みんな楽しくHappy♡がいい♪
1.その瞬間に、わたしは 「太陽が目の前に落ちた」と思いました 8/4橋爪文氏(文字起こし)
2.炎の下、黄金の世界。 その中で生きることも死ぬことも考えなかった 8/4橋爪文氏(文字起こし)
2011年8月4日放送
聞き手:橋爪さんは長くこの原爆体験についてはお話しなさらなかったそうですね
橋爪:
はい、出来なかったんです。
あまりにも悲惨でね、やっぱり思いだしたくない、早く忘れてしまいたいって、
もうそれが、自分の本能みたいにね、「忘れたい忘れたい、思いだしたくない」って、
で、いくら話しても、あの事実は被ばく者の方がみなおっしゃるんですけれども、
「どんな言葉を尽くしても話せない」って、そういう思いもありますよね。
被ばく者でなければ分からないみたいな、それぐらい、あの、表現する言葉がないんですね。
話しても多分、他人には分かってもらえないっていう事と、
皆さん思いだしたくないんでしょうね、あまりにもひどい状態だったから。
聞き手:
その橋爪さんがですね、
1995年に手記を「少女14歳の原爆体験記」という本にまとめてらっしゃいますけれども、
このご本にはですね、
「私が体験記を書いたのは1995年、被爆50周年の時でした」と、この本にありますけれども、
原爆から50年経って、やっと、その、体験記を書こうという気になられたんですね。
橋爪:
友達に薦められて、「あ、書かなきゃいけないんだ」って思ったんですけれど、
私の友達でフリ−ライターの方がいらっしゃるんですね。
卯月あやさんっていう方が。
その方に、「あなた書かなきゃダメよ」って言われて、
本当に書きたくなかったんですけれど、しょっちゅうお電話を頂いて、
お尻ひっぱたかれるようにして書き始めたんですけれど、
苦しかったですね…、とっても苦しくって
結局、ま、どうにか書いたんですけど、
この本が完成するのがね、書き終えるのが先か、私の命がなくなるのが先かと、
それぐらい辛かったです、これを書くのは。
で、最後は5分ぐらい歩いたところにお医者さんがあって、点滴をしながら書いたんですよね。
でも、その5分が歩けなくって、
とにかく本を書かないと死んじゃいけないのかなぁ、
でもこれは書く前に私の方が先に命がなくなるかなと思う位に、
本当に辛かったですね。
聞き手:
はぁ…今もお体の具合が時々お悪いようでけれども、
ちょうど原爆から50年経って、この本をお書きになっているころ、やはりご体調が悪かったんですか、
橋爪:
ずっと良くないんですよ。
広島で被爆後、もう、いろんな病気をしましたから、
もう、広島中のお医者さんに母が・・・
もう、内科は当然ですけれど、あといろんなお医者さん、ほんと、皮膚科から耳鼻科まで、
全部のお医者さんを探して連れて行ってくれたんですけど、
結局原因も分からない、治療法もないという事で、
それで、逓信局(ていしんきょく)、電電公社に勤めましたので、逓信病院があるんですね。
広島に逓信病院がありますから、
そこの先生が、学会で東京に行ったら、
私の事をご近所にお住まいだったので「ふみちゃん、ふみちゃん」って、呼んで下さって、
「ふみちゃんと同じような病気の人がいたから、もう、頼んできたから即入院したら」っていうことで、
東京に来て、その病気のために東京に越してきたんです。
聞き手:
ああ、そうですか。
その後体調が悪い、いわゆる原爆症という事がありますけれども、その原爆症の一種と言いますか、
橋爪:
私はそう思っているんですけれど、結局病名がつかなくて、ま、全身病なんですけれど、
その時に、今研究されているような病気が一応「それかな」ってつけて、
聞き手:
いわゆる原爆症と、通俗的に言われますけれども、
本当に一番、原子爆弾、放射能で怖いのは、それが本当に放射能のせいなのかどうなのかっていうのは、
否定する人もいれば「そうかもしれない」と言う人もいて、
それが最終的に実証できない、こういうところが辛いところですよね。
橋爪:
そうですね、でも私たち被爆者は、原爆っていう事も知りませんでしたし、
ですから、放射能の事も知らなくて、
ただ、もうみんな、常に何か病気をしていましたね。
ただ食べて、その日その日、救援が全く無かったですから、当分、何カ月間か、
そうするとお水は雨水ですね。
食べ物は草が生えてきたら草。
最初は芽がポチッっと出ると、
そんな草を食べたってお腹の足しにならないので、10センチぐらいまでのびるのを待って、
それから根っこごと抜いて食べたり、
そんな状態で、身体が悪いですから、みんな。
がれきの上から、焼け後から柱を4本拾ってきて、その上に焼けたトタンを乗っけて、
そんな生活から始まりましたから、
ま、ラジオも新聞もないですから、
自分たちが、どうしてこんなになったのか、・・
ま、アメリカの爆弾が落ちたぐらいはみんな分かっていますよ、戦争していましたからね。
聞き手:
そうすると、実際に広島の方は、原子爆弾という事もお分かりにならないし、
ただ、もう、町が丸焼けに全壊するという形、
そしてその後の生活も大変だったという事ですけれども、
その後ですね、橋爪さんは、今日の番組のタイトルは「原爆を世界に」ということですけれども、
原爆の後、半世紀ぐらい経ってから、積極的に手記も書かれたんですけれども、
一方、海外の方々に原爆の話をされるようになったんですね。
橋爪:はい、
聞き手:
お体はお疲れになるんですけれども、ご体調は必ずしも良くないんだけれども、
でも積極的に海外へいらして、原爆のお話しをなさっているようですけれども、
もうすでに何カ国ぐらいいらしたんですか?
