16ミリ・モノクロ/80分/1957年(昭和32年)・日本ドキュメント・フィルム
製作=大野忠、井上猛夫 撮影=菊地周、藤井良孝 ナレーター=徳川夢声
この映画をご覧になった方は、どのくらいおられるでしょうか。私が初めて目にしたのは昨年の2月で、内容のあまりの的確さに今まで3度ほどブログ記事にさせていただいています。この中で、最も注目すべきなのは、奇形児について触れていることだろうと思います。シャム双生児、無脳児、単眼児、そして原爆小頭症まで描かれています。このように明らかに奇形児が増えているにもかかわらず、いまだに医師の大半はABCCが奇形児は全く増えていないと「公式」発表した内容を信じ切っています。
この映画の書き下しをされている方がおられますので、そちらをご覧ください。「世界は恐怖する 死の灰の正体」(書き起こし)
58:43
長崎の林教授の調査によると、昭和24年から25年にかけて、被ばく者から生まれた子どものうち、22.3%が奇形だった。同じ時期に被曝していない親から生まれた奇形児は、8.7%だったと発表しています。
また、奈良医大の神部教授が広島のABCCに勤務中に解剖した、1000体の子どものうち無脳児が15体、心臓および大血管奇形が20体、単眼症1例、無眼症1例だったと報告しています。
私は、この林教授に興味を持ち、ツイッターでいろいろと教えてもらいました。
人物写真

タニセンゾーさんに教えていただきました。日本先天奇形学会学術集会歴代会長写真より
ありがとうございました。
この林教授はこの映画の数値に対して、直ちに抗議文を出しています。
ヒロシマの記録1957 12月
1957/12/3
原爆映画「世界は恐怖する」で障害児出生率の数字に誤りがあると資料を提供した林一郎長崎大医学部教授が、製作会社に訂正申し入れ
では、この人物は一体どのような経歴で、長崎大学の病理学教授になったのか。その生い立ちには、恐るべき内容が含まれていました。
まず、この林一郎氏の著作である「先天奇形図譜」1984年 序から

私の病理学偏歴は昭和8年京大医学部を卒業して、藤浪 鑑・清野謙次両教授の主催しておられた病理学教室へ入局してから始まる。その頃、私は生体染色に関する細胞化学的アプローチを手がけていたが、昭和13年から終戦時までは私にとって混迷と空白の一時期であった。ところが図らずも、昭和21年長崎医科大学病理学教室へ赴任することになったのは、私にとって意義ある一転機であったことは確かである。
被爆によって壊滅した長崎医科大学病理学教室を再興すべき地理的・環境的条件を苦慮していたとき、偶然にも人胎児・新生児多数をまとめて剖検する機会があって、人胎児・新生児の内臓奇形が必ずしも希ではなく、むしろ人胎児・新生児死の主因の一つではないかと疑問に気づいた。その結果、人胎児・新生児における奇形の病理発生に関して病理解剖学的および実験病理学的研究に没頭することになったのである。これは久しく私のうちに育まれていた胎生病理学的発想の現れでもあって、その意味において、「奇形児の内分泌腺に関する病理学的研究」日本病理学学会総会宿題報告(昭和35年)は人胎児・新生児における奇形の病理発生に対して、病理学的疾病観としての研究領域を確立したものと私は思っている。
長崎大学医学部病理学教室および広島大学原爆放射能医学研究所遺伝部門において、昭和22年から昭和57年まで34年間にわたって継続的に実施されてきた人胎児・新生児の剖検例10,834体に関する病理解剖学的解析によって、とくに先天奇形1,290体、そのほか病理学的所見が見られた3,376体に対しても形態学的ならびに形態発生学的に総括されているが、その結果は先天奇形の病理解剖学的ならびに実験病理学的に、さらに臨床医学的にも、貴重な資料として寄与するものである。また特定期間に発現している奇形の型とその形態発生を基礎的に把握しておくためにも、多くの研究課題を提供することが期待される。
斯かる長年月にわたって継続されてきた夥しい人胎児・新生児の剖検体に関する病理解剖学的検索の蓄積はこれを埋没させることなく図説として記録刊行しておくことは、唯にわが国のみでなく、国際的にもきわめて有意義なことである。それはまた、長崎と広島における同好同学の研究者と協力者によって示された幾年月にわたる貢献の結集であって、わが国における先天異常の研究史の一側面を表徴するものであると思われる。
終わりに、共著者としての岡本直正教授は周知のごとく、心・大血管奇形の病理発生に関して輝かしい業績を上げられつつあるが、昭和21年長崎医科大学病理学教室に入局されて以来、さらに昭和37年広島大学原爆放射能医学研究所遺伝部門に転任されてからも、私の最も信頼すべき研究協力者として終始されたことを感謝しておきたい。
昭和58年12月
林一郎
清野謙次
