2013年04月15日

あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいく-広島todayから

 昨日、バーチェット記者の広島todayから、原爆症の部分を記述いたしました。
本日、配信された記事そのものを紹介いただき、読んでみましたところ、英文で配信された記事そのものを紹介していないことに気がつきましたので、こちらで紹介させていいただきます。原爆投下1ヶ月後にこのような詳細な、しかも内部被曝の被害を十二分に含んでいる記事が発表されているにもかかわらず、事実上封印されていることに、心底恐ろしさを覚えます。

まず、原文
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以下、広島today p.47から
爆心地でタイプをたたく
私たちは、トーマス・ファレル准将が破壊し損害を与えたと誇らしげに発表した、六万八千もの建物の粉々になった瓦礁の聞を通って、八階建てだった福屋デパートの焼け跡に向かって歩いた。その三階に市警察の生存者たちが響祭本部を設置していた。彼らは私にひどく敵意を示し、中村さんが私の強い願いを説明した時のその場の空気は、ひどく緊張したものだった。中村さんが説明すればするほど、その緊迫感は増していった。警官の聞から怒鳴り声が上がり、私がたまに何か言うことを伝える時の通訳の女性の顔は青ざめてきた。中村さんがその時の事態を説明してくれたのは、それから三十五年後の東京の共同通信社においてであった。警官のほとんどが私たち三人を射殺することに賛成したが、最後に、他の警官たちより身分の高かった、当時恐れられていた思想統制警察の長〈特高課長H訳注〉が、中村さんと私の説明を聞き入れてくれたのだった。彼は明らかに私をアメリカ人だと思って「彼に、彼の国民がわれわれにしたことを見せてやりなさい」と言った。彼は瓦礁と廃撞の中を通って逓信病院へつれていくように警察の車の手配までしてくれた。当時、市内には原爆被害者に対し十分な救護をほどこすことができる病院は二つだけであり、その一つが逓信病院であった(一九八〇年五月に会った時には老いてますます元気に見えた中村さんも、その二カ月後に亡くなられた。原爆とその余波の中を生き残り、そして突然、はっきりとした理由もなく亡くなられたのである)。
私の印象については、当時、デイリー・エクスプレス紙上に発表された私の記事をそのまま紹介するのが一番だと思う。その記事は、爆心地で粉々になることをまぬかれた大きな石に腰をおろし、使い古したベイビ−・へルメスをたたいて書いたものである。私はまたいつ報告できるかもわからなかったので、その記事にできる限りたくさんのことを詰めこんだ。実際、帰りの道中に何が待ちうけているのかも分からなかったのである。記事の送稿中におけるいくらかの混乱と、また少しの挿入−これは明らかに科学部長の手によるものであったが−はあるが、内容はかなり原文に忠実である。私の原文のカーボンコピーは、東京で私のカメラといっしょに消えてしまったので、次の文章以外に記録が残っていないのである。

広島レポート
「広島で、初の原爆がその街を破壊し世界に衝撃を与えた三十日後、人びとは次々に奇怪な死に方をして亡くなっていく。あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいくのである。
 広島は爆撃を受けた街というより、巨大なスチーム・ローラーがその上をとおり、影も形もなく押しつぶしていったように見える。私はこのような事実を、できるだけ冷静に、世界に対するひとつの警告となることを願って、書こうと思う。
この原爆の最初の実験が行なわれた地で、私は四年に及ぶ戦争の中でも最も恐ろしい、驚くべき荒廃を見た。それに比べたら急襲された大平洋上のひとつの島などエデンの園のように見える。その損傷はカメラが写し出せる限界をはるかに越えてすさまじいものである。
 広島につくと周囲二十〜三十平万マイルを一望でき、建物がほとんど見あたらない、このような人の手による破緩行為を自にすると、胃のあたりに何ともいえない空虚感を覚える。
消え失せた街の中心部にある、臨時の警察本部として使用されていた掘っ立て小屋へ向かった。その建物から南の方を見るとおよそ三マイルに及んで赤味がかった瓦礁が続くのが見わたせる。原爆投下のあとに残ったものといえば、たった数十ブロックの区画内の建物、家屋、工場そして人びとであった。
 約二十本の工場の煙突のほか立っているものは何もない−煙突だけで工場はないが−。内部を破壊された六つのピル群があり、そしてもうあとは何もなかった。
 広島警察の幹部は、私を、広島にたどりついた設初の連合国公認の記者として、歓迎してくれた(原文のまま/)。彼は私を日本の主要通信社である同盟の地元支局長とともに市内を車で通りぬけ、というより街の上を走って、原爆犠牲者たちが治療をうけている病院へと案内してくれた。
 これらの病院で私は、原爆が落ちた時には負傷もなかったのに、今になって、わけのわからない後障害のために死んでゆく人びとを見た。
 これといった理由もなしに健康が衰えはじめ、食欲を失ない、髪の毛は脱け落ち、体に青みをおびた斑点が現われ、耳から、口から、鼻から、出血が始まるという。
  医師たちははじめ、単なる衰弱だと思ったそうだ。そしてビタミン注射を打ったところそれはひどい結果に終わった。注射器の針があけた穴からどんどん肉が腐り始めたのである。そしてその注射を受けた犠牲者はすべて死んだと言う。
 これが、人聞が初めて落とした原子爆弾というものの後障害の一例
であり、私はもうこれ以上他の例を見たくはない。
 私は、今まで嘆いだことのない何か異様な悪臭を嘆ぎつけた。硫黄に似ていたが、同じではない。まだくすぶっている火のそばや死体が発見され続けている焼跡を通ると、その臭いが鼻をついた。しかし、手をつけられていない場所からも臭っていた。
 その臭いはウラニウム原子の分裂による放射能のしみこんだ土から発生する有毒ガスのせいだと信じられている。
 そのために、広島の人びとは口と鼻とにガーゼのマスクをあてて、かつて自慢していた街の荒涼とした廃極を歩くのである。それは決して物理的な助けとはならないであろう。が、精神的助けにはなっているのである。
 この破壊が広島の上にもたらされた瞬間から、生き残った人びとは白人を憎んだ。それは、原爆それ自体を恐れるのとほとんど同様の激しさの憎悪である。
 死者は五万三千人と数えられた。他に三万人は行方不明とされているがこれは確実に死を認味する。爆発で重傷を負った一万三千人のうち百人が私が広島に着いたその日に死んだ。一日に百人の割で、彼らは息をひきとっている。そしておそらく皆、遅かれ早かれ死んでゆくのであろう。軽傷を受けた者は四万人であった。
 ひとつの悲劇的な誤ちさえなければ、こんなに高い死傷者数を出さなくてすんだのかもしれない。当局は、それを、またB−29の空襲がきたと思ったのである。その飛行機は、目標の上を飛び、爆発地点めがけて爆弾をつけたパラシュートを落とした。その米軍機は飛び去り見えなくなった。警報解除のサイレンが鳴り広島市民は防空壕から出てきた。そのほんの一分後に、落とされた爆弾は、爆発すベく定められた標高二千フィート地点に達した。そしてその瞬間ほとんどの広島市民が、通りに出ていたのである」

削られた現場描写
(この部分が、中村さんが私に話し、そして私が原文に書き入れたものと全く違っている。中村さんが伝達してくれた際に、引用されたくない彼の報告をけずってしまったのだと考えられる。彼はこう話してくれた。「われわれは朝早く空襲警報を聞いた。しかし、航空機が六機現われただけだったので偵察機だと思い、誰もそれほど気にとめなかった。警報解除のサイレンが響き、ほとんどの人びとは職場へと出かけた。そして八時二十分、一機だけが戻ってきた。稲妻のような、目もくらぬばかりの閃光が走った時、私はちょうど事務所に向かって自転車をこいでいた。その光と同時に、顔面に、焼けつくような熱と、たつまきのような一陣の風を感じた。私は地面に打ち倒され、まわりの家は崩れた。その時、まるで強力な爆弾がすぐ近くで破裂したような、どうっと盟国く爆発音がした。見上げると、途方もなく大きなパラシュートのような形をした黒煙の柱が見えた。それは上空へ吹きあげられていて、中央に、緋色の線のようなものが走っていた。その緋色の核は、吹きあげている煙すべてを赤くしてしまうまで広がっていった。広島が見えなくなり、われわれがまだ経験したことのない何か新しい事が起こったことに気づいた。私は警察や消防隊に電話をして何が起こったのかを聞こうとしたが、交換台を呼び出すことさえ不可能だった」。経験者によるこの貴重な現場描写が、エクスプレス紙の紙上にはひとつも載せられなかったのである。)
 発表された新聞記事は次のように続くーーー。
「何千何百というおびただしい数の死体がその爆弾によるひどい熱のために焼かれ、男女の区別も若者か老人かの区別さえつけられなかった。
 爆発の中心地近くにいた数千の人びとは跡形もなく消えてしまった。爆発の熱があまりにも高く、焼かれたと同時に灰に化したのだと説明されている−灰さえも残つてはいないが。
 広島に残されているものを見れば、ロンドンは爆弾にやられたとは思えないくらいだろ。
 かつて壮大な建物だった城跡は高さ三フィートに及ぶ瓦磯の山と一画の壁だけになってしまった。屋根や床その他のものすべてがちりと化した・・・
 
私が書けなかったこと
ここで幾つかの段落が、同紙の科学部長によって、明らかに挿入されている。その部分は私には書くことのできなかったであろうことである。それは次のように言っている。「ほとんどすべての日本人科学者が、すぐる三週間のあいだに広島を訪れた」。実際には私が到着する一日前に、最初の二人の科学者が訪れていただけであり、私が逓信病院を訪ねていた時に彼らは一回目の会議を聞いたのであった。さらに、私が行かず、したがってそれについては書かなかった長崎についてもふれていた。そして医師たちが被爆者たちの病気は「放射能によるもの」だと信じているとも書かれていた。実際には医師たちは、自分たちが対処しようとしている病気について、はっきりした見解はもっていなかったのである。
 私の報告がいくつか不正確に扱われたり、抜け落ちた部分があったりしたことは、アーサー・クリスチャンセンの自伝「サーヴィング・マイ・タイム」によって間接的に説明される。彼は長いあいだエクスプレス紙の信望ある編集者であった。アlサlは彼の自伝の中で、広島の「特ダネ」について書いた部分で、「かわいそうなピーター」(パlチェット)は、あまりの悲惨に圧倒されていたので、その記事の編集に自分が手を加えなければならなかったと述べている。科学部長であった彼は明らかに、彼の原子力問題における博識を示したかったのであろうが、それを私の名を貸りてするとは非倫理的なことだった。
 原子放射線による医学上の影響に関しての私の唯一の情報源は、逓信病院の副院長兼外科部長であった勝部玄医師と彼の病院の患者たちの身体の状態であった。勝部医師は中村さん同様信頼に値する人物であった。彼は自ら危険を冒して私をいくつかの病院に案内してくれ、放射線症−彼はそう呼ばなかったが−の症状と人体に及ぼす影響についての彼の説明は時の試練に耐えてきている。彼の診断はさらに驚くべきものだった、なぜなら、準拠すべき医学上の先例がなく、またその病院は設備もなく、顕微鏡さえもないまま放っておかれていたのだからら。あらゆる物が爆風とそれに続く火災による大惨事によって破壊されてしまったのである。
 
勝部医師の忠告と訴え
 エクスプレス紙の報告の中で言及した「白人に対する憎悪」は、私が訪れたいくつかの病室で、患者たちやその家族たちの反応から感じ取ったものである。患者たちは、たたみ(沼地の草で編まれた寝るための敷物〉の上に壁に頭を向けて寝かされ、家族たちが患者のまわりにひざまづいていた(日本では、家族の誰かが患者に付添って世話をするのが習慣になってはいる。しかしこの場合は、家族が食事の世話ができ、包帯をとり替え、患者たちの体を清潔に保つこと、食事の世話をすることなど最低限必要な看護にたずさわることができる場合に限り、入院が許可された。広島市の看護婦の九三パーセントがあの爆発が起きた最初の数秒のうちに殺されるかあるいは看護婦として働くことのできない身体にされてしまったからである)。私は自分のこの目でこの悲惨な光景を見なければならなかった。化膿している第三度の火傷を、出血している日を、歯ぐきを、そして、ほとんどの患者の頭のまわりに黒い光輸のように抜け落ちた髪の毛を見なければならなかったのである。このような犠牲者たちとその家族たちが私を燃えるような憎悪をもって見たのであり、その憎しみは私をナイフのように突き刺した。勝部医師はその時、「帰りなさい、これ以上ここにいるのなら、私はあなたの命に責任が持てません」と私に英語で話しかけた。こうして私の病院訪問と、そして勝部医師との最初の出会いは終わったのである。通りをゆく広島の人びとはほとんど、何事に対しても関心を示すこともなく、依然として精神的ショックからぬけ出せないでいた。人びとは一人でか、または二、三人連れだって歩いていた。立ちどまって誰かに話しかけるような人はいなかった。ガーゼのマスクをしていない、しかも一人の外国人を含む私たちの一団さえも、彼らの注意をひきはしなかった。
 勝部医師が最後に私に「どうぞ、あなたの見たことを報告し、あなたの国の人びとに−彼は当然のように私をアメリカ人だと思っていた−この病気に詳しい専門家を何人か送ってくれるように、そして彼らに治療に必要な薬を持たせてくれるように頼んで下さい。さもなければ、この人びとは皆、死ぬ運命にあるのです」と言った。
 省略、書き換え、挿入における誤りはあったが、「世界への警告」という見出しを採用してくれ、また私がどうしても発表したかった不可欠の部分をそのままにしてくれたことに対し、私はアーサー・クリスチャンセンを大いに評価している。第二次世界大戦は今や確かに終わり、広島や長崎で実証されたような戦争に勝てる武器を独占しているということで、西側が病的ともいえる幸福感にひたっていた時に、英国一の発行部数を誇る日刊紙の編集者が、このような警告をもって、その幸福感に水をさそうとするのは、容易なことではなかったからである


この記事の中に出てくる逓信病院の院長の書き残したヒロシマ日記は、現在も簡単に入手することができます。


 この本は、原爆直後で何もわからなかった蜂谷道彦医師が手探りで原爆症の症状を見いだすことが克明に書かれています。解剖所見なども含まれており大変重要な本の一つです。

フクシマでも高汚染された遺体がたくさん見つかっています。


20キロ圏に数百〜千の遺体か 「死亡後に被ばくの疑い」
 福島第1原発事故で、政府が避難指示を出している原発から約20キロの圏内に、東日本大震災で亡くなった人の遺体が数百〜千体あると推定されることが31日、警察当局への取材で分かった。27日には、原発から約5キロの福島県大熊町で見つかった遺体から高い放射線量を測定しており、警察関係者は「死亡後に放射性物質を浴びて被ばくした遺体もある」と指摘。警察当局は警察官が二次被ばくせずに遺体を収容する方法などの検討を始めた。当初は20キロ圏外に遺体を移して検視することも念頭に置いていたが、見直しを迫られそうだ。

 警察当局によると、高線量の放射線を浴びた遺体を収容する際、作業する部隊の隊員が二次被ばくする可能性がある。収容先となる遺体安置所などでも検視する警察官や医師、訪問する遺族らに被ばくの恐れが生じる。

 遺体は最終的に遺族か各市町村に引き渡すことになるが、火葬すると放射性物質を含んだ煙が拡散する恐れがあり、土葬の場合も土中や周辺に広がる状況が懸念される

 警察当局は現場での除染や検視も検討しているが、関係者は「時間が経過して遺体が傷んでいるケースは、洗うことでさらに損傷が激しくなり問題だ」と指摘している。

 身元確認のため、遺体から爪だけを採取してDNA鑑定する方法もあるが、爪も除染する必要があり、かなりの手間と時間がかかるという。

 27日に、大熊町で見つかった遺体は、除染が必要な基準の一つである10万cpm(cpmは放射線量の単位)まで計ることができる測量計の針が、振り切れる状態だったという。このため福島県警の部隊は遺体の収容を断念している。
2011/03/31 14:02 【共同通信】


一つの症例については、福島原発事故後の不審な病死(80万アクセス)として、紹介しています

◆関連ブログ
記銘力障害−ヒロシマ日記から2011年12月09日
ピカの毒−残留放射能−の真実(投下直後からプレスコードで隠蔽した米国と暴いたオーストラリア人記者)2013年04月14日
福島原発事故後の不審な病死(80万アクセス)2011年09月07日
タグ:原爆症
posted by いんちょう at 20:12| Comment(3) | 原子力
この記事へのコメント
広島の平和記念資料館の展示物やパネルなどの内容においてさえ、原子爆弾による一瞬の「爆発による威力」の恐ろしさを示すものに偏っているのですから、世界中の人々が「内部被曝」の問題を認識することが出来ないでいるのも当然の事なのかもしれません。本来であれば、平和記念資料館にこそ「内部被曝の問題にフォーカスしたブース」をつくるべきだったのです。しかし現実の資料館は、内部被曝の問題を取り上げるどころか、逆に被爆人形を撤去しようとしています。資料館にも原子力ムラの力が働いているのでしょうか。
そういえば、広島の被爆二世の方が、中国人記者たちを資料館に案内した内容が、その方のブログに載っていました。その中で中国人記者たちは見学まえのバスの車内で「日本は原爆という罰を受け、それにより降伏が早まった」や「侵略された側の悲惨な被害を、もっと理解し反省するべきです」などと述べていましたが、見学後に中国人記者たちは原爆被害の悲惨さに衝撃を受け、その中の一人の女性記者は「世界のすべての人がここに来るべきです。平和を大事にしなければ世界が地獄になると分かるからです」と答え、原爆死没者慰霊碑に手を合わせていました。
これからの日本人は、日本からヒロシマ、ナガサキ、フクシマの真実、内部被曝の恐ろしさを世界に発信する義務を負って生きていかなくてはならないのではないかと思うのです。当然、何年か前にスミソニアン博物館でのヒロシマ原爆展が中止に追い込まれた時のように、アメリカの妨害が続くと思います。
ただ日本という国は、以前ある政治家が「日本は神の国」と変な発言をしましたが、あながち間違っていない部分もあるような気がします。なぜなら日本という国は昔から様々な変な(意味ありげな)偶然が起きてきた国だからです。例えば菅原道真左遷と宮中の落雷や、元寇の神風、日露戦争や伊藤博文暗殺と易占いの関係、広島城を築城した毛利輝元は郡山城主で、輝元の次の広島城主は「フクシマ マサノリ」ではありませんか。ヒロシマとフクシマは昔から繋がっていたのかも知れません。
日本から核、放射能、内部被曝の恐ろしさを広げるためには、まず日本人がそれをよく認識しなくてはならないのです。「食べて応援」などしている場合ではありません。

・「広島の視線」(ブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/23253645.html

・郡山城跡
http://www.akitakata.jp/site/page/kyouiku/syougaigakusyu/cultural_asset/siseki_kuni/kouriyamajyouseki/
Posted by 肝澤幅一 at 2013年04月16日 00:08
こんばんは。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/74352
神名川県の黒岩知事から、「風しん非常事態」宣言があった。これは県内の風しんによる患者の累積報告数が503件に上ったことから宣言されたもので、昨年の同時期の5件と比べて約100倍

という事ですが、どう考えてもおかしいでしょう。
というか、放射能汚染がひどい神名川県ですからそちらの方向を心配しないといけないのに、こいつアホでしょう。

たった2年でこの状況ですから、逃げないとだめでしょう。
Posted by 大庭孝広 at 2013年04月16日 21:00
放射能という言葉自体が日本語でしか使われないんじゃないか。放射線や放射性物質とは言わずに混同させている。放射性物質汚染とか言ったほうがいいだろう。

http://quasimoto.exblog.jp/14800961

そもそもこれ、今にはじまったことじゃなく2