橋爪:
毎年行ってね、ちょっと体調がいい時には1年に3回ぐらい日本を出るんですね。
そして一回に、たいてい3カ国ですね。
3回出ると、9カ国ですか、一回に。
だから、8カ国か9カ国を毎年歩いたという事になりますね。
聞き手:
それをもう、10数年以上続けていらっしゃいますね、
そういう橋爪さんでいらっしゃいますけれども、
そうした世界の人々に原爆を話されたご体験ものちほど伺いたいのですが、
まずは橋爪さんのですね、原爆。
8月6日。
昭和20年、1945年8月6日の朝の、橋爪さんのご体験をお話しいただけますでしょうか。
8月6日 朝
橋爪:
私は14歳で、本当は昔の旧制女学校の最後の年になるんですけれど、
本当は勉強しなければいけなかったんですけれど、
当時は若い男の方はもちろん、中年の人まで、軍隊に、兵隊にとられて、
私たち学生だとか、それから主婦たちが、学徒動員とか主婦動員で、社会に出て働いていたんですね。
で、私はね、本当に幸運だったんですけれど、
殆どの方々が、建物疎開と言って、大きな建物の周りの民家をわざと壊して空き地にしていたんです。
あの、病院とか大学とか、観光地を、類焼を防ぐために。
その後片づけに学生のほとんどが行っていたんですね。
だけど、私は運が良かったのか、貯金局に行く事になって、勤労動員に。
で、貯金局に行っていました。
聞き手:そうするとその建物を壊す作業ではなくて屋内の作業に、
橋爪:そうなんです
聞き手:事務的な仕事をなさっていたんですね。
橋爪:そうですね、お手伝いですね、普通の正社員の。
聞き手:
その貯金局でのお仕事をなさっている最中に、もう、朝の8時過ぎですけれど、原爆、
その時はもうご出勤になっていたのですか?
橋爪:
ええ、私の家は広島市の北の方、お城の北の方です。
貯金局は南の方で、今の日赤病院の傍ですから、
そこは毎日歩いて通っていましたから、片道1時間ぐらい、私は割と歩くのが早かったんですけれど、
1時間ぐらいかかったと思いますね。
ですから、8時半が勤務が始まる時間だったかもしれませんけれど、
8時には大抵の人が行っていましたので、
8時に間に合うように行くという事は7時か7時前に出る。
で、その日は出ようとしたら、ちょっと、空襲警報のサイレンが鳴ったので、
一度家に戻って、また、解除になったので出ましたから、
着いたのが、8時5分か10分ぐらいじゃなかったかなと思います。
聞き手:そして、事務の机かなんかに向かわれていたんですかね、
橋爪:
それでね、前の日に小さいんですけどおみかんの缶詰の配給があったんです。
当時はそういうものは非常に貴重品でしたから、
みんなに配る数がないので、学徒の学生だけがいただいたんですね。
で、それを持って帰って、私の家では弟と妹が学童疎開していましたから、
「その時のお土産に持っていく」って、母が大事にしまいこんじゃって食べなかったんですけど、
で、そのお金をね、係長さんのところにお払いしに行ったんですね。
そうして、お金を、こう、差し出した途端です。
係長さんは大きな窓を背にして坐っていらして、
ですから、私は窓の方、係長さんに向かってそのお金を差し出したとたんに、
その大きな窓がね、本当に鮮烈な光を発しました、
異様に鮮烈でした。
で、一瞬それを見たんですけれども、
光線、それこそ光線
光線がね、七色でしたよ。
赤とかオレンジとか黄色、青だとかね、
七色の光線が、こう、沢山集まって、それがもっと、100も1000も集まったようなね、
だから、一本づつに私には見えたんです、線が。
で、それを見て、その瞬間に、わたしは
「太陽が目の前に落ちた」と思いましたね。
と同時に記憶を失っていました。
聞き手:
じゃ、気を失われて、閃光があった後、いわゆるピカドンと言われますけれども、
ピカッっと光った途端に、もう、気を失われたんですか。
橋爪:はい
そして気が付いたら、あの、広い部屋なんですよね、その事務室が。
広い部屋の真ん中に、こう、何本か柱がありました。
その柱の根元にしゃがんでいましたから、窓からそこまで飛ばされたんでしょうね。
で、多分、柱にぶつかって、そこに落ちたんだと思います。
聞き手:それで身体に痛みとか?
