2013年03月28日

「原爆体験を世界に」橋爪文〜NHKラジオ深夜便から(2)

「原爆体験を世界に」橋爪文〜NHKラジオ深夜便から(1)のつづき

みんな楽しくHappy♡がいい♪
3.「生き残り」というのは「あ、こういう事なのか」と思ったんですね 8/5橋爪文氏(文字起こし)
4.「知っているつもりで知らないのは日本だな」私は痛感しながら海外を歩いた 8/5橋爪文氏(文字起こし)
5完.「あなたは原爆と原発は同じものだと思いますか?」「同じものです」と言いました。 8/5橋爪文氏(文字起こし)
以上から、そのまま引用


聞き手:
橋爪さんは昨日、原爆の日の当日も大変だったけれども、実はその後の生活も大変だった。
その後の事をなかなか話す機会が無いんだとおっしゃってましたけれども、
少し今日は、その原爆後の日々のご生活をちょっとお話しいただけるでしょうか?

橋爪:
はい、
田舎の方に避難していく人はいらしたんですけど、
私たち何人かと家族と、それから近所の方が戻ってらして、
焼け跡にバラック、といっても焼け跡から4本の焼け残った柱を、棒を拾ってきて、
それをがれきに突っ込んで建てて、
その上に焼け残ったトタン。
一枚がたたみ一畳ぐらいのものを二枚乗せた、それだけのバラックなんです。
壁ももちろん無いですし、そして下はがれきですね。
そこに近所の方と私たち家族とで、13人が夜露をしのいだんですけど、
昼間は木陰も全然ないですし、本当に見渡す限りがれきの、赤茶けた野原で、
で、真夏ですから、こう、肌がじりじり焦げるんじゃないかと思うような強烈な太陽でした。

でも夕方日が落ちると急に寒くなって、
私たちはみんなすごい、13人が重傷を負っていましたので、
そのせいか、寒さもひとしお感じたのか、
夜、夜露に当たらないように、その2畳ぐらいのトタンの下に頭を入れて寝るんですけれども、
2畳ぐらいに13人ですから、真ん中の人はお団子になったみたいに手足を丸めて、
で、座った人は座ったまま、
外側の人は頭だけ入ればいいっていうふうに、みんなくっつきあって夜を過ごしたんですね。

何日間か過ごしましたけれど、
みんなあれから食べ物は何にも、ほとんど食べないんだから、
お腹が当然すいていると思います。
それでみんな重症を負っていますね。
でも、お腹がすいていることも、傷が痛いことも、辛いことも、
一言も、誰もそういう事を口にしなかったんです。

ただくっつきあって寝てて、隣の人が、体温がこう伝わってきますね、
そうすると、「ああ、この人は生きていて下さるんだ」と、
お互いにそれを感じながら、それで励まし合って、口にはしませんけれど、過ごしたんですね。


聞き手:その時は、あの、一番あの、お水なんかはどうなさったんですかね?

橋爪:
お水もね、その時はもう水を飲んだっていう記憶は特に。
みんな何を食べたか、なにを、お水を飲んだかって覚えてないんですけれども、
少し後は雨水をずっと。
雨水を飲んで草を食べて過ごしました。

あの…、その後いろんな病気をしました。
今も沢山の病気を持っていますけれど、
あの時草を食べて生きた事を思えば、これは贅沢でありがたいなと思いますし、
それから目が原爆白内障ではやくに手術しました。

で、目が見えるようになったらこんなに世界が変わったかと思う位に嬉しかったんですけど、
またすぐに視力が落ちて、
今片方の目に3重ぐらいずつレーザーで穴を開けて見えるようにしているんです。
ですから、目が非常に疲れやすいんですね。
でも私はこうして、あの時に目が見えなくなったと思ったのが見えるんだから、
「ああ感謝だな」と思って。
なんでもね、すぐ感謝、感謝だと思って、
辛いこともあの時の事を思えば遥かに今の方がね、
感謝しなければいけないと思いながら自分の中で生きていますね。


聞き手:
そして昨日のお話ですけれども、
あれだけ極限状態にあってもですね、人助けをなさる方、
飯田さんのお話をなさいましたけれども、本当に素晴らしいお方ですね。


橋爪:
飯田さんも16歳のね、昨日お話ししましたけれど16歳の少年で、
自分も重傷を負っていましたけれど、歩くことが彼は出来たんですね。
で、私のために火の中に、本当に一晩中火の中に残って、
そして一晩中おやかんに水を入れて死んでいく人達に一口ずつ水を与えて歩いていましたから、
ああいう中でね、そういう事をしている彼を見た時に、
本当に人間以上の神様みたいなものを感じました。
それもありましたし、バラックで身体をくっつけあってね、重症者達が。
何にも苦情を言わない。
隣の人の事を常に思って過ごした、ああいう人間の極限状態にあった時には
「人間って素晴らしいな」っていう事を、私はあの時に見た気がします。