京都大学での愛弟子にあたる石井四郎が部隊長だった満州731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務め、人材確保・指導などに「異常なまでにてこ入れした」
とありますから、林一郎自身も731部隊にかかわっていたと思うことが相当でしょう。実際
731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一を読みますと、731部隊に所属し、日本先天異常学会の理事、会長になったと書かれています。
731部隊と原子力、放射能関連について、もう少し知りたい方は、
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永 @Nobunaga_Hottaをお読みください。731部隊と放射能がずぶずぶであることがよくわかるかと思います。
また、別の資料(15年戦争と日本の医学界)から
石井部隊に送られた技師たち:石井の731 部隊への研究者集めは、昭和 8年に開始され、大学医学部の若手教員を対象に行われた。その第一陣は京都帝国大学からの 8人で、吉村寿人が昭和5年卒、石川太刀雄丸、岡本耕造、田部井和、斎藤幸一郎が昭和 6年卒、林一郎が昭和8年卒、湊正男が昭和 10年卒、田中英雄は京大医動物学講師であった。彼らは、昭和 13年 3月 10日に陸軍技師として採用され、辞令上の肩書は「陸軍技師、関東軍防疫給水部部員」であった。石川太刀雄丸と同じく、昭和 6年卒の岡本耕造は講師昇任の後、昭和 8 年卒の林一郎は助手の地位から、731 部隊に送られた。石川は昭和 19 年 7 月まで勤勉に 731 部隊で病理班長を務めて帰国、農安地区の 57例のペスト解剖例の標本を持ち帰って、金沢大学教授に収まり、終戦後、その材料を米軍に提供して、戦争責任の免責に重要な役割を果たし、林一郎は、731 部隊を嫌ってまもなく逃げ帰ったが、石井は激怒して「殺してやる」と探しまわったという。戦後、長崎大教授、奇形学を専攻
見事に一致。ちょっと長くなってしまいましたので、先天奇形図譜の内容については別途記載することにします。731部隊についてもっと知りたい方は、
の3部作をご覧ください。この狂気とも言える人体実験は、プルトニウムファイルでみたように米国でも行われています。非常に頭が切れる医学者は、最後に人体実験をしたくなるのかも知れません。洋の東西を問わず。そして、今フクシマを中心に放射能に対する大規模マス試験に、長崎大学の医師達が深く関わっていることもお忘れなく。
◆関連ブログ
原爆と核実験場での放射能と奇形児(600万アクセス)2012年10月04日
世界は恐怖する 死の灰の正体1957年制作2012年04月30日
死の灰の正体−無脳児、単眼児の出産も2012年03月16日
アイリーン・ウェルサム(プルトニウムファイル著者)のインタビュー2012年10月29日
フクシマを植民地支配するナガサキの医学者達−731部隊の現代版2012年08月28日
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IOC(国際オリンピック委員会)へがれき広域処理の危険性をきちんと伝えるべきです。
世界のトップアスリートに失礼ですし、
あれは東京の人たちがちょっといい思いをするだけで、地方にはほとんどメリットのない話です。
がれき利権の人たちと東京にオリンピック招致をしたい人たちとは同一人物(国賊石原・猪瀬知事)です。
かつての東京オリンピックが国民的祝賀行事だったのは戦後の焼け野原からの復興のシンボルだったからです。
1945年敗戦。
1960年代東京オリンピック。
セシウムの半減期が30年であることから同様のタイムスパンで考えて、
「復興のシンボル」としてのオリンピックはたとえ何十年先でも福島開催にとっておくべきだと思います。
http://mainichi.jp/area/ehime/news/20121220ddlk38040643000c.html
四国電力は(略)放射線管理区域内から出た(略)ゴミについて、”放射能汚染のない”物は一般の産業廃棄物として処分・再利用をすると発表した。環境の負荷低減を求める国の指示に基づく措置で、来年1月から始める。
”従来は線量の有無にかかわらず、低レベル放射性廃棄物として青森県六ケ所村の施設へ搬出していた”
今年5月の国の指示に基づき、判断や取り扱いのマニュアル整備や作業員教育などを進めていた。四電は「管理を厳格に行い、安心していただけるよう努める」としている。
おいおい…これって従来は六ケ所村の施設へ搬出していたゴミを一般の産業廃棄物として処理するってことだよね…もちろん、表向きは”放射能汚染がない”って前振りしてるけど、信用できるかぁ?