橋爪:
いえ、全然何も感じないで、ただ、真っ暗でね、
異常な静けさ、”しじま”って言うんでしょうか、それがたちこめていて、真っ暗だったから、
まず、「目が見えなくなった」と瞬間に思いましたけれど、
ただ当時、空襲になった時の姿勢の訓練を何時もしていました、防空演習の時に。
それが、人差し指と中指で目を、目玉が飛び出さないように目を押さえて、
鼓膜が破れないように親指で耳を押さえて、
あとは、お腹が裂けて腸が飛びださないように平らな所に腹ばう姿勢だったんですね。
で、私は目と耳は出来ましたけれど、腹ばう余地がない狭いところにしゃがんでいました。
しばらくすると、その、目と耳を押さえている私の右手の腕を、肘をつたって、
生温かーい、ねっとりしたものが流れてくるのでね、
当時、大阪、東京、横浜みんな油脂焼夷弾(ゆししょういだん)というのが、空襲を受けていましたから、
私は4階建ての3階で勤務していました。
で、4階に焼夷弾が落ちて、その油が滴り落ちてくるんだなぁと思っていました。
しばらくしたら、流れてくるのがドッと量が増えたので、そっと手を目の前に広げました。
するとあたりがうすぼんやりと、薄墨を流した位に見えるようになっていて、
で、手にべっとりと血が付いていました。
聞き手:やっぱり、血だったんですね…
橋爪:
そうです。
これ、目と耳を押さえている右手ですから、頭を怪我していると思って、
それで、自分の机を探して、救急袋を持っていましたから、
その中に三角巾とか、ちょっとしたものが入っていましたから、
なにか、布を当てようと思って立ちあがってビックリしたんですけれど、
私の全身はガラスの破片が突き刺さっているし、
部屋中は机もイスもガタガタになって・・もう・・でも、やっと自分の机を探して、
で、布を出して、タオルだったか三角巾だったか、覚えていないんですけれども、
傷らしいところ、右の耳の上ですけれど、そこに当てた時に、
誰か男の方がかすれた声で、「にげろーー!!」って。
で、その声がしたら、暗闇の中から同僚たちが一人立ち、二人立ちして、出口の方に向かって歩きました。
みんな、もう、茫然としていますしね、
で、私は、その柱のところにいましたけれど、出口から一番遠いところだったんですね。
そこに向かって出る時に、3階の窓のところに高圧電線が走っていましたけれど、
その電線が吹きちぎれて、部屋の中にぐるぐる巻きになって、天井まであるんです、床から。
出口はその向こうにありますから、
だから、最初、右手は血が出ているらしいところを抑えて、
左手で、そーっと、こうね、電線に感電しないかな?と思って触ったら、
当然しないですよ、吹き千切られているんだから。
で、感電しないので、それから、その電線をかき分けてかき分けて出たんですけれどもね、
誰も言葉もないし、友達の逃げる姿も、記憶にないですね。
で、その途中で、まだ部屋の中ですけれど、
電線に絡まって、男の人があおむけに倒れて亡くなってたんですよ。
見たところ、どこにも怪我していないようなんですけれど、
もう明らかに亡くなっているという事は、蒼白な顔で、
その時は、私の全身をね、こう、なんか、怖い思いが走ったんですけど、
それが、その日初めて目にした遺体でした。
あの、私が3階の部屋を出て、4階から下りてくる、殆どが女性なんですけど、
髪をこう、振り乱して、
着ている物もすすけてボロの様になって、
本当に亡霊のような人たちが、黙って4階から降りてきました。
で、私もその流れに入って、降りて、
階段を3,4段、4,5段降りたところかしら、4,5歳の女の子、
お掃除のおばさんの子どもだったんですけれども、かわいい,お人形さんみたいな、
その子が裸でね、階段に倒れているんです。
多分着ている物は爆風で飛ばされたんでしょう、裸で。
で、その子のお腹が裂けて、中からピンク色の、
子どもですから、ピンク色の綺麗な腸が、モコモコ、モコモコ湧き出ていて、
彼女はまだ生きていて、苦しそうに身もだえする
私が、ほんの一瞬立ち止まった目の前でね、彼女のお腹の大きさ位の量位の腸が出ましたね。
聞き手:あ・・・しかし、どうしてもあげようがなかったんですよね、
橋爪:
ええ
で、私よりも後から逃げた人、多分4階に居た人でしょう、その後で、私より後に降りていったら、
おかあさんがね、お掃除のおばさんですね、
その子を抱いて、腸が垂れ下がった子どもを抱いて、階段のところで
「誰かこの子を、誰かこの子を」ってね、
あの・・・言ってらしたって、
そういうのが、あの日、いろんな処であったでしょうね。
16:46〜
橋爪:
で、地上にね、おり立ちましたら、
みんな、本当に亡霊のような姿の人達が茫然として、
「いったい何が起きたんでしょう、何が起きたんでしょう?」って
もう、その一言をみんな呟いて茫然としてらして、
中の何人かが、私を見て悲鳴をあげたんですね。
それは、私の肘をつたって流れる血が、ポトポトじゃなくて、
サラサラ、小川みたいに、血管が切れたんだと思いますよ。
そして、たちまち私の足元に血だまりが出来て、
それを見た同じ係りの友柳さんという女性なんですけれど、
彼女がすぐに私を抱きかかえるようにして、
20m位あるかしら、そこに日赤病院がありましたから、そこに運んで下さいました。
で、日赤病院に行きましたら、
外で作業していた人達ですよね、もう、みんな着ている物は焼けたでしょう。
皮膚が焼けただれて、皮膚が海草みたいに垂れ下がって、
手をみんな、胸の前にぶら下げて歩いているんですけれども、
手も顔もね、赤黒く焼けただれて、倍ぐらいに膨れ上がっているんです。
唇なんかも上下にね、こう、めくれ上がってね、・・・・
男性か女性かもわかりませんし、年齢も分かりませんし、
13〜4歳位のね、私ぐらいの年齢の中学生が一番多かったかなって思うんですけれどもね、
そういう人たちが日赤に来ていましたけど、
ただ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)なんかは私は聞いていないんですよ、
※阿鼻叫喚(あびきょうかん)
1 仏語。阿鼻地獄と叫喚地獄とを合わせた語。地獄のさまざまの責め苦にあって泣き叫ぶようすにいう。
2 悲惨な状況に陥り、混乱して泣き叫ぶこと。「一瞬の事故で車中は―の巷(ちまた)と化す」
聞き手:ああ、そういう叫び声なんかなんにもない
橋爪:
なんにもない。
何にもなくて、ただね、茫然とした形で、ただ彷徨っている。
「助けて」もないし、「痛い」もないし、
なにも・・・声がなかったですね。
もう、通り越していたんだと思いますね。
それで私は、そういう人たちがどんどん増えてきますのでね、
それで、私は、きっと、怖ーい夢の中にいるんだと思いました。
現実だとは思えませんでした。
そう思いながら、また、こう、気を失っていったんですね。
友柳さんが、日赤病院の、今思うと、
昔の日赤病院です。今は建てなおしましたけれど、
そこの待合室で、床に横たえて下さって、
もう、その時には目を開ける力も口をきく力も失っていましたね。
ただ、耳だけが聞こえてきて、
友柳さんが、誰か男の方を連れてらして、
その方が、「これはひどい出血だから、眠らせると死にますよ」って、
また足早に、他にも患者、患者というかそういう瀕死の人がいるので、そっちにいらして、
その声と足音だけが、ずっと、耳に残っていますけれど。
その一言がなかったら、その時点で私は死んでいたんですよ。
というのは、とってもね、深ーい、気持ちの良い眠りに、スーッっと吸い込まれるんです。
そうすると、友柳さんがその方の一言があったものだから、
眠らさないように、名前を呼び続けて下さった。
で、また、スーっと深いところに吸い込まれていくと、また呼び戻される。
でも、それ、気持ちがいい眠りなんですよ。
だから、「もう、戻さないで、呼ばないで」って、心の中で思いながらもね、
どれぐらいの時間呼んで下さったんでしょうね、
聞き手:
その友柳さんはまさに命の恩人でいらっしゃるんですが、
その友柳さん自身も、その…、早くお亡くなりになったそうですね。
橋爪:ええ、次の年に原爆症で亡くなったそうですね。
聞き手:
その友柳さんはね、はい。
そうしたやはり被ばくの悲惨な状況の中でも、そうして助けて下さる方もいらしたわけですね。
橋爪:ええ
で、どれぐらい経ったのか、敵機が再来したということで、みんな地下室に逃げたんですね。
その時、友柳さんが私を引きずるように、もう私が自分で立つ力がないので、
引きずるようにして階段を下りて下さったのを、あの、覚えていますね。
で、地下室に大勢避難していて、
友柳さんの同僚も二人いらしたので、
耳が聞こえますので、耳元で
「何があったんでしょうね、いったいどうしたんでしょう?」って、
そういう事ばかり呟いていましたけれど、
しばらく経ったら、私もなんか、体の中にね、すこーしだけ力が湧いてきたような感じがあって、
本当に小さい声ですけれど、「いったい何があったんでしょう」って、つぶやいてたんですね。
それを聞いた時に、友柳さんは、私が死ななかったっていう事でね、
嬉しくて声を立ててお泣きになりましたね。
で、私が一応死ななかったっていう事に少し安心なさったんでしょう。
「私はこれから家に帰って母の安否を調べに帰るから、必ずここに戻ってくるから、動かないでね」って、
何回も私に言って、
その友達に、「これ、学生、子どもだから頼みます」って言って帰っていきましたけれど、
さっき、「何が起こったんでしょう」って小さい声で言ったら、その力で、また、すーっと力が抜けて、
「ありがとう」も言えなかったですね。
だから、彼女がうれし泣きのようにお泣きになった声と、去って行く足音が、やっぱり耳に残っていますね。
で、友柳さんがおうちにお帰りになった後で、日赤病院に火が回ってきて、
きな臭いにおいがしてきたんですね。
で、みんな逃げて行ったようです、
そうすると私のそばにいた友柳さんの友達二人が、
「この娘はどうしましょう、私たちもこんなに怪我しててね、連れて逃げることができないけれど、
でもあんなに友柳さんさんに頼まれたの」と困っていらして、
で、私はまたすこーし、体の中に力が湧いてきたようなので、
「私は動けませんので、どうかおいて逃げて下さい」って言いました。
彼女たちは「私たちもこんなに怪我してて連れていけなくて、ごめんなさい、ごめんなさい」って言いながら、
逃げて行きました。
で、地下室に私一人になったって、もう周りの気配でね、
そしてじっと横たわっていたら、
うっすらと目を開けることは出来たんです。
向こうの左の奥のところからちょっと明かりがして煙が入ってくる。
「ああ、あそこが出口なんだな」と思って見てましたら、
最初はこう、うっすらと白い煙で、だんだん濃くなって、
最後に入道雲みたいに黒い煙の勢いの塊りがどっと入ってきたんですね。
「それが私のところに来たら死ぬんだなあ」って思って、
ま、自然に死がやってきて連れていくっていうふうに、傷も痛くないですし、死ぬことも怖くないし、
非常に静かな気持ちでした。
聞き手:はぁ…14歳の少女でいらしたんですけれど、そういうお気持ちでしたか、はい。
橋爪:
そしたらその煙が私のところに来ました。
するとその煙の中にね、黒い袖が走って、
「まだ誰かいるか、早く逃げろー!」ってものすごく大きな声で叫んだんですね。
その声の勢いに押されるようにフワッっと立ち上がる事が出来て、
そして出口の方へ向かって歩いたんですけど、
その時私ね、鏡があって自分の姿を見ちゃったんですよね。
聞き手:あ…鏡があったんですか
橋爪:
最初はその煙の中からね、私の方へ近づいてくる、
すごい形相をして真っ青な顔で、痩せて、長い髪の毛を垂らしてるんですけど、
顔にべっとりと血が付いていて、その上に髪の毛を垂らして、おびえた目をしてね、
蒼白な顔で私の方へ近づいてくるので、
私はもう襲われると思ってね、怖いから両手で顔を覆いました。
すると襲ってこないんですね。
それで指の間からそーっと相手を見たら、向こうも怖そうに指の間から私を見ている。
自分ですっと近づいて見たら壁があって鏡がありました。
だからその時の姿を偶然見ちゃったんですけれど、
聞き手:ご自身の姿におびえるぐらいに悲惨なお姿だったんですね。
橋爪:
そうです。
で、表に階段を這って出たような気もするんですけれども助け出されたのか…
這って出たような記憶の方がするんです。
で、出てビックリしましたね。
今朝まであった町がもうすっかり消えているんですよ。
それで、目をパチパチしてもやっぱり消えているので、
私「まだ夢を見ているな」と思いましたね。
聞き手:明るいですよね、外は。
橋爪:
でもね、なんか夕暮れみたいな、こう薄ぼんやりした色で町が本当に姿を消しちゃっているので、
…唖然としましたね。
それからもう夕方、時間も分かりませんけれども、
広島市内、平らになった広島のあちこちから火が燃えてきて、日赤病院はもちろん裏から、
建物は鉄筋で燃えなかったんですけれど、
中と裏にあった看護婦さんの宿舎かなんかが燃えたんだと思いますよ。
窓という窓から炎を噴き出して、すごい炎で。
で、その時、日赤病院で大勢の人が避難していましたけれど、
歩ける人はみな歩いていきましたし、兵隊さんなんかは担架で運ばれましたね。
で、私は動けないし、逃げる気持ちもありませんでしたら、
その時に飯田義昭さんっていう16歳の少年なんですけれど、
聞き手:二つ年上の方ですね。
橋爪:
そうです。
彼が額と胸に、彼も重傷を負っていたんですよ。
だけど、足はどうにか歩く事ができたのに、私のために火の中に残ってくれました。
聞き手:それは見知らぬ方だったんですね?
橋爪:
そうです、そうです。
そして日赤病院のお庭の前に植え込があって、
低い木が、今はソテツが、前からソテツもありましたけど、
その横の方に松の、ちっちゃい松の木があったと思うんです。
その陰に連れて行ってくれました。
と言いますのはね、日赤病院から噴き出す炎からね、雨のように火の粉が降ってくるんです。
それを避けるために木の陰に連れて行ってくれました。
で、そこで一晩彼と過ごしたんですけれどね、火の中で。
聞き手:ああ・・・その少年も非常に、その16歳の飯田さんも、非常のその御親切な方ですね。
橋爪:
彼がその火・・で、彼もね、
ま、私は、あの、もう生きることも死ぬことも考えていませんでしたから、
もう広島中が燃えて私たちの頭の上はすごい黄金の炎がすごい音を立てているんですよ。
市内が燃えるのもすごいね、轟みたい、地の、地鳴りみたいな大きな音で、
で、天、頭の上を走るね、炎もね、怖いような大きな音を立てます。
だけど金色の世界ですよ。黄金の世界、炎の下ですから。
その中で生きることも死ぬことも考えなかったけれども、多分彼もそうでしょう。
だから静かな、いずれもう死ぬでしょう、火の粉に包まれてね、
で、その時に彼が話しかけてきて、その時に名前をね、名乗って、
私の名前を聞いたから名前を知っているんですけれど、
彼はその朝妹さんと二人で家にいて、潰れた家の下敷きになって、
彼はどうにか這い出したんだそうです。
ところが妹さんが、声は聞こえるけれども深い、その崩れた家屋の下にいて、
いくら一生懸命やってもどうしても自分の力でどうする事も出来ない。
で、そのうち火が回ってきて、妹さんが
「熱い熱い、お兄さんの水かけて」って言うので、
当時防火用の水槽がありましたから、そこにもバケツが置いてあったので
その防火用水の水をバケツでくんで声のする方へザバザバかけてて、
そうするともう、足もとまで火が迫ってきて、
妹さんが「お兄さんありがとう」って、「早く逃げてちょうだい」って言ったそうです。
で、もうそこを離れる以外になかったんですよ。
そしてお母さんが主婦動員で働いている宇品ていう南に軍事工場があったんですけれども、
そこに行こうと思って川を歩いて渡って、
広島は川が多いですから、そして日赤病院の前を通りかかった時に、
自分も重傷を負っていますので、入ってきて私と会ったという事です。
だから妹さんの変わりに私を助けてくれたんですよ。
「君いくつ?」って最初聞かれた時に、
「14歳」って言ったら、その途端に黙ってしまいましたから。
黙ってこう、まだその時燃えていなかったんですけど、広島市が平らになっていますね、
それの遠いところをこう眺めてね、
妹さんの事を思ったんでしょうね。
その後私は眠くなりますし、で、眠ったんですね。
そして今度寒くて目が開いたら、頭の上の炎無くなっていて、広島市の火もだいぶこう下火になっていて、
で、傍に飯田さんがいないのでね、始めて怖さを覚えましたね、恐怖感を。
底から、地の底からわき上がるようにね、うめき声、
苦しいんでしょうね、うめき声が非常に怖かったです。
で、飯田さんをとにかく探そうと思って、座って、
立ち上がる力が無くて座って探してから、
日赤病院の中で裏の方は、まだ赤かったです、燃えていました。
だけど影絵のように人影がいて、彼だったんですけど。
それでヤカンにお水を入れて死んでいく人達に一口ずつあげてはまた、しゃがんであげてはまた立ちあがって、
っていう…だから一晩中死んでいく人にお水をあげて歩いていましたね。
彼がその炎の火の下でね、私に「趣味は?」って本当に静かな、
あの中でね、「趣味は?」なんて聞いて、私が「読書」って言ったら、
「僕は読書と音楽です」って「音楽は神の言葉です」って言ったんですよ。
で、それを私は彼が一口ずつね、死んでいく人にお水をあげている姿を見てね、
「ああ、神様はそこにいる」と思いましたね。
聞き手:飯田さん自身が神様に見えましたか。
橋爪:ええ、地上にいると思いました。天じゃなくて。
聞き手:その飯田さんは、今はどうなさっているんでしょうか?
橋爪:飯田さんは10年後に交通事故で亡くなったんですよ。
聞き手:あぁ・・・・じゃあ、その原爆症ではなかったんですね。
橋爪:
はい。
ただ…あの…30歳過ぎてから結婚なさった、男の子が、坊やが一人あるんですけれども、
その坊やが赤ちゃんの時に亡くなっていますから、
家族には、その後奥さんともお会いしたんですけれども、
原爆の事をお話しにならなかったそうです。
聞き手:
…飯田さんは…ああ…
そういうわけで一命をとりとめられて今ここにいらっしゃる橋爪さんですけれど、
そのあと、その橋爪さんのご家族、
おうちの方へ帰られるというか、ご家族に会われるのはその当日じゃなくてその後ですか
翌日 8月7日
橋爪:
その日、その夜は火の中で飯田さんと過ごしましたよね。
で、次の日は火がだいぶおさまっていました。で、寒かったです、とても。
夜明けとともに飯田さんがお母さんがいるところ
宇品(うじな)って、一番南のところは
「もしかしたら焼けていないかもしれない。だから傷の手当てをしよう」って言って、
そっちに向かって歩きました。
途中まで行ったところで、御幸橋って言って一番南の橋なんですけれども、
そこのところに何軒か壊れているけれども焼けていない家があって、
その中の一軒に私の母の叔母の家があったので、ちょっとそこに行ってみようと思って、
飯田さんに橋のたもとで待っていただいて行ったんですね。
そしたら叔母がもうびっくりしまして、30分ぐらい前に私の父が行って、
家族はみんな怪我をしているけど一カ所に集めたけど、
私は文子っていうんですけど、「文子だけがどうしてもわからない」
で、今日は諦めてね、貯金局に行ったら似島(にのしま)っていってね、
瀬戸内海に綺麗な富士山みたいな島があるんです。
そこに運んだって言ってたけど、船で行かなければなりませんね。
「だから今日は無理だからまた日を改めてきます」って言って帰ったばっかりだっていうので、
聞き手:お父様がね、
橋爪:
私の父が。
それで「ああ、みんな生きているんだ」って思って、
とにかく母に会いたかったですね。
聞き手:あぁ、お家族の無事を知らされて、ん…
橋爪:
で、飯田さんに「これから帰ります」って言ったら。
「到底その体では無理だから」
南から北、広島市を縦断することになりますから、
「とにかく宇品に行って、治療をして、少しでも君が元気になったら必ず僕が連れて行ってあげるから」ってね、
説得して下さったんですけど、
もう母に会いたくて会いたくてね、
それを振り切って歩き出しました、北に向かって。
こう、「イチ・ニ」って、
自分の中で声掛けないと、止まったらそこでバタバタッ!と倒れるような歩き方でしたね。
聞き手:
そうしますと、原爆での焼け跡、
全滅になった広島市を南から北へほぼ縦断されたんですか?
橋爪:縦断したんですね。
聞き手:5〜6kmはあるでしょうね。
橋爪:
そうかもしれませんね。
いろんな不思議な事がその間にもありましたけれどね、
水槽、一滴もお水が無くなった水槽の中へ白骨がいっぱいありましたしね、
立ったままの白骨とか、ま、寄りかかっていますけれども、
「なんで白骨が崩れないで立ってられるんだろう?」とかね、
不思議な事がいっぱいありました。
聞き手:
そうした広島の、被爆直後の広島の街を縦断されて、
そしてお母様に無事お会いになった時のお気持ち、喜びというのは
橋爪:
そうですね、わたしが飯田さんと別れて歩き始めて、何時間経っているのかわかりませんけれども、
その間に本当に生きて動くものを全然見ないんですね。
で、草もなにもないですから、風にそよぐものもないから、
本当に「死の街」でしたね。
で、それをずっと歩いて、北の方に「逓信局」(ていしんきょく)って、
私が最後に、就職することになっていた、L字型のユニークな建物なんです。
それが残ってた、見えたんです。
「ああ、私は帰ってくる事が出来た」
そこから、でも私が見えたところからそこまでも15分ぐらい健康体でもあるんですよ。
でもとにかく「帰ってきた」と思ってそっちに行って、
そのL字に沿って曲がったら向こうから3人の人がね、
こう、肩を寄せ合うっていうか、肩を組み合うみたいにしてね、よろよろ歩いてくるんですよ。
私またね、自分が夢を見ていると思いました。
朝から生きて動くものを見てませんので、
しかもそれが、人間が3人もね、生きて歩いているっていう事は夢だと思いました。
それが、本当に幸せだったんですけれど、
母と叔母と姉で、
聞き手:ああ…それは本当に偶然ですね。
橋爪:偶然なんです。
聞き手:
じゃあ、傷つかれた身でお母様に会われた時には、
本当に…なんとも言えないお気持ちだったでしょうね。
橋爪:
いえ、でもね、
いまのこんな状態ですよね、その時に感じるような感動とか喜びとかそういうものはね、
もう感じる、人間の、なんていうのかしら、喜怒哀楽を通り越したところにみんな居たんだと思いますよ。
私も、もうふらふらですよね、当然。
で、母も。
みんなね全身にガラスの破片とか、家が倒れた木の破片だとか、
母は腕からいっぱい木くずが、その後ね、何年も経っても出たから、
いっぱい怪我してるんですけど、致命傷みたいな傷以外は怪我と思わなかったんですよ。
で、母は腕が、左かな?右かしら、ぶらさがってましたね、ガクンと。
聞き手:あぁ…
橋爪:
それから叔母はね、電車に乗っていたらしいんですけど、頭をやられてね、
だからもう、頭がフワッとなって、
姉はお台所にいて被爆したので、顔にお鍋かなんかが当たったんでしょうね、棚にあったものが、
分からないですけど、
顔がこう、目のまわりが特に、顔がはれ上がって目が見えなくて、
叔母は頭がふらふらしているから、目の見えるね、母にみんなが寄りかかって歩いてたんです。
聞き手:
あぁ…、じゃあ、喜びとか悲しみを本当にまさに超越して、
もうしていらっしゃる世界ですね。
衰弱の極みと言いますか、あぁ・・・、
そしてあの、弟さんはお亡くなりになった
橋爪:
弟はね、小学校1年生だったんですね。
ちょうど夏休み中の登校日で学校に行ってたんですね。
で、鉄棒で遊んでいて後ろから光線を受けて。
だから前は綺麗なんですよ。
でも後ろはね、もう血も出ていないんですね。
真皮からがめくれている。
するめを焼く時にくるくるっと巻きますね。
ああいうふうに前に向かって皮膚が全部めくれて血も出ていませんでしたね。
そういう状態で次の日に避難先の戸坂小学校の校庭で弟は亡くなりました。
聞き手:
今いろいろ、橋爪さんに原爆当日、被爆当日のお話を伺いましたけれども、
こうした事を海外でもいろいろお話になっているんですね。
橋爪:
そうですね、海外では通訳の方が助けて下さるので、
そんなに私が話す時間がゆっくりないのと、
聞いて下さっている人たちの質問をいただきたいと思うので、
その時間も取りますので十分には話せませんけど、
本当は私は、その原爆のその日のこともですけれど、
その後、被曝後で焼け跡で生きた、みんな傷ついて病気をしながら、
そして何の援助もなかったですから、食べるものもないし、
みんな重症を負っていましたけれど、全部自然治癒です。
お医者さんに行った事は、みんな一度もない。
そしてお水は雨水ですね。
で、草を、焼け跡に草が生えるとその草を食べましたけれど、
草が生えるまではね、「何食べてきたのかしら?」って。
生前の時の母だとか、今生き残っているのは私と叔母ですけど、
話すんですけど何を食べたか分からない。
聞き手:
そのぐらいやはりあの、大変だったんですね。
そうした、被爆当日、原爆当日も大変でしたけれども、その後のご生活がいかに大変だったか、
そういった事をお話になる時間が海外でも、そして国内でもない。ということのようですが、
じゃあ、こうしたことも含めてですね、明日一つこの続きをよろしくお願いいたします。
橋爪:はい
聞き手:どうもありがとうございました。
ーーー8月5日放送に続く
「原爆体験を世界に」NHKラジオ深夜便橋爪文(広島被爆者)2011年8月4日放送 より文字起こし
書籍には、その他様々な被曝症状などが、さらに詳しく書かれています。是非お読みください。
◆関連ブログ
「原爆体験を世界に」橋爪文〜NHKラジオ深夜便から2011年08月21日
世界中のみなさん、反原発に向けて立ち上がりましょう 橋爪 文(原爆被ばく者)2011年08月23日
原発と原爆はおなじもの・・橋爪文氏2011年10月02日
原爆生き残りの方の証言(肥田医師、橋爪文さん)2011年10月13日
タグ:橋爪文
もしかしたら、ここらへんに放射能を除去するヒントが隠されているかもしれません。
ナノシルバーもそうですが、可能性は全て考えておきべきです。
>すべての抗がん剤が悪いわけではありませんが、抗がん剤を打ったらガンも死にますが免疫細胞も障害を受けます。
そうですかぁ? 全ての抗癌剤が悪いように思えますけど…丸山ワクチンと鶴見ワクチンを除いて。
ある医者が癌で入院している患者の8割が薬物中毒で死んでいる(多分、抗癌剤?)のに吃驚して、辞めさせるためにレポートを書いて院長に提出したら目の前でビリビリに破かれたそうですけど。
3月28日付 The Japan Times (ジャパンタイムズ)
http://www.japantimes.co.jp/news/2013/03/28/national/elderly-311-nuke-evacuee-deaths-spiked/
3月27日付 PLOS ONE (オンライン科学ジャーナル)
http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0060192
この記事で渋谷教授の調査グループは、南相馬市の老人介護施設での死亡率増加は“facility-specific factors”、つまり各施設独自の要因によるものが多いと結論付けています。確かに食事や暖房が不備な時期があると老人にはストレスになりますが、比較的条件が良い施設5(Table2を見てください)などの死亡率も決して低くはないので、このような結論は短絡的な印象を受けました。
何よりも私が驚いたのは、なんと坪倉氏正治の本を引用して「被爆や内部被曝による深刻な健康被害など証明されていないにもかかわらず、人々はたいした理由もなく政府により避難させられた。このような避難は、逆に心臓血管や慢性的な生活習慣病のような症状を起こすリスクを増やした」と述べていることです。さらに「避難すること自体が放射線被爆よりも高い死亡率を生むこともありうる」などとも言い切っているのです。“it is possible that the evacuation process itself will yield higher mortality than can be expected from radiation exposure. ”(PLOS ONEの記事中、Discussionの部分をお読みください。)老人は置きざりにすべきとでも言いたいのでしょうか。20キロ圏内は原則無人ですからいったい誰が介護するのでしょうか。世界中から避難を浴びた家畜のように、置き去りにして餓死させるってことですか。
南相馬市にある原発から20〜30キロ圏にある老人介護施設の数は全部で8つ。今回の調査に協力した5つの施設は8つの施設合計収容人数のたった62%にしかあたりません。調査に参加しなかった残りの3つの施設は津波で記録がなかったり、調査のためのきちんとした非難や死亡記録がないのだそう(老人介護施設なのに???!!!)
この渋谷健司教授は国際保健衛生学がご専門。事態は深刻な原発事故だというのに、さしたる医学的な検証もなく、死亡率と介護施設環境の相関関係を調べた報告なんてまるで子供の夏休み研究みたいですね。神の手を持つミスターゼロベクレルこと早野龍吾教授の福島県庁食堂の放射性物質検査と同じレベルです。この調査の資金提供者は、厚生労働省とトヨタ財団、なるほど。ちなみにトヨタの工場は浜岡原発から70キロくらいの所にあります。
私はそんなに年が違いませんから、どうしても私も終戦当時のことを思い
出してしまうのです。
ただ私は当時は新潟市にいてB-29も目撃しましたし遠くで炸裂する爆弾の音も聞きました。そしてそこを逃げ出して県内の両親の田舎町へと避難
しました。
広島に原爆が落とされた日も長崎の日もそして玉音放送の日も蝉しぐれの中で生きていました。
当時の食物はやたらに水っぽいおかゆであり、かぼちゃであり、さつまいもでした。一生分のものを食べましたから、現在では食卓にかぼちゃと
サツマイモを出されてももう食べません。
大学の同級生に広島市出身の奴が居ましたから広島にも行きましたが綺麗に整地されていて当時の面影は皆無でした。
広島の悲劇は後々「はだしのゲン」を読み、更には橋爪さんの言葉を聞いて真髄の一端に触れる思いでした。
彼女は本能的に原爆イコール原発だとご存知なんですね。だからこそ
叫ばずにはおられないのでしょう。
肥田先生や橋爪さんに何度悲劇を経験させれば気が済むんでしょうか、
この国は。原発総廃絶の日まで私も頑張りたいと思います。
でも六ケ所村はどうする積りなんですか?
記事とは関係ないのですが、先生の新刊「フクシマの真実と内部被曝」を一読しましたので、沼内恵美子さん(ぬまゆさん)に贈呈しました。ぬまゆさんのブログFINALは昨日、人を傷つけてしまったことが原因で閉鎖になるということで連絡先の電話番号が載っています。現在の状況を含めてお伺いしました。私としては参考にさせていただいていたサイトでしたので残念ではあるのですが、歯が抜けたり、原因不明の痣などが出ていましたので、もっと遠くへ避難してほしいという思いもあり、昨日お電話して状況をお聞きしました。声は元気そうでしたので安心しました。
家の中でも0.2〜0.3マイクロシーベルトもあり、低線量被曝について心配されておりました。学校の先生をされていて、現在も隔日でお仕事をされているということもあり、子供達を置き去りにして避難することはできない、ということが主な避難できない理由でした。
また、原発から25キロしかない南相馬の地域を、「政府が強制避難区域にしないため、結局住民が避難しても戻ってきてしまうんですよね」と話しておられました。また「ぽっくり病」で高齢者が突然死することがとても多いのだそうです。地域の子供達が放射能の影響を心配して、「将来は県外の方と結婚できないね」ということを話していたという事を聞いて悲しくなりました。前政権の政府の「ただちに影響がない」という無責任な対応が生死に関わっている地域なのです。とても憤りを覚えました。
小野院長の講演のDVDは何枚かお持ちのようでしたので、先生の書籍も読んで考え直してほしい(もっと遠くへ避難してほしい)と願っています。
今回の戦時中のことの音声の書き下ろしも参考にしていますが、やっぱり放射能は怖いの一言に尽きます。これからも自衛していきたいと思います。