聞き手:
あぁ…、極限状態にありますとね、
人間も恥知らずになって、「自分が自分が」というふうになるんじゃないかとも思いますけど、
その逆の人間像をご覧になったんですね。

橋爪:
いや、多分私はいろいろ思うんですけど、
私のまわり、私が知っている被爆者の方達が報復だとか憎しみなんか全然訴えないで、
そういう憎しみとか何とかね、考える余地が無いくらい、
なんか人のものを盗もうとか、盗むものもないんですよ勿論ね。
だけどもそういうのをもう通り越した極限状態というのがあったような気がするんですね。

ですからその後、私が生きてきた中で、ずーっとそれがね、根っこにあるような気がするんですね。
あの時見た人間の、「人間っていうのは素晴らしいんだ」っていうことが。
だからいろんな事があっても私は人間を信じたくなる方ですね。

海外に、いろんな国に行きましたけれど、
ニュージーランドで高校生、いろんな中高生と話した時に、
高校生が質問で、
「文は原爆によって哲学が変わりましたか?」と質問があって、
わっ!難しい質問がきてね、その時に私は、
「原爆で非常に悲惨で辛い思いしましたけど、
でもその中で、極限状態の人間の素晴らしさを見る事が出来ました」って言ったんですね。
いった後で手が沢山、質問の手が上がってますから、説明する時間がないから、
「難しいこと言っちゃったな」と思ってんですけど、
次の日に先生が感想文を持ってきて下さった中に、
彼の、高校生の手紙がありまして、

原爆の話はとっても心に衝撃を与えたし感動したけれども、
私が一番感動した事は、文がそんな中にあって人間の素晴らしさを見たっていう、
あの一言に非常に心を打たれて、
わたしもこれから文のように人間の素晴らしさを信じて生きていきます。
っていうのがあったので、
「あぁ、分かってくれたんだな」と思って私の方が感動しましたね。


聞き手:
今ニュージーランドのお話が出ましたけれども、
橋爪さんはもうすでに海外各国行ってらっしゃいますけども、
橋爪さんがそもそも海外にお出かけになる、海外とのご縁のきっかけはどういうところですか?


橋爪:
きっかけはね、大家族の中の主婦で、
日本の女性、主婦っていうのは古い美徳で育ちましたから、
忍従、家族に使えること、主人とかひたすらそういう生き方をしていました。

聞き手:
あ、そうしたら橋爪さんは、あの、被曝されていろいろ病気に悩まれたけれども、
その後結婚されてお子さんもお出来になったんですね。

橋爪:
30歳の時に、ま、一応いろんな病気があって、
病気のために東京に広島から移ったってお話ししましたね。
それで、通院しながら治療して、完全には治らないんですけれども、
一応軽癒ということで30歳で結婚して30代で3人の男の子を授かりました。
それで厳しい生活でした。
昔の家族だから、どうしても主人を私が立てて家を守っていくという昔風の家庭でしたから、
自分の事なんか省みる時間もなくて、それがもう女性の生き方だと、
おばあちゃんとか母なんかを見ていて自分もそうしていたんですけど、

60歳になった時に長男が、長男が33歳の時の子どもですけど、
彼がふっと私と二人だけになった時に、
「お母さんの生き方をしてほしい、せめて5年でいいからお母さんの、自分のために生きて欲しいね」って、
ま、希望、そうしてほしいんですけど実際には不可能っていうことも
彼は分かりながらそういう事をふっと口に漏らしたんですね。
でも実際にはやっぱり毎日の忙しい生活でした。

だけど還暦ですから、60歳だから。
何か私も、子どもたちもある程度大きくなりましたから何かしたいなと思って、
むしろ勉強できない時代と環境にありましたから、勉強したい事がいっぱいあったので、
ちょうど放送大学が始まったころだったので、放送大学、家にいて勉強が出来ると思って、
それで取り寄せて、書類をみたんですけど、
「4万円のアンテナを建てないといけない」
その4万円が無かったんです、生活が苦しくて。
それと、1ヶ月に1回横浜まで出かけないといけない


