは開き直って正当化して恥じないような輩どもが、同じような悪を繰り返さないと考える方が不自然です。
ただし、旧軍では、大本営の作戦参謀が前線部隊へ転勤するような人事異動が当然視されており(最高のエリートだからこそ一番困難な部署で能力を発揮すべきという発想で)、ずっと部隊勤務ばかりだった将校はいても、ずっと参謀本部や陸軍省勤務ばかりだった将校なんていないのです。実際に戦死した、あるいは生還したが地獄を見た高級将校は大勢います。しかし、現代日本のエリート官僚どもにはそんな精神すら欠片ほどもないのを見ると、より強い嫌悪感を感じます。
72年生まれ、神戸育ちですが毎年終戦の日の前に近所の公民館で原爆展を開催していました。
子供心に大変恐ろしく、原爆も戦争も絶対にいけないものだと心に刻み込みました。
いつのころからか、原爆展はなくなってしまいました。
また阪神大震災で私は被災し家も家族もなくしましたが、その当時のマスコミ報道が大変偏ったものだと感じました。
被害を受けたのはあらゆる地域なのに特定の地域しか取材しない、視聴率を取れそうなものしか報道しないなどです。
ですから、当時20歳そこそこでしたがマスコミに対する信頼性はなくなってしまいました。
今回の震災でも「ただちに影響はない」と言った時点でウソだとわかりました。
それから、しそはは様。
埼玉南西部の井戸水ですが、おそらく汚染されていると思います。
私は関東・東北の食材や水(水道水・地下水)を使用した加工食品を口にすると身体症状が出ます。
埼玉の地下水を使用した加工品(煮豆)を食べてひどく症状が出ました。
お気を付けになったほうがいいと思います。
3月11日、電源停止の速報で背筋が凍り、爆発直後に西日本に逃げました。
中性子線の怖さがそのときに焼きつきました。
原発事故があたったらすぐに
100キロ圏内から脱出することに決めました。
「原発ジプシー」著者の方は当時の7ヶ月の潜入取材で、現在体がボロボロだそうですね。
劣化ウランで苦しんでいるイラクの子供
劣化ウラン弾に使われている原発から出た廃棄物
フランス映画「ネコを探して」で見た
水俣病で神経をやられた猫、人の映像。
公害を認めない会社
被害を矮小化する国
そのあとは病院待合室でパラ見した「はだしのゲン」かも。
山岸涼子さんの「パエトーン」も衝撃的でした。
昔は日教組も反原発気分だったのかしら。アメリカが犯人の核被害だから放射能の怖さを伝える図書を安心して?子供たちに読ませたのか。
きっと後者ですよね!国策による、国内大企業の起こした放射能大惨事においては、
給食の安全も図らず、マスクもさせず、
ホットスポットに平気で修学旅行につれていくのですから。
色々な本を読んでいたという過去もありますが、一番大きかったのは
ツイッター内「安心してね」派の科学者やジャーナリストなどの
書き込みを読んだことです。「これほどごまかしたいとは
本当に恐ろしいことなんだな」と思うようになりました。
何よりも「大丈夫だよ」派の方々の100パーセントが、無責任で、
他人を満遍なく見下すような発言をしていることが大きな不信感に
つながり、更に放射能に限らず各方面の本をたくさん読み、信頼
できない人々だと確信を得たのです。
科学的に確実な結果がわからないにもかかわらず、絶対的な自信で
「心配するなんてバカみたいだ」と言わんばかりの傲慢な態度。
はっきりと言わずに遠まわしに他の科学者を非難する腹黒い書き込み。
自分に都合の悪い質問は全て無視して、調子よくチョイスしたコメントで
繰り返す人格否定発言やはぐらかしツイート。
読んでいる人が気がつかないとでも思っているのでしょうか。
自分のためだけにモノをいう人々の多さにあきれ返るこの頃です。
私の場合は21歳の時に起きたチェルノブイリ事故で、当時は千葉に住んでました。
これを感じたのは私だけかも知れませんが…
私は物凄い冷え性で、夏でも半袖のパジャマを使えない程でした。
8月のお盆が過ぎるともう冷えを感じ、9月からコタツを出し、真冬は泣きたくなる程辛かったんです。
チェルノブイリ事故のあったその年の冬は、それまでと同じ寒さでした。ところが翌年から冬の寒さが一気にやわらいでしまったんです。
コタツ布団は3枚は必要だったのが1枚で平気になり、冬が泣きたくなる程辛いという事はなくなりました。(環境が変わったり病気をしたという事もありません)
それでこれは事故の影響なのでは?と思うようになりネットをするようになった近年調べてみると、同じ事を言う外国の学者を見つける事が出来ました。
たった一人だけですが…
私の場合、
放射能について「怖い!」と激しく感じたきっかけは、たつみや章さんの『夜の神話』という児童文学を、小学校の頃読んだことだと思います。
内容としては都会っ子が夏休みをど田舎でくらすうちに、あるきっかけで神様や生き物の声が聴けるようになって…という「命の大切さ」を扱ったものですが、都会っ子のパパは原発の技術者であり、事故によって技術者仲間の友人が亡くなる様がストーリーで同時進行します。
技術者の放射線被害が「青い火」として都会っ子の目に見えるよう描写されており、体中から火が出ている様子は、かなり怖かったです。
また本の最後に原発事故がテレビ報道されるシーンがあるのですが、「なおこの事故による死者はおりません」という一言でニュースがさっさと終了してしまうことにも衝撃を受けました。
自分が生きている今、全く同じ状況が進行していることには絶望します。
小学校の修学旅行は長崎でしたが、原爆経験者のお話を聞いた後泣いている級友に対し友人が「あんなの嘘泣きだよ、全然怖くないし」と言っていたのを覚えています。
今考えれば本当は友人自身も怖かったことの裏返しかも知れませんが、今の国民の多くの「心配いらない、考えすぎ、安全」という感情と根本的には同じだと感じます。
皆様色々なきっかけがあり、読んでいて興味深いし挙げられている本など参考になります。
今回の日記は特に、今まで危険を感じていなかった方に読んで貰うと身近なものとして感じてくれると思います、友人に読ませてみます。
その後、福一で残って働いてる方々が、満足に食べる物さえない状態でいるとい報道を読んで、背筋が凍りました。日本を救うために身を投げ出してくれている人たちを、十分にサポートさえしない(あるいは出来ない)政府は、東南アジアなどに若い兵士を送り出して、食料や医療品を支援しなかった戦時中と何も変わらないと愕然としました。
以来、日本は、本当にもう駄目なのかな(あるいは、ずっと前から駄目だったのに、気付いてなかっただけなのかなぁ)と、自問する毎日です。
このブログと皆さまのコメントを読むと、少し元気になりました。ありがとうございます。
東京にプルームが到達する前に避難し、そのまま移住をした者です。
マスコミや国を信じていなかった必然で、ネットや本で放射能のリスクやチェルノブイリについて調べて移住を決断しました。
マスコミを信用していないと口では言う人も安全だと信じたい気持ちが大きいのですよね。
だから普段ぼやーんとしている私が、危険性を訴えて色々本を勧めても絶対読んで貰えなかった(泣)
育児中の世帯ほど避難した方がいいけど、育児中は地域にネットワークが出来て根付くから、単身の人より今の生活を捨てるのが不安かもしれません(私がそうでした)。
説得したい相手には震災前から危険性を訴えていた広瀬隆氏や専門家の小出先生やチェルノブイリの被ばく関係の本を「送る」と少しは予防するようになるかもしれません。。
でも(そもそも論ですみませんが)、結局のところ、みなさんに放射能の危険性について過去に刻まれる経験があって避難を自ずとされたように、避難しない大半の人にも深く刻まれた価値観や行動基準があって、結局は避難はしないのだろう・・・と思ってしまいます。
また色々考えたんですけど、私もそうですけど、ここにコメントされた方達も、福島の事故前は、原発に対して何の行動も取って来なかった人が多いのではと。私は以前も原発が安全だとは思ってなかったですけど、生活にかまけて、自分の問題として強く考えてはいなかった。祝島の反対運動のことも浜岡原発の裁判も、国外に居たとは言え知らなかった。それほど大事とは思えない某女性歌手/女優の覚せい剤逮捕事件とかは、知ってたのに。やはり、マスコミが何を大きく報道するかに影響されていた面があります。(今だったら二股騒動ですか?)
ずっと何十年も原発反対運動をされてきた方達、例えば小出裕章さんのような方は、きっと、どんなに伝えようとしても反応のない大多数の人達に、歯がゆい思いをされてきたんだと思います。
大多数の人達は、どんな報道がされているかに、やはり受身で影響されてしまうという現実。事故後は、危機感を研ぎ澄まされて、自主的に情報を得ようとしているか、事故後もまだ受身で「大衆操作」されているか、の大きな違いはあります。でも、私達も大多数は、一時はスリーマイルもチェルノブイリも結局は他人事で済ましてしまった過去がある、自分達は安全だと思ってしまった過去があると思うと、やはり、あまり違いを意識しすぎるのもいけないのではないかと。辛抱強く、自分の知っていることを一人でも多くの人に伝えていけば、意識が変わる人がいるかもしれない。私達が変わったのと同じように。
逃げろと警告して、人々に嘲られる、と言うのはノアの方舟の話等、聖書の中に幾つもあって、ちょっと黙示録的な意味合いを連想してしまいます。逃げる事が必要だと理解出来るのは、聖書の中では神に選ばれた人達だけです。で、イエスはその神の選ばれた人達を探し出して、救いの手を差し伸べる為に、あらゆる人達に伝道しなければならないと、使徒達に言ってます。これを当てはめると、どんなに言っても逃げない人はいる、必要を感じない人はいる、でも、変わる人もいるかもしれない、理解してくれる人がいるかもしれない、一人でも二人でも命を救える人がいるかもしれない、と思って、諦めずに伝えていくことが大事だと言う事だと思います。勿論、院長先生を始めとして、既にたくさんの方が今努力されていると思いますけど、私も及ばずながら、出来るだけの事をしたいと思います。
@ミクロの世界について考えるのに慣れていた。
大学で化学を専攻しており、原子や分子を図に描いて反応を考える作業に慣れていました。今はあまり関係ない仕事をしているのですが、この経験のおかげか、花粉に付着するセシウムや、骨でカルシウムを置換するストロンチウムなど、「目に見えない」事象が目に見えるかのようにありありと想像できます。
Aテレビを見ない、新聞取らずニュースはネットで読む。
今は海外在住ですが、日本にいたときも、テレビはくだらなくて見ていない・・・というか所有していませんでした。新聞も「役に立ったためしがない」と感じ、
取っていませんでした。ニュースは毎朝、数カ国の中立的な新聞社(アルジャジーラは特にお勧めです)のウェブサイトで見だしと要約をざっと見るだけです。気になるニュースがあったら、更にネットで調べます。
B主婦性湿疹があり生活の中の化学物質には常に気を使っていた。
"Our Stolen Future"を読んで家の中のプラスチックを排除するなど、もともと環境問題には関心が強いほうだったのですが、10年ほど前にひどい主婦性湿疹が出てからは生活の中の化学物質を更に厳しく排除するようになりました。合成洗剤、合成シャンプーでさえ危険なのに、放射性物質などもってのほかです。
人間は見ても聞いても感動しない人がいます、感動しても行動しない人もいます、一番大切な事は感動したら即行動に移す事です。
私は成人するまで熊本でしたから修学旅行で広島の原爆ドームに行きましたが当時見た事のショックなんて、その後の平和な楽しい人生ですっかり忘れ去っていました。
が、息子が小2の時サンフランシスコの日本語補習校から借りてきた「はだしのゲン」で、息子や娘達と同様、頭をガ〜ン!と殴られた様なショックを受けました。その夏家族で長崎原爆の資料館に行きましたが、余りの過酷さにどうしても現実と結び付けられなかった。あれは「原爆」もうきっと起きないであろうーそう願いたいと思いました。実際「福島原発人災」の後もその「原爆」と「原発」の危険性は全く結びつきませんでした。
小出先生の「大切な人に伝えてください」
http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk
を去年YouTubeで見た時、初めて「日本はとんでもない事になった」と分かりました。
現在イギリス在住で日本の嘘の報道は入ってきませんから、毎日インターネットで情報を探しまくり小野先生のURLにもヒットし、「世界はとんでもない事になったんだ」と理解しました。本当に今は放射能の事を学ばないと死ぬ時代です。
原爆ドーム(生の人間の証言)・「はだしのゲン」・本物の医者や学者のYouTube これ等が私の
「放射能を正しく恐れる」ことの足がかりになりましたが、上の方の「ノアの箱舟」の引用通り、いつの時も「聞く人」と「聞かない人」がいて「信じる人」と「信じない人」がいます。自由意志を持っているので仕方のないことですが、真実を知っている人は伝え続ける事が大事だと思います。
院長先生、毎回拡声器を持ってヤリバナシ「独り言」を大声でつぶやき続けて下さいねっ!
私は、福岡出身で広島や長崎が近いので、原爆資料館や原爆が落ちた映画を何度も見させられていたため何となく放射線の怖さを教えられていたので
避難ができたのかなと思います。
子供がまだ小さいのも大きなきっかけだと思います。
関東に住んでいましたが、今は東京から1100qくらい離れた所に家族で住んでいます。
・親が物理の教師で放射線の害に敏感だった
(夜光塗料の入った玩具で遊んでいたら叱られた、また本人も病院のレントゲン撮影を嫌っていた)
・筒井康隆の小説(放射線で奇形が発生するというような)
・小学校の終戦記念日の授業で原爆の被害を教えられた
また、家族は萩尾望都の漫画だと言っていました。
萩尾望都ではなく、山岸凉子の「パエトーン」でした。
現在無料で読めます。
http://www.usio.co.jp/html/paetone/
私は30代女性で、関東に在住していましたが爆発後に出身地の関西へ避難しました。
元々私は小さい頃に医者になりたいと思っていて、子ども向けの免疫細胞の仕組みの本を
読んでいるような子でした。現在は精神医学の方向に進もうと精進しています。
小学校の時の担任が私のクラスだけ特別に反核授業をし、反戦争教育、原発、核兵器、原潜等々の
核問題、原発に反対したらどういう目に遭うかと云う事を教えてもらいました。
高学年・修学旅行では原爆に関する授業、原爆にやられるとどういう障害が出るかを習い、
広島への研修や自主的に図書館で出版されている本を読み漁り、放射線障害の怖さを叩き込まれました。
また、高校が私学だった為、授業がかなり自由な内容でした。
付属大学から来た先生から栄養学を学び、
現代社会の授業では先生が自分で教科書を作り、
また、旅行した話なども加えながら、戦争での人体実験の話を詳しく学習したり、
原発の基礎、簡単な原発の構造図、放射線障害の恐ろしさについて、原発作業員の方の悲惨さや、
当時もんじゅが事故をしていたので、その解説、血液製剤の被害についての詳しい解説等々、
世の中では一般的にニュースで取り上げられないようなダークな側面まで教えてもらいました。
小学生の頃から世の中を疑って掛かり、天下りなどの話題を取り上げていた
ラジオを聞いていたというのもあります。
日本のメディアはとっくに死んでいるのは解っていたので、
普段からケーブルで海外のメディアチャンネルしか見ていませんでした。
即CNNをつけたら、メルトダウンと。
爆発した時の絶望感、恐怖感は凄まじく、5年10年先のシナリオが一瞬にして浮かびました。
その恐怖感は今でも変わっていません。
母を説得して本を読ませ気をつけるようにし、なるべく協力してもらっていますが、
教育を受けていないせいか、若干安全神話寄りです。
父は安全神話中毒です。もう勝手に死んでも仕方無いと思っています。
私の高校の友人は栄養士の資格を取る時に大学で放射線障害の授業があったといいます。
教授は「一応教えておくが、もうこんな出来事(原爆等の大規模な放射線障害)はないだろうけどね」
と言われながらスライドを見せられたそうです。
友人と「高校の授業の原発構造図がマスコミでそのまま出てきた。その他の知識も思い出した。役立って欲しくなかった・・」
と語り合いました。
やはり1つとして、教育の差、というのはあると思います。
(扇風機にあたりすぎると心臓麻痺で死ぬという噂もたしかにありました。)
放射能を怖いと思うようになったのは父の影響です。何でもできるように見えた父が、ロシアの原子力潜水艦や六ヶ所村だのとニュースが流れるたびに、こればかりはマイッタという顔をしているのを見て、これは普通の問題と一線を画しているらしいと感じました。
私は友達に怖さを伝えようとして失敗したのですが、基本的な信頼関係が築けていなかったからかなと反省しています。「この人がこんなに言うということは、何かあるぞ」と思わせるだけの下地がないといけないと思いました。
震災当時は自身の不幸もあり、テレビから流れる悲惨さを受け止められず逃げていました。水素爆発も原発事故もピンと来ておらず、「問題はない」に、騙されていました。
はだしのゲンや戦争の悲惨さは知っていたのですが「電気を作る施設」が「原爆」とは直結出来なかったです。
「原爆に例えると何発分」も、「例えると?例えなの?」な感覚で軽く考えてました。
こんな真のアホな私が気付いたのは、「バラエティばっかり流していたテレビ」でした。
「放射能」で検索したら、「専門家が教えるナンチャラ」が出てきたり、「むしろ健康だ!」と書かれてるのが先に出てきて、それを信じるように最初は思いこもうとしてました。
でも、どうしても拭い切れない違和感。
それは「心配だと訴える母親達が”放射脳”と言われる」こと、食品や水を買いこむ人たちを神経質だという風潮、「過敏にならないように・ストレスをためないように…」と垂れ流すテレビでした。
まるで「気付くな!!」と言われているようでした。
そして、一番最初に見た放射能・原発に関する講演が「広瀬隆さん」だったことで、
日本国からの洗脳が解けました。w
その後、小野先生のブログに出会う事ができ、自分に追い打ちをかける事ができました。感謝しています。
小野先生は命の恩人です!!
何を言いたかったかっていうと、お礼を言いたかっただけでした^^;
ダラダラとすみませんでした!
湯川秀樹さんの「科学文明の二面性・科学文明の中の人間」
が載っていました。最後の段落で気になった箇所をいくつか抜粋してみます。
―しかし、なまのままの自然が人間にとって愛すべきものであると同時におそるべきものであったように、第二の自然(←人間生活をより快適にしてくれる存在 を指しています)もまた愛すべく、おそるべきものであった。―
―冷房装置が発達・普及すれば、夏の暑さが頭脳労働の能率を低下さすことも心配しなくてよくなるだろう。―
―原子力発電を望むと同時に、核爆発を恐れなければならなくなってきた。人間にとって都合よくできているはずの文明が、どうして天使と悪魔の二面性を持つことになったのであろうか。―
以上です。今の私たちの状況そのままなのでゾッとしました。
父の病気が被曝したからではないか、とは、10年くらい前から私が個人的に疑っていました。それまでは父本人も母も全く考えてもいませんでした。
311以降ネットで勉強して、確信を持ちました。子供達に父と同じ人生を歩ませてはいけないと、被曝にたいして非常に危機感を持ちました。
それと母が昔車で事故を起こした時、新聞で記事になったのですが、その内容は、半分くらいは事実とは違っていたので、それ以来、メディアからの情報はあまり信じていなかったことがあります。
一番の決定的だったのが、私は金属アレルギーがあり、子供達もアレルギー体質があるので、
普段ではありえないいろいろな身体症状が出たことです。
一刻をも争わなければいけないと実感できました。
今子供達と台湾に避難しています。
「ぬまゆのブログ」を読んでいたら、彼女が「姫川薬石」というものをお風呂に使ってると書いておられます。http://vera5963.blogspot.jp/2013/01/blog-post_18.html
初耳だったので何のことかと検索すると、どうも天然ラジウム石らしいのです。私は科学の素人ですが、英文Wikipediaによると、ラジウム石は放射能を放ちますし、ラジウム石を湯につけると、肺癌を起こすラドンガスが発生するようです。
私が住む米国中西部には、ラジウム岩盤が多い地域があり、家の売買をする場合、家屋内のラドンガスの調査を義務づける市町もあるほど、ラドンやラジウムには慎重です。
なのに日本語で「姫川薬石」を検索すると、「ラジウム石の天然放射能で病気治療」とか、「姫川薬石は有害な放射線によって傷つけられた細胞の遺伝子を修復して正常にする」「ホルミシス効果を利用」等々、商品アピールばかり出てきます。
本当に、安全なのでしょうか? (私の理解では、人体にプラスな放射能などないと聞いていますし、そんなに簡単に天然石で被爆を治癒できるなら、とっくに世界中で核廃棄物の問題が解決してるはずだと疑わしく思うのですが。)もし安全でなければ、お医者さんの先生から「ぬまゆ」さんに助言してあげることはできますか?連絡方法ご存知でしょうか?(彼女のブログはコメント書き込み不能なので)
ラジウム石といえば、発見手柄のキュリー夫人さえ、ラジウムの青白い光に魅せられて無害だと判断ミスして、その放射能の犠牲になられたと記憶しています。彼女の助手達も次から次に原因不明の急死したり、キュリー夫人自身もラジウム石を常時触りまくっていたために、彼女の直筆原稿などは今でも鉛の箱に保管されてます。
ある業者が説明している姫川薬石の本来の効能とは、中に含まれる粘土鉱物の吸着作用、飲料水や漬け物によいなどです。これは、麦飯石の効能と同じです。この種の業者の場合、ラジウムの効能は書いていません。
ラジウムの効能を書いている業者もありました。「姫川薬石(ラジウム石)」などと堂々と書いています。微量の放射線を放つとしており、本来の効能は書いていなかったりします。閃ウラン鉱(天然二酸化ウラン)をおまけで付けたり好き勝手しています。
たしかに、天然の岩石は、みなラジウムなど微量の放射性元素を含んでいてラドンガスをだしますが、自然起源放射性物質データベースを見ると、流紋岩がほかの岩石より多いわけではないようです。さらに、業者のHPをしらべても、姫川のものが流紋岩の中で特に多いという記述はみつかりませんでした。
商売人の放射能の話はまじめに受け取らない方がいいと思います。流紋岩をラジウム石というなら、地面に落ちている小石は皆ラジウム石。
キュリー夫人が扱っていたのはピッチブレンド鉱という二酸化ウランの塊で、そこからラジウムを抽出しました。比較できない話です。
自然起源放射性物質データベース
http://www.nirs.go.jp/db/anzendb/NORMDB/norm_detail.php?norm=ore&en_normname=%CE%AE%CC%E6%B4%E4
には、さまざまな物質の含有放射性元素が示されています。
そのころから、科学技術の発展が必ずしも人間を幸せにするものではないという認識もあわせて持ち始めました。ITの仕事をしながらだったので葛藤もありました。
母や兄は、テレビを鵜呑みにしてもう危機は去った、なぜ便利な東京から出る必要がある?
ほかの人間を見てみろ?だれも逃げてはいないだろうが!と非難され、ネットの情報はデマと決め付けられてます。
反原発デモに参加したことも咎められる状態で、政府にしたがっていればよいという。
もう説得も無理、家族に迷惑をかけるかもしれないが一人で逃げるしかないのかと悩んでます。
また、若いころから恋愛小説が苦手で落合信彦さんを読んだりしていました。
311の後、枝野さんが「ただちに健康被害はない。」と言っているのに違和感を感じずっとおかしいと思っていました。
「最大の危険はこのぐらいで、今の状態はこの辺りだから、用心しろ。」というのが危険回避には必要なはずです。
(台風でも、最大風速は・・といいますよね。)
それでも、ネットの情報を調べる環境になかったので、福島から放射性物質が出続けているとも知らず、時が経つにつれ収束したのだとニュースを信じていました。
しかし、最近になって京大の小出さんや松本市長の菅谷さんの講演をyou tubeで見たりして、色々なことが一気につながりました。
それでも、現実を受け入れるまで、3ヶ月程はショックで寝たり起きたりの日も有りました。
現在、海外赴任中ですが、近く首都圏に帰任します。
何とか子どもは守りたいと、西日本に避難したいのですが、夫は首都圏は全く問題ない、対策も必要ないと頭からバカにします。
ネットでも、政府サイドの情報を信じるようです。
子どもも、避難するなら離婚するという夫の顔色を見て、「経済的に生きていけないのだから、これ以上お父さんの機嫌を損ねないで。大丈夫なのにお母さんが変なことをいうから迷惑。もう、放射能のことはなにも言うな。」と言います。
何にでも恐怖を煽られて振り回されるキチガイとしかとられません。
小さい子なら抱きかかえて避難できても、本人が、経済力のある父親の意見に従うしかない、生活できないお母さんといても迷惑という気持ちになってしまうと母親は本当に無力なのです。
夫は、子どもの食事も生活も今までどおりで全く問題ないと思っています。
今は、途方にくれています。
当初は復興支援だと被災地の食べ物を率先して食べ、被災地に旅行もしていました。
放射能のことは、国を信じていたので頭にありませんでした。
しかし2011年8月ぐらいから、夫婦ともに体調不良が次々と出ました。
原因がわからず、ネットでいろいろ調べていくうちに
「これは放射能のせいでは?」と思い始めました。
それ以降放射能に対して恐怖感を抱いています。
東京在住です。
原発の問題以来、放射能・内部被曝の怖さに段々と気づき、移住を考えながらも決断できないでいる30代です。
原発のことは、あの事故までは全くといっていいほど、意識してきませんでした。なのであの日も普通に通勤してたし、マスクもしなかったし、水も水道水から飲んでました…関東圏にも放射性物質が降っていたことを知ったのはもう数ヶ月経ってからでした…
原発の怖さを知ったり、テレビや政治家のいうことに疑問を持つことができたのは、大学生の頃メディアリテラシーを学んだからだと思います。メディアは時として情報にフィルターをかけ、真実を伝えないことがあるということ。そのスタンスで見るようになってから、鵜呑みにせず、ネットで調べるようになりました。ネットで調べたら、テレビでは流れない危険を伝える情報が多いこと多いこと…
日本のどこに行けばいいのかわからず、時々どんよりした気持ちになってしまいます。共感してくれるほど真剣に考えてる人も周りにいません。本当に、どうしたらいいのでしょうか。
不整脈の理由は、やはり内部被曝の可能性は捨てきれないと思います。というのも、原発のことをネットで調べるようになってから、パンダジェンスキーさんだったかな?チェルノブイリの人体への影響を調べた学者さんが、心筋に放射性物質は集まりやすく心臓疾患が増えたという研究成果を見つけたからです。
最近不整脈が殆どないのは、放射性物質量が減ったのと、微弱な被曝に免疫が出来たからでは???と自己推測しています。
都民のパニックと福島の住民を天秤にかけていまだに謝るべき人にあり得ない仕打ちをしていること。
福島の原発が大変なのはアメリカのテレビで知りました。そして目が覚め、原発に関して私自身が無関心だったこと、そして、無関心は罪だ、とやっと自覚しました。
そのほかは、小出さん、木下黄太さん、武田さん、そして院長さんから(他のツイッターの方々からも)原発の被害などの詳しい情報、知識を得ました。現在も勉強ちゅうです。感謝。
原発災害のことに関して一番失望させられたのは、日本のマスゴミです。
第二次大戦の時と同じく、嘘を流し続けています。
過去の戦争から、マスゴミは教訓を得ていません。
記者は真実を伝えて何ぼですね。本当の事知っとったとバッテンが、上司や家族のことがあって、真実は伝えんきらんかった、と後に言っても許されんバイ。言いそうな気がしますが、、、。実は自分は本当の事を伝えようとしたのだが、、、。(もちろん勇気を持って原発の真実を伝えている人はいますが、、、)
私は、福岡の100年以上も歴史のある新聞を購読していましたが、原発の報道に絶望して購読を止めました。
そのほか英字新聞(日本の大手新聞発行)も購読中止。
NHKは災害などの時、字幕が出るのが早いので、本を読みながらテレビの音声を消して時どき顔を上げてテレビを見ています(例外は、大リーグ中継は大好で音声を聞きながら観賞)。
実はNHKに電話して、NHKの放送を見るのを止めたい、と言ったのですが、パソコンを使っているからだめだといわれました、あまり意味が飲み込めなかった)
マスコミ一般の感想は、自国の事を知りたければ、外国のマスコミ。外国の事を知りたければ、自国のマスコミ、だと感じています。
元野球少年より。
神戸市の60代です。
放射能の恐ろしさは子供の頃に行った広島原爆資料館です。それ以後核に関する書物読みあさりました。
原発事故のシュミレーションなどもネットで良く見ておりました。
関西近くの原発の所在地、季節ごとの風向き等も調べて、いざという時に、どの方面に逃げたら良いのか等常に考えていました。
福島第一原発の爆発事故をTVで見たとき、これは大変な事になったと、まず風向きを調べました、
ネットで調べると外国の気象庁が出している日本周辺の風向き情報が大変役に立ちました、日本政府の情報は役に立たず、無能さには失望しました。
当方は再婚で連れ子で当時小6と中2の娘がおり、その時から外ではマスク着用を義務付け食事時以外は外すなと言いつけました、体育の時間な
どは息苦しいと、よくぼやいておりました。マスク代も毎日取り替えなのでバカにならなっかたですが、娘達の将来を考えると、、、
5月に入ると風向きが変わり関西にも飛散の予測で学校を休ませ自宅待機させた日も有ります。
自宅内は窓の隙間はテープで塞ぎ、小窓に2重フイルターを付けた換気扇を逆にして室内を与圧し、ドアを開ける少し前に作動させていました。
なぜか海外の風向きの情報も入らなくなりましたが日本政府の圧力かな?
おコメは単一産地米(西日本限定)野菜等の産地も確認してます。
ゆるいゆるい基準以下は検束されずの表示、食べて応援しよう?被災地の残骸を日本全国で焼却?
復興支援金、本当に被災者の方々のために使われているのでしょうか?
避難したくても現地から出れない方々に手助けを! 有効に使って欲しいです。
日本政府、マスコミに失望です。
英語力があまりないので冷静に読んでいられるかも、と思っていましたが、目元が潤み、そして深いため息がでます。6巻で本を伏せています。すばらしい本ですが、圧倒されるのです。
原爆でやられ、死んでいく人達。原爆で瓦礫の下敷きで死んだ父、姉。放射能被爆で衰弱する母。隣人達とのいさかい。原爆で顔がケロイドになった女の子の自殺。まさに地獄絵図。
原爆を境に、人間が心の奥に隠しもっていたおぞましい性格の発露。しかし、そんな最悪の状況でも生きていこうとする波乱万丈なゲンの家族。そして同じような被爆で苦しんでいる家族。
私は、この物語を100パーセント真実として読んでいます。勇気を振り絞って何度も何度も読む本になるでしょう。
この国には、核の危険性に関する情報がほとんどないため、先生のブログには本当に助けていただいています。
12年の秋頃から拝見させていただいています。平行して、3.11以降のブログも時系列で少しづつ見させていただいており、最近このトピックにやっとたどり着きました。
以前、以下と同じ内容をチェルノブイリへのかけはしサイトに投稿させていただいたのですが、いつのトピックに投稿したのか忘れてしまい、まとめ直しに時間が掛かってしまいました。先生のように頭の回転が速いと、なんのことはない文章なのでしょうに。
■基礎知識
はだしのゲン (小学校の教室に置いてありました。)
ゴルゴ13 (友達が全巻そろえており、2万5千年の荒野も読みました。)
■政府不信になった情報
チェルノブイリ原発事故後、まだ中国の上空にも放射性物質が届いていない時期に、空自のF-4戦闘機を飛ばして日本の上空のチリを収集して放射性物質はないと、NHKで一度報道したとき。
私は、このとき、日本政府は国民に正しいことを教えるつもりがなく、一度この安全情報を出て二度と報道しなくなるだろうと予想しました。
その後、予想どおり日本上空の放射性物質に関する報道はありませんでした。
このときから、日本政府を信じていません。
■決定的な情報 (避難計画は国民を見捨てる計画)
1986年東京電気大学 工学部に入学。
人文科学だか一般教養だかで「社会学」を選択しました。
講師は、他の大学から教えに来られていた方で、お名前を忘れてしまいました。
86年6月ごろ、授業の冒頭に以下の説明ありました。
1)東京から一番近い東海第一原発が爆発した場合にどう逃げるかを大学の先生仲間のグループで検討中。
2)放射能がこないと思っているだろうが、必ず来る。
3)事故が起きたら、まず3km以内(5kmだったかも)を避難、その外側の10kmは自宅待機。自宅待機は道路の渋滞防止。
4)3kmの避難が終えたら、10km以内を避難、その外側20kmは自宅待機。
5)10kmが終えたら、20km以内を避難、その外側30kmは自宅待機。
6)「20km以内の避難を終えたら、どうなるか判るか」と、学生に質問。
7)「40km、次に50kmに広げると思うだろ、でも30kmでお終いなんだ。それ以上は広げない。」(しばし沈黙)
8)「なんでこんなことを知っていると思う。検討メンバーは大学の先生仲間だが、内2名は計画を策定した。」
9)「車だと道路が渋滞するだろうから、自分たちだけでどう逃げればいいかを検討中。さて、授業を始めよう。」
このとき、国民を見捨てる計画があることを知りました。
さて、
福山副官房長官(当時)は、12年3月11日のNHKで、従来20kmまでしかなかった避難計画を政治主導で30kmまで広げましたと胸を張っておられましたが、86年夏には既に30km屋内退避の計画はありました。
朝日新聞の福山調書では、3、10、20、30の数字は、政治家は誰も知らず、寺坂さん、斑目さん、伊藤さんの口から出ていたとのことで、原子力ムラでは、国民を見捨てる計画を確実に引き継いでいたと考えています。
更に、推定ですが、絆、食べて応援、瓦礫焼却による全国被爆も、既に準備されていたのではないでしょうか? テレビコマーシャルを止めて、AC、AC、とテレビが煩かったことも原発事故に備えて周到に準備されていたと推定しています。
日本の政治家で、政治主導で危機対応が今できる人がいるのかどうか。危機対応時は政治主導、政治主導と言っていた政党が官僚主導にひっくり返される、絶好の好機となったのではないかと。
最後に、女性には女性の思考パターンがあるようで、私の妻はチェルノブイリへのかけはし代表の野呂美香さんの講演会を聞いて、原子力の恐ろしさを理解してくれました。私の話は一切受け入れてもらえませんでしたので、野呂美香さんにも感謝しています。(EM菌の効能は、私の回転の遅い頭では理解ができませんが。)
スリーマイル島の話も聞いていたから。
東海村の話も。
フクイチ爆発の少し後ですが
ヘルパー事業所の代表がうちに来ました。
興奮して一緒にテレビを見ました。
『これ、メルトダウンです!メルトダウン!』と喚いてくれたお蔭で『これは大変な事態だ。』と理解しました。
今思えば、あんな事態の中、うちに寄ってくれた事業所代表は大丈夫だったのか?と思います。
私はキッチンにあった《とろろ昆布》をムシャムシャ食べた強烈な記憶。
近くのコンビニに居たバイトの女の子を怒鳴りました。『死ぬぞ!帰れ!』
ほとんど時を置かずに友が亡くなりました。
去年までにバタバタと倒れ、亡くなった知人は老人も含まれます。
病院の丁寧な健康診断の直後に突然、具合が悪くなり亡くなった方も居られます。無念です。
2011.3.10午後
新宿伊勢丹付近で見た《初めての霊界》
翌日にはUFOが飛来したというニュースにも大して驚かなかったことを覚えています。
新宿で突然、見た霊界はぞっとする様な廃墟だった。
10日夕方にスカイプ会議をしたことも鮮明に記憶している。
お化け屋敷になる!と私。
東京大空襲の日だからでしょ!とAさん。
ーだったら毎年だ!と怒った私。
大地震の時は都心部で別の友人とスカイプ通話していた。
あ!地震だ!という程度。
少しして話しながらテレビをつけて津波を見た時に固まりました。そしてフクイチ。
信じてもらえなくても事実。東京での実話です。
日本が終わる!と慌てた私。
本当に終わるかどうかは分かりませんが。