被災地瓦礫の広域処理を進めた理由の1つにそれまでの原発のゴミの広域処理を混ぜて、一般に容認させるための前振りっていう説を唱えてた人がいるそうだけど…本当にそうなのかも…
そして、これだ…
http://rengetushin.at.webry.info/201301/article_3.html
韓国など東アジアの原発から出る使用済み核燃料を青森県六ヶ所村の再処理施設で再処理することで延命を因る構想が浮上
…高レベル汚染された核物質を六ヶ所で受け入れるために低レベルの汚染物質は広く一般に瓦礫処理ですか…そうですか…
でも、どうせ六ヶ所は動かないだろうけどな。
日本絶滅政策ですね…
http://f.hatena.ne.jp/skymouse/20130107120955
温度計の故障(毎度の言い逃れ)? 再臨界?
黒煙、発生しているそうです!
読むのには、覚悟と読んだあとのセルフメンタルケアが必要です・・
↑
石井隊長、こわすぎ・・・
自分の祖父が731部隊でなくてよかった。二人とも下っぱで苦労したらしいですが、こんな奴らがのさばる戦地に行って本当に壮絶な経験をしたんだろうなと思います。かわいそう。
西岡昌紀氏執筆 「武見太郎氏の証言 ー 厚生省はアメリカの人体実験に協力した」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/523.html
医師会の武見会長といえば、力はあるがワンマンすぎて嫌われていたと、私などは開業医をしていた父から聞かされたことがありますが、それも厚生官僚や米が作ったイメージだったかもしれません。
気骨のある主張、役人嫌い、権力嫌い。周りをみてもこういう医師がひと昔はもう少しいたと思うのですが。今は腑抜けだらけのような。いやいや、真実に気づいた時に本来の反骨精神を出してくれるかもしれない、と、まだかすかな希望はもっています。
>従来は線量の有無にかかわらず、
>低レベル放射性廃棄物として
>青森県六ケ所村の施設へ搬出していた
これを厳密に行っていると、震災がれきの広域処理に難が出てくる可能性があるからでは?
現に新潟県知事は「原発から出たゴミなら放射線量の高低に関わらず厳密に保管、管理されるのに、それよりも放射線値が高いがれきを一般施設で処理し埋め立てするのはどう考えてもおかしい」という論理でがれき受け入れに反対しておりますからね。
昨年8月の医局員持ち回り抄読会で『終戦記念』と銘打って自分の個人的な記憶や思い出を交えて祖父の系譜をレポートして発表しました。最近NHKのファミリーヒストリーで家族の系譜をたどるようすを見るにつけ、祖父のことを思い出し、再びネット検索したところ先生の記載が目に留まりました。祖父について興味をもたれて詳しく調べて取り上げられていることに感謝いたします。
祖父は私にとって『優しくてハイカラでおしゃれでかっこいいおじいちゃん』でした。自分の来歴を周囲に話すことはほぼなかったようです。ですから731部隊の時期に家族はハルピンで同居しておりましたがその経緯は一切知りえませんでした。一部のサイトでは祖父が『責任を逃れた戦犯』であるかのようにとりあげられていましたが、私が調べた限りでは祖父は731部隊の行為を決して肯定しておらず、先生のご指摘のとおり『病気を理由に逃げ帰り、石井隊長からの監視を戦後まで気にしていた』ようです。しかし、祖父はあまり自己主張の出来る人間ではなかったようで、なんの反論や主張をすることもなく亡くなりました。その背景もあってか晩年の一時はアルコール依存症となり、酩酊した祖父が家族に責められる姿をしばしば目にしました。
原発問題の一環で父が取り上げられるのも不思議な縁ですが、感謝申し上げます。今後もお仕事に邁進されてください。