聞き手:スクーリングっていうのがあるんですよね。

橋爪:
そうです、それも私は時間が無いっていうので諦めて、
そうすると、「何か一つに絞って出来る事をしようかな」って思って、英語を選んだんですね。
何故英語か?って言いますと、
やっぱり原爆が根底にあったんでしょうか、
世界の中、アフリカとか東南アジアとか中南米、
非常に虐げられて苦しい生活している人たちが大勢いますね。
で、その人たちと直に触れて人間って、人間の幸せって何か?っていう事をね、
こう、触れ合っていきたいという事をですね、
そのためには一人で飛行機に乗らなければいけないので、それで英語の勉強を選んだんですけれど、
で、お金も時間もないですから、NHKの朝6時の基礎英語ですか、あれのテキストを買って
それでそれも続かなくなって一時辞めたんですけど、
そうしたら歩いていけるところに英会話教室が出来たんですね。
ちょうど私は60歳になっていましたから、
60歳過ぎた人はシニア料金って安くなるって、半額だって。
それにも惹かれて歩いていけるし時間も。そこに行き始めました。
あの、スコットランド人でしてね、とってもいい先生で私は幸せだったんです。
先生が半年経ってスコットランドに帰る時に、
「文がスコットランドに行ったら英語が話せるようになるよ」って。
「ぼくは帰ったら推薦しておくから」って学校を紹介して帰って下さいました。


聞き手:それでスコットランドの学校へいらっしゃる事になったんですか?

橋爪:
はい。
ちょうどいろんな、そういうチャンスが来たんですね。

聞き手:そしてそのスコットランド、最初の海外体験はいかがでした?

橋爪:
とっても勉強に、いろんな点でね。
英語はどこへ行っても最低ですけれど、たとえば教科書があるんですけれど、それに絵が出てますね、
そうすると、その中で自分の言える事を話せる事を話す。
たとえば、赤い洋服を着ている人がいたら「レッド」だけでもいいんですよね。


聞き手:ああ、なるほど。そんなに文章をきちっとしなくても

橋爪:
そう。
でも、話せる人はもっと話してもいい。だから私がついていけたんですけど、
最年長者ですから、みんなに助けられてあったかくされて、
実は私は、詩を、短い詩を書いていたんですけど、
行く前に友達のご主人が英訳して下さって、
「これを持っていらっしゃい」っておっしゃったんですね。
それを持ってましたので、スコットランドで先生にそれを渡しました。
すると先生が被爆者がいるっていうことでビックリなさって、まず先生方、
日本語で言うと職員室ですか、そこでおっしゃって、それから生徒達に。


聞き手:そうしますと、その詩の内容は自分の被爆体験を書いてらしたんですね。

橋爪:そうです。

聞き手:
その詩は沢山、ここにコピーがありますけれども、
そのうちの短いのを一つご紹介いただけます?

橋爪:はい。恥ずかしいけれど、じゃあ短いの。


空の星を沈めた水槽の雨水で
わずかな食べ物を煮炊きした
星の光が痛いほど降る露天風呂で湯を浴びた
両手を思いっきり天に伸ばすと星の話が聞こえた
私は生きている
星がきらめいて答えた
お前は生きている
天の下の水槽の底にはミミズが住んでいた
ミミズと私は一緒に生きていた


聞き手:これはまさに、原爆のですね、バラックに住んでいらしたころのご体験ですね。

橋爪:
はい、
昔は五右衛門風呂って言って鉄の丸いね、お風呂を使ってまして、
で、鉄ですから焼け残っているんですね。
建物は全部焼けても。
そこに雨水が溜まります。
ま、火はがれきをちょっと掘ると火種はまだ残っていましたし、
火の焼け残りがあちこちにありましたからそれを拾ってきて、
お風呂をね、お湯を沸かして入ろうっていうことで、
でみんながそれに1人ずつ入って、
周りに何にもないんですけれども、やっぱりまだ10代の女の子ですから、
着ている物ってないんですよ、着の身着のままでね。
でもそれを、五右衛門風呂の陰でそっと脱いでね、お湯に入って、
全身にね、いま思うとですけれど、
全身傷だらけですよね。
だけれども、全然その傷の事なんか考えなくて、
それは本当に、「お風呂ってこんなにいいものか」っていう。
気持もね、穏やかになるし、体も休まるし、
本当に、本当の露天風呂です。
広島にまだ家が無いですから、明かりは全然なくて。
星空の下の、下は地上は闇ですから。


聞き手:その詩を英訳されたのを先生がご覧になって、随分ビックリされたんでしょうね。

橋爪:
ビックリなさったでしょうね。
皆さんビックリして、学生たちもね、
目の前に原爆の生き残りがいるっていう事に先ずショックを受けて、
そのショックが自分の目の前に今原爆が落ちたようなショックだったんですね。
それを私は見て、
私は「言葉が通じなくても、私がここに存在するだけでこれだけ訴える力があるんだな」
っていう事を感じましたね。

「生き残り」というのは、「あ、こういう事なのか」と思ったんですね。

原爆なんて事は遠いアジアの国の昔の事だと思っていたところに、
目の前に生き残りの人がいたのでショックを受けたんだと思いますよ。
14歳で被曝して、その時61歳でしたから。

聞き手:そしてその後ですね、外国へ毎年のようにお出かけになるようになるんですが、このきっかけは?

