論評を書くのは苦手ですので、Amazonの書評から
ひ弱なヤサ男に真の漢を見た。 2010/10/2 By ぷるぷるねこ
前半部分は洒落の効いたコメディ。(頭の固い人は笑えないかな?)
しかしそれが後半部分にイキてくる。(イタリア訳とか館内放送など)
主役の父親は何も持たず最悪な状況に立ち向かいます。彼のやり方で。
どんな状況になろうと考え方一つで気持ちが変えられる事を彼は教えてくれます。
子供の心に、恐怖・絶望を寄せ付けず。妻を励まし、
色々なアイディアで妻と子供を救う。
強さとは、腕力などでは無く。立ち向かう勇気なんだと気付かされました。
戦争は悲惨で可哀想で涙、では無く。
愛する者の為に見せた彼の勇気に泣きました。(彼も恐かったはず)
色んな事に気付かしてくれた、この映画は間違いなく映画史に残る傑作です。
本日久しぶりにDVDを取り出して、再度見ました。前半の女性と知り合って結婚するまでのウイットに富んだへこたれないの姿。強制収容所に収容されてからも、何も対抗手段がないまま、ユーモアで対抗するグイドの姿。是非ご覧ください。
後ろの方で出てくるドイツ人医師の謎かけ。ネットで検索するとと解答を見つけることができます。
単行本は、「池田香代子」氏の翻訳のようですが、このような文章を書かれた方ですので、こちらを紹介致します。
内容紹介
本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である。
「この本は冷静な心理学者の眼でみられた、限界状況における人間の姿の記録である。
そしてそこには、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。
だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。
そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえよう」(「訳者あとがき」より)。
1956年8月の初版刊行と同時にベストセラーになり、約40年を経たいまもなお、
つねに多くの新しい読者をえている、ホロコーストの記録として必読の書である。
「この手記は独自の性格を持っています。読むだけでも寒気のするような悲惨な事実をつづりながら、
不思議な明るさを持ち、読後感はむしろさわやかなのです」(中村光夫氏評)。
この中で忘れられない一節があります。(p.131)
ユーモアもまた自己維持のための戦いにおける心の武器である。周知のようにユーモアは通常の人間の生活におけるのと同じに、たとえ既述のごとく数秒でも距離を取り、環境の上に自らを置くのに役立つのである。私は数週間も工事場で私と一緒に働いていた一人の同僚の友人を少しずつユーモアを言うように教え込んだ。すなわち、私は彼に提案して、これから少なくとも一日に一つ愉快な話を見つけることをお互いの義務にしようではないかと言った。彼は外科医で、ある病院の助手であった。私は彼に、例えば彼が後に家に帰って以前の生活に戻ったとき、収容所生活の癖がどんなに取れないかを面白く描いて見せて、彼を微笑させようと試みた。このことを語る前にまず説明しておかなければならないのだが、労働場では、労働監督が巡視にやってくるときには、看視兵は労働のテンポをその時早めさせようと思って、いつも「動け、動け」と言って我々をせき立てるのが常だった。だから私は友に語った。もし君が手術室に立って、そして長く続く胃の手術をしていたとする。すると突然手術係が飛び込んできて、「動け、動け」としらせる、それは「外科部長がやってきた」ということなのさ。
すると彼の方でも負けないで、同じようなおどけた未来の夢を発見するのだった。たとえばわれわれはどこかの家の晩餐に招待されたとする。そしてスープを分けるときにうっかりしてそこの家の主婦に−ちょうど労働場で昼食の時にカポーにするように−すみませんが豆が二つか三つか、あるいはジャガイモ半分お皿の中に泳ぐようにスープを「そこの方から」すくってくださいと嘆願するのじゃないかしら、などと言うのであった。
この本は、東電を辞めるときに、上司の一人(同じ分野の仕事をしていた建設部の副長)からいただきました。当時はそれほどピンと来ませんでしたが、いまの時代にぴったりだと思います。
「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見いだすのだろうか」神谷美恵子はつねに苦しむひと、悲しむひとのそばにあろうとした。本書は、ひとが生きていくことへの深いいとおしみと、たゆみない思索に支えられた、まさに生きた思想の結晶である。1966年の初版以来、多くのひとを慰め力づけてきた永遠の名著に執筆当時の日記を付して贈る。
はじめに から
わざわざ研究などしなくても、はじめから言えることは、人間がいきいきと生きていくために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいを奪うほど残酷なことはなく、人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない。しかし、ひとの心の世界はそれぞれに違うのであるから、たった一人の人にさえ、生きがいを与えるということは、なかなかできるものではない。あるひとにとって何が生きがいになり得るかという問いに対しては、できあいの答えはひとつもないはずで、この本も何かそういう答えをひとにおしつけようという意図は全くない。ただ、この生きがいという、つかみ所のないような問題を、色々な角度から眺めてみて、少しでも事の真相に近づきたいと願うのみである。著者の理解と考えの及ばないところに、まだたくさんの大切なものが残されているに違いない
生きがいということばは、日本語だけにあるらしい。こういう言葉があると言うことは日本人の心の生活の中で、生きる目的や意味や価値が問題にされてきたことを示すものであろう。
(中略)
ふつうのおとなにおいてこうした純粋な「生きるよろこび」がいちばんあざやかにあらわれるのは、初めての子を産んだ直後の母親の、存在の根底からふきあがるような喜悦であろう。これは筆者がかつて主婦達の調査をしたときにも、はっきり結果に表れていた。出札直後の歓喜は女性の生きがいの発見の喜びとも言えよう。
p.33から
しかし長い一生の間には、ふと立ち止まって自分の生きがいはなんであろうかと、考えてみたり自分の存在意義について思い悩んだりすることが出てくる。この時は明らかに認識上の問題となるわけで、大まかに言って次のような問いが発せられるわけであろう。
一.自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
二.自分固有の生きていく目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
三.以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
四.一般に人生というものは生きるのに値するものであるか。
人間がもっとも生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われるが、それはとりもなおさず右の第一問と第二問の内容が一致した場合であろう。
(中略)
使命感
もし生きがい感というものが以上のようなものであるとすれば、どういうひとが一番生きがいを感じる人種であろうか。自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標に向かって全力を注いで歩いている人−言い換えれば使命感に生きる人ではないであろうか。
私も再度読み返します。
◆関連ブログ
カネと権力でわかりやすく恫喝する政治家・電力・企業と、ペンで非難する女性評論家2012年06月15日
タグ:生きがい
原発事故についての正確で深い知識や情報を提供していただき、
被災地に住まざるをえない人間として、たいへん感謝しております。
先生も、すでにご覧になられたかもしれませんが、
福島原発事故のプロセスを深く鋭く分析されている、
反核・反原発の物理学者、槌田敦さんの動画があります。
(1)http://www.ustream.tv/recorded/23463198#
(2)http://www.ustream.tv/recorded/23877050
先生のブログで、日本中、世界中にご紹介いただければ、
たいへん有り難く思います。
余談ですが私は『チョコレート工場の秘密』も田村隆一さん訳の方が断然好きです。復活してほしいな。
以前、ハンス・ペーター・リヒターというユダヤ人作家の児童文学の作品『あのころはフリードリヒがいた』を読んだときに、人間社会の問題として「生け贄」をつくりだしてしまう構造があるということを、一人ひとりの人間が向き合わなくてはいけないのではないだろうか、と感じたことがあります。
また当時ドイツでユダヤ人たちが差別された実際的な理由の一つは、ドイツ人からしたら異邦人である筈のユダヤ人に商売がうまく成功している人が多かったために妬まれたということもあると思います。(もちろん、それだけではなく分析心理学の云うところの「影の投影」の問題が大きかったと思います)
あるユダヤ教のラビが著した本(書名を忘れました。申し訳ないです)に、「国土を失ったユダヤ人たちが、二千年近くもの間生き抜いてこれたのはタルムードの知恵があったからだ」といった事が書かれていたのを読んだことがあります。その一つに「お金は道具の一つであり、それ以上でもそれ以下でもない」といった言葉がありました。またユダヤのお伽噺に、商人親子が船で盗賊に「自分たちの命と、箱の中の宝石」を狙われていることを知って、甲板の上で親子げんかのふりをして、大勢の人たちの目の前で箱の中の宝石を全て海に投げ捨ててしまい、その事によって命が助かる、といったものもあります。彼らは、「お金は単なる道具」であって当然、命の方が大事だということをよく知っていたのです。
残念なことに今の日本の政治家、官僚、財界人といった指導者層は道具であるお金の方が、国民の命や健康よりも大事だと考えているようです。この現実に「カネに殺されてしまう」と考えている方が増えてきていますが、カネ自体には意志がないので厳密には「指導者層の、カネへの欲と執着」によって私たちの命と健康が脅かされているのだと思います。
それから、ホロコーストの話に戻りますが、ホロコーストの被害者であり、かつ多くの優秀な科学者や実業家を輩出していて知的レベルが高い人が多いと言われるユダヤ人たちが、いまガザ地区などで、まさに加害者として同じようなことをしていることについて考えると、本当に悲しくなります。
社会が「生け贄」を生み出してしまう構造の解決には、知性は役に立たないのかもしれません。(知性は重要であっても、人間の生命に根ざしたものではなく、おそらく道具の一つなのでしょう)これからは「共感する心と感情」そして異なる立場の人たちの思いへの想像力を育てていくことが大事なのかもしれません。
東京電力福島原発5号機の復水器の設計に関わった 氏が、
原発事故発生時に菅直人前総理大臣を始め、事故対策関係者との間で交わしたやり取り
◆福島原発設計者が語る@ 「あの日何を提案し何が受入れられなかったか」
http://8bitnews.asia/wp/?p=2372
◆福島原発設計者が語るA 「機能停止・崩壊、冷やせなかった要因を探る」
http://8bitnews.asia/wp/?p=2374
◆福島原発設計者が語るB 「技能伝承・変革へ、日本国民に伝えたい想い」
http://8bitnews.asia/wp/?p=2375
こちら関西では例年通り、セミの大合唱が始まりました。
鳴き初めが遅かったので、心配していました…
ところで、読売新聞の発言小町というコーナーで
『セミ,鳴いていますか』というトピックがありましたのでお知らせします。
関東は,今年はあまり鳴いていないという投稿が目立ちました。新聞側により、急に削除されたりすることもありますので、興味ある方は早めにご覧下さい。http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2012/0719/525226.htm?from=os2
日本人のガイドさんが一人いて彼が「収容所の所長は家に帰ると良いパパだった」と言っていた気がします。(昔のことなので記憶が間違っているかもしれません)
いま、周りの官僚や電力会社・プラントメーカー社員の奥さま達が、夫やその同僚を「組織の一員だから・・・みんな普通の人だ」と言うのを聞くと、それをよく思い出します。
「生きる意味」について、最近よく考えさせられます。
昨年の東日本大震災、原発による汚染問題、
子供たちのいじめと自殺の問題・・・。
そして、昨日は 水俣病に関して、原田正純先生と石牟礼道子さんの強い思いに触れました・・・・。
水俣病になった人たちはなりたくてなったんじゃない!個人の努力ではどうしようもできない国家政策の陰で犠牲になったんです。
生まれた時から障害があり、今なお苦しんでいる人々・・・。
何のために生きているのか、生きてきたのかか・・・
昨日のNHKの水俣病の二つの番組を大手企業の管理職や官僚、金儲けと地位と名誉にこだわる政治家に是非見ていただきたいと思います!
人はいずれ死にます。
大手企業・官僚・政治家の皆さん、何かひとつでも人類にとって本質的な良いことをしてみませんか?
苦しい弱い立場の人を救ってみませんか?
贅沢な暮しや金もうけのことなど一切考えずただ人間らしく生きるだけでいいと言っている人々に希望を与えてくださいませんか?