橋爪:
まだ帰って来ましたら、やっぱり主婦ですから、海外に行こうなんてチャンスもなかったです。
その2年後にまたまたチャンスが訪れて、
「シルバー英語研修でニュージーランドへ行きませんか?」っていうお誘いがあって、
すぐそれにまた応募して2週間ニュージーランドに行きました。
そこからが始まりですね、海外で話すようになったのは。


聞き手:それからでももう、17〜8年経ちますよね。

橋爪:そうですね。
1年に多い時で3回。
たとえばヨーロッパに行くと、ヨーロッパは周りに国が沢山あって、
せっかく行ったんだからその近隣のところをまわろうと思って、
一回に3カ国ぐらい回りりますね、自分が歩いてユースホステルに泊りながら、リュック背負って。
そうすると1年に8カ国から9カ国歩く年がありましたね。

最初はニュージーランドのお友達が、私が書いたエッセーみたいなものを英訳して下さって、
それを、そうですね、A4に20枚ぐらいの英文なんですけど、
それを10部から20部コピーしてリュックに詰めて行くと結構重いんですね。
で、それを配って、向こうで日本人だっていう事が分かるから、
向こうの方って不思議に生まれたところを聞くんです。
「広島」って言いますと、みんなパッと顔が変わって、
もっと聞きたいけど私の英語が出来ないって事で、差し上げていたら、
あっという間にその20部は無くなりましたので、
帰って来てからハガキ大のブックレットを作りまして、それに刷って、
それからは100冊ぐらいは持って歩けますから、
そして自分で「海外反核平和ひとり行脚(あんぎゃ)」って自分の中で、
「種蒔きの旅」って言って、それをこう蒔きながら歩いて、
それが結構本当に種が育ってね、あちこちから今度は呼んで下さるようになりました。
「話して欲しいと」


聞き手:ご招待があるようになった。

橋爪:
招待といってもね、旅費は私が安いチケットを買って、
それから向こうの滞在費は向こうが持って下さいます。
フランスは、これは最近、5〜6年前から呼んで下さるのはチケットも送って下さいます。

反応は大きいですね。
向こうの人達は、みんな良く原爆の事に関心を持っていて、勉強もしてたり、
いつも日本に帰ってきて思うんですけど、
日本人っていうのは広島・長崎知っていますね、原爆のこともね。
「知っているつもりで知らないのは日本だな」っと私は痛感しながらここ10数年海外を歩きました。

特にニュージーランドは反核の国で、
一応先進国ですけれども、原発も一基もありません。
それから人間らしい生活。
夜は暗いものですね、必要最低限の街灯もあります、家の中もありますけれども、
日本みたいにコンビニで四六時中やっている、そういうこともないです。
大体5時か5時半に閉まります。


聞き手:
エコライフというか、省エネの生活が、
市民、国民全体に浸み渡っているんですね。

橋爪:
そんなもんだと思った生き方をしていますから、
原発がなくても十分、誰も不満を持たないでやってきてますよね。
だからとても強く惹かれまして、
自然も美しいし、そういう生活をしてるせいか国民性も非常に温かい、優しいですね。

それと、ニュージーランドに常に毎年行くようになったのは、
今は広島・長崎って言っていますけれども、ヒロシマデ―って8月6日に毎年やっていて、
灯篭流しをやっている。
それを知ったので「えぇっ、こんなところで灯篭流し!?」って、こんな遠いところでと思って、
それに参加したことから、ニュージーランドへ毎年行きます。

で、その時、灯篭流しをするようになったきっかけのことをちょっと聞いたんですけれども、
広島を流れている太田川は太平洋に注いでいる。
クライストチャーチ、この間地震があったところですけど、
クライストチャーチを流れているエイボン川も太平洋に注ぐ。
同じ太平洋に注ぐ川を持つ私たちは広島と同じ思いで反核を訴えようという事が趣旨だって聞いたので、
それにひどく感動しましてね、行くようになりました。

そしてヒロシマデ―に私が行く事を知った友達がまたいろんな情報を教えてくれて、
世界のあちこちでヒロシマデ―ってやっているんですね、
それを今度尋ね歩こうかなと思って、
行ったところは一年に一回って限られているんですけど、
フィンランド、ヘルシンキに行きました。
それからスウェーデンの灯篭流し。
それからカナダの灯篭流し。
今は広島・長崎デーにいずれもなっていますけれど、
最初はヒロシマデ―でしたね、どこもね。


2100
聞き手:
そして、そうした灯篭流しもあって、それこそ北欧からカナダ、いろんな国へいらしてるんですけど、
そういったところで公演されたその反応をいくつか具体例を。

橋爪:
どこでも出る質問、それは大人も子供も同じで単純な事ですけど、
「アメリカ人を憎んでいますか?憎くないですか?」ということがほとんどのところで出ますね。

聞き手:それに対してどう答えられるんですか?

橋爪:
私は、「人間はね、憎みません」って。
たとえばアメリカ人でも、あなた達スウェーデン人、フランス人、日本人でも、
みんな人間は同じだから人間を憎む事はないんですけれども、
「アメリカが原爆を人間の上に落としたっていう事に対しては、私は許せません」って言いました。

そしたら、その同じ子がね、
私が「憎しみは人間に対してもたない」って言った時に、
「報復を考えた事がありますか?」って言いました。
だから、「憎しみとか報復があるところに平和は来ないでしょ」と答えました。

また、同じような質問をフランスの大人の方から、女性ですけど、
それはおととしの秋だったと思うんですけれども、
「あれから63年経ちますけれども、あなたは今もアメリカに謝罪してほしいですか?保証してほしいですか?」
っていう質問をもらったんです。
その時に私は、私たちね、被爆者に対してじゃなくて、
「原爆を人間に落としたという事は、人類史上始まって以来の最大の罪悪だ」って私は思いますから、
「全人類に対して謝罪するのがアメリカの良心じゃないんでしょうか」って答えたんですけれども、
そういう気持ちですから、憎むとか、許す許せないっていう事じゃないところにいるような気がしますね。


聞き手:
先ほどニュージーランドのお話をしていただきましたけれども、
このニュージーランドでは特別な出会いがあったようですね。

橋爪:
そうですね、最初にヒロシマデーがあるっていう事を知ったのがスコットランド。
エジンバラから2年経って、またシニア英会話で2週間行きましたね、それがクライストチャーチでした。
その時に学校に事務員の方が、日本人の事務員のがいらして、
その方がこちらにいらして、「一番感動した本なの」って日本語になっている短編小説を下さったんですね。
それを読んでビックリしたのが、
ヒロシマデ―の事が書いてあって、クライストチャーチでやっているというのでね、
どうしてもその作家に会いたくなりまして、エルシー・ロックっていう人なんですね。
彼女は、ヒロシマデ―を始めた発起人の中に1人なんですけれども、
是非会いたいということで行きましたら、
「あなたはね、話さなきゃいけない」
で、私が詩を書いている事を知っていましたから、
「書かなければいけない」
それは
原爆は広島だけの事ではない。日本だけの事でもない。
現在の世界と、またそれだけでもなく未来の地球のことでしょ。
で、私たちは被爆者のひとりずつの言葉を寄せ集めて、でしか知ることができません。
あなたは話さなきゃいけない。書かなきゃいけない。
その時の彼女の、小柄な方です、私と同じくらいの背丈で小柄な方ですけど、
目が本当にね、こう射るような目をして私をね、見てお話をなさったときに、

私は初めて、なんていうんですか自分の、言葉にすれば「使命感」でしょうか、
2年前にスコットランドで
「被ばくしちゃったってこういう事だったのか」と思ってそのままだったけれど、
「それを、私がしなきゃいけない事があったんだ」と思って、
「そのために、あるいは生かされているのかな」と思って、
その言葉がきっかけで、それからニュージーランドに行って、
日本に帰ると生活も忙しくて辛いですから、病気を持ってて、
で、また行って、彼女エルシー・ロックに会うとね、また励まされて、
会った時必ず最初に言う事は「書いてますか、話してますか」
別れる時に「書かなきゃいけません、話さなきゃいけません」それなんですね。
それで励まされて、ずっと。

私は家事に明け暮れていましたね。
そして私が詩を作り始めたのは、きっかけは
子どもたち、男の子3人が多分3歳6歳9歳だったと思うんですけど、
お医者さんから、あなたはね、「あと半年の命かもしれません」
「あと半年ですね」って言われた時に、
もう死ぬのは、何回か死に直面していますから、もう自然に受け入れる以外にないですから、

ただ子どもたちが幼いですから、
この子たちが母親がいなくて、父親が仕事人間だと、
とっても生きて行くのが辛くてさみしい思いをするだろうなと思って、
「何か残そう」と思って、
童謡をひとつ作れないかな、
その童謡を作って、彼らが苦しい時にその童謡を口ずさんで、
お母さんが「生きるのよ」って励ましてくれていると思ってくれればいいなと思って、詩を作りはじめて、
で、10年、この前のメッセージの詩を書いていたんですけど、家事の合間で。

10年経ったので、私も生きていたので、
一応子どもへのメッセージの詩をまとめようかなと思って、
まとめている、そういう作業をしている時に、ちょうど次男が16歳になっていました。
鎌倉に住んでいましたから、横須賀に米軍の基地ですね、
核搭載疑惑の潜水艦が入港するということで「反対の座り込みに行く」って言ったんですね、次男が。

もともと私たちは東京に住んでいたんですけど、
次男がずっと喘息持ちで、それで、気候温暖な鎌倉に行ったんですね。
で、「座り込みに行く」って言った時に、ずっと喘息が治らなかったんですね。
前の晩も発作を起こして寝ていませんので、
私が止めました、息子を。
「あなたが行って、おまわりさんに引きずり戻されて、また義憤を感じて行く。
それを繰り返しているうちに、あなたもうね、悪くいったら命が無くなるかもしれない。
今は、自分に出来ること。
たとえばおこずかいからちょっと募金をするとか、署名するとか、
後は健康になる事に専念したらどうかしら。
20年経って、あなたが26歳。
大人になってやはり反核とか平和をね、訴えるんだったら、お母さんは全力で応援するから」って言いました。

おとなしい子なんですけど、
鼻と鼻をくっつけるほどに私にこう迫ってきて、
両方の握り拳をぐっと握りしめて、
涙を手放しでボロボロ流しながら、
「お母さんは被爆者で平和を求めているのになにもしないじゃない。
家事が大変なのはわかるけれども、新聞の投書とか何か出来るでしょ」ってなじりました。

で、彼が寝た後で、「私になにが出来るのかな」って思っても、何も考え付かないんですね。
それで、やりかけていた10年間の子どもへのメッセージの詩をまとめるために、
鉛筆を持って紙に向かったら、
原爆の6日の夜、火の中で飯田さんと過ごした、火の粉を浴びながら。
あの夜の事が詩になって出てきました。

出来上がったのが明け方ですけど、
それを、息子のお弁当を作って入れてあげたんですね。

息子は学校から帰って、「お母さん、わかったよ」って言いましたけど、
非常に不思議なんですけど、それを書いた途端にね、
それまでずーーっと背中に重いものを背負って生きてきたんです。
それがフッと薄れてきました。

それからは、聞かれれば原爆の話を、自分からはすすんでしません。
聞かれれば話すようになりましたし、
原爆の詩も少しずつ書けるようになって、
さっき読んだ詩もそれから、書けるようになってから書いた詩ですね。

聞き手:あぁ…なるほど。
それで橋爪さんはですね、先程から何度か伺っておりますけど、
原爆を受けられて以後現在に至るまで、ご体調がいろいろ悪かったと。
具体的には、どういう体調ですか?

橋爪:
一番最初の、いま思うと原爆症ですけれども、
当時は原爆症なんていう言葉も知らなかったんですけど、
7日の朝ですね、6日に被曝して7日の早朝にひどい下痢をしました。
それからずーーーっと下痢は続きました。

そして、バラック生活で、
4本柱のところからややましなバラックを建ててそこに移った頃が、20日ぐらい…、
はっきり覚えていないんですけど、日にちはね。
そこに移ってから、あの、本当に、急性原爆症と今言われている症状になりました。
高熱が出て、それから全身が、だから熱のせいもあるんでしょう。
もうガタガタに崩れるような痛み方、骨がバラバラになるように。
それから鼻血ですね、歯茎からも、口から血が。
それと、全身に斑点、紫斑が出来ました。

そんなになったら大抵の方が亡くなっているのに、また私は不思議に生き延びたんですね。
いろいろ辛かったんですけれどもね、ずっと、本当に私が知ったのは、東京に来て、
あれは60過ぎてから原爆ぶらぶら病っていうんですね、
それは非常に倦怠感、
もう体が動こうと…気持ちがいくらあっても動かなくなる倦怠感があります。
それでも生活しなければいけない。
結婚すれば子育てもありますし、


聞き手:本当に極度の倦怠感とだるさですかね、それも。

橋爪:ええ。

聞き手:
そして焼け跡の広島には病院もまともには無かったでしょうし、
そのうちにアメリカの進駐軍が来て
ABCC原爆傷害調査委員会というふうな施設は作ったと伺っていますけれども、
そこへいらしたんですね。

橋爪:
行ったというかね、ジープが着て連れて行かれたんですけど、
わたしたちはABCCと言ってたんですけどね、
そこに被爆者を連れて行って、いろんな検査をしますね、放射能の人体に及ぼす影響を。
病気をみんな持っていますけれども、治療は一切しません。
私の時は、私は一回行って、人間扱いをされなかった、その時の扱いがね。
まるで品物みたいに扱われた時に、わたし…まだ10代の少女ですけど、
「私もあなたと同じ人間ですよ」と心の中で叫んでいたんです。
非常に大きな屈辱感を覚えました。

私たちはね、噂みたいですけど、
後になったらアメリカの指令があったって聞くんですけど、
被ばく者同士はあの時、「原爆の時の話をしてもいけない」というような雰囲気をつくられたんですね。
後で知ったらプレスコードをひいて報道陣も全部シャットアウトしましたよね。


聞き手:
今は被爆者手帳というのがあって、被爆者の方は医療費が免除されるとか出来ていますけれども、
当時は全くそれが無かったんですってね、
あの、…病院に行っても普通に料金を払われるとか、


橋爪:
全部自費ですから、みんなお医者さんに行ってもお金がかかるから、そのお金が無いから行けない。
で、被爆援護法が出来たのは12年後と言いますから、
その間にね、苦しくてお医者さんに行けなくて死んだ人が沢山いると思いますね。

聞き手:
そうですよね、その12年後じゃいくら何でも遅くて、
10年も経てばひどい被ばくの方は大体もう、亡くなられた方も多いですよね。

橋爪:
だから私の家族も父も、
父は外傷はなかったんですけれども、紫斑が出たり、悪性貧血、
いろんな、ま、大腸癌だったんですけど、最後。

聞き手:
そして今も、橋爪さんはこうして被爆体験をお話になっているんですけれど、
同時にいま新たに手記をですね、前のと合わせてお書きになっているようですね。

橋爪:
10年前にある出版社が私の体験記を本にして出したくださいました。
去年それが絶版になったんですね。
それを今度はね、ふくらませて書いているんですね。
もう大分書き進んで、もう終わりに近い頃に、今年、福島が起こったんですね。


聞き手:あ、福島の大地震に伴う原発の…、

橋爪:
ええ、原発。
起こりまして、
その後余震が東京毎日ありました、一日中。
それから計画停電で。
これは書ける状態じゃなかったのと、
やっぱり福島の事故というのは、私原発の、原爆だけじゃなくて原発という言葉、
核というものに、放射能の影響をずっと受けてきましたから、

一番怖いのは「近い将来、世界のどこかで原発事故が起きるだろうな」って、
ある程度確信みたいなものが私はあったんですね。
だからその原発を訴えて歩いていました。

ところが今までは、原爆の話しはみなさん真剣に聞いて下さるけど、
原発の事はやっぱり、あんまり、そんなに強い関心がなかったんですね。
でも私の中では「これがいつか起こる」と思って、
こんなにすぐ近くに、しかも日本で起きたという事に、大きな衝撃を受けましてね、
これは原稿を持って、やっぱり広島の原点に立って最終稿を書こうと思って、
すぐ広島に行きました。

最初は1週間かせいぜい2週間と思ったんですけど、
結果的に40日滞在することになったのは、
行ったら毎日インタビューがありました。
それでインタビューが私の場合全部フランスからでした。
フランスの新聞・ラジオ・テレビ・マガジン連日あって、

聞き手:
あ、フランスは原発の大国。
原発大国ですから、それで広島の被爆者の方のご意見を聞きたいということで、
体験記などをお書きになっている橋爪さんのところに取材に来たんですね。

橋爪:
はい。
で、10年前の本がね、フランスで一回出版された事があるんです。
それを読んで来た人が最初だと思いまけれども、
私は4〜5年前からフランスに行って話す時に
原発立国だという事を行っているうちに分かってきましたから、
その原発立国のフランス人が、私のところに来たのはフランス人ばかりだったので、
これだけ関心を持つっていう事にね、私なりにある種の感動を覚えましたね。

フランス人の質問でね、一つだけあげるとしたら、
もう最後の最後の頃で、
「あなたは原爆と原発と同じものだと思いますか?」と聞きました。
だから「同じものです」と言いました。

でも原爆は戦争に兵器として人を殺すためにつくられたものです。
原発は平和利用、クリーンエネルギーとしてつくられた。全然違うじゃないですか。って言いました。

だから、つくる過程も同じですし、
それから核を燃やしてエネルギーを作る。同じだし、
放射能の被害があるというのも全く同じだから同じ事です。っていうことは、
その時にハッキリ言いましたね。


聞き手:
確かにこの原発・原爆。
かたや平和利用、かたや戦争のため。
これは全然違う、真反対とも言えますけれども、
「放射能」という意味では同じですね。

橋爪:
同じですね、全く。
原発を動かしている限り、廃棄物は常に出ますね、プルトニウムを含んで。
それがどんどん世界中に溜まって行って、それの、まだ処置の仕方も分かってませんね、世界のどの国もね。
今度は福島の原発で、あれだけのがれきが出来たじゃないですか。
あの、放射能を含んだね。
いまだにお水、海水、漏れて地上も汚してるし、
校庭の砂とかね、幼稚園の砂を削ったりすると、その砂の置き場もないわけですよ。
ほんと、私ね、どうするんだろう?と思ってね、
今、牛肉の問題ですけれども、遠いところ100kmも離れたところで、
やっぱりすごい量のね、放射能が牛の餌からも肉からも。
そんな事を思うとね、これは福島だけでも、日本だけでも、もう世界の問題ですから、
そこにこう、目を向けないと。
原子力はいったい現代の世界の未来のね、地球の問題です。
広くそこを見据えながら、だけど目の前の救援がありますね、救済。

人間が制御できないものにね、人間が手をつけたというところが誤りですけれども、
今はもうそれは、言ってもなっちゃったことは。
だからこれと、放射能と人間が、ま、人間はじめ生き物全てが、
どういうふうに共存していくかという事を、
人間がこれから放射能とともに生きるっていう事を考えていかなければいけませんね。

将来はもちろんですけれども、
先ず身近なところで次世代ですね、私たちの。
それに重いバトンをね、渡すことになってしまったっていうことが、
今ずーっと福島以来気持ちを重くしててね、書く方が進まないんですよね。

それから、原発の工場ですか、原発の施設。
そのものも、もう何年か経つと大きな廃棄物、核廃棄物に。
チェルノブイリみたいに石棺で覆っても、25年経ったらまたヒビが出てきて漏れてるっていうけど、
膨大なお金がかかるからもう一重にやる事が出来ないって言って、そんなのが…、
福島も最後は石棺にするって言っていますから、
もうセメントで埋めたからって言っても、中は燃え続けていますからね。


聞き手:閉じ込めるだけですね。

橋爪:
閉じ込めるだけですから。
いまだにチェルノブイリも25年経って、元に住民たちも戻れないし、
これはね、なにかじっとしていられない気持ちで、
広島からのメッセージみたいなものを書いたんですけど、
じゃ、それの一部を読ませていただきましょうか。
一番言いたいところなので。


地球上に生を受けているのは人間だけではありません。
人間が自らの利得のために、他の生物を犠牲にするのは不遜ではないでしょうか。
自然と調和して生きていく道を開くのが、人間の英知ではないでしょうか。
また、20世紀から21世紀に生きるわたしたちは、
長い人類史のほんのひと時を与えられているにすぎません。
先達(せんだち)から引き継ぎ未来へバトンタッチをする、
ほんのひと時を預かっているだけではないでしょうか。


ほんの一部ですけれど。
これからの大きな課題ですね。


聞き手:
どうもありがとうございました。
これからもいろいろ、橋爪さん、ますます意気盛んにご活躍頂きたいと思いますけれども、
なによりもお体を大事にして下さいまして、
さらに私どもにメッセージを頂きたいと思っております。

橋爪:ありがとうございます。

聞き手:ありがとうございました。



◆関連ブログ
「原爆体験を世界に」橋爪文〜NHKラジオ深夜便から(1)2013年03月27日
タグ:原爆 橋爪文
posted by いんちょう at 21:41| Comment(5) | 原子力
この記事へのコメント
一気に読んでしまいました。
掲載してくださり、ありがとうございました。
Posted by 福岡へ避難中 at 2013年03月29日 03:53
きーこさんと院長先生の息の合った書き起こしが完成し、こういう貴重なものを繰り返し聴いたり読めたりできるようになったということは本当に得難いことです。きーこさん、院長先生ありがとうございました!お話の後半は以前聴いておりましたが、前半の悲惨さにも、もう、声もありませんでした。思い出すのさえお辛かったでしょうによく語って下さったものです。
新版となった「少女・十四歳の原爆体験記」も、ぜひ学校の図書館に、はだしのゲンと共に置いて欲しい本ですね。私が小学校の時ですが、原爆写真集を学校図書館で見た時の衝撃は強烈でした。こういう本を今の学校でも備えてあるのでしょうか…また当時(昭和30年代)は巡回映画というのが時々学校に来て、子供たちはこれが楽しみで講堂で暗幕を引いて全員で観たものですが、その中で原爆症の人たちへの差別を題材とした映画が記憶に残っています。子供は真実をちゃんと理解し心の何処かに長く深くとどめるこのができるものだ、と私は思うのです。先日、原爆資料館の被曝した人たちの人形を子供たちが怖がるとクレームがあるので取り外す、というニュースがあり呆れ果てました。怖がる、というのは展示の言わんとするところをわかっている、ということではないですか。なんで外す必要がありましょうか。後ろに何かあるのでしょうか?
Posted by タナトリル at 2013年03月29日 14:02
もし、まだ幼い子どもが、母である自分を亡くしたら・・
いま、そしてこれからも、被曝に危機感をもっているお母さんたちの心に、きっとずっとずっと、あり続ける想いです。
想像もできないほどの極限状態を生きぬかれた女性の姿に、力をいただきました。ありがとうございました。
Posted by 関東からの避難ママ at 2013年03月29日 22:37
下記、何が何でも原発大好きの、
読売系が言うので、
本当かどうか、疑念が残ります。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130330-00000003-nnn-pol
より、ニュートラルな医学系組織に、
死因に関して、
再調査した方がいいような気がします。
Posted by ちゃまいえ at 2013年03月30日 10:00
呆然とするような、原爆の日のこと。どんなにか苦しまれたかと思います。

ノーモア、広島長崎
だったはずなのに。

私も、自分ができることを、探し、やっていきます。

学ばせていただき、ありがとうございました。
Posted by 紅 at 2013年07月15日 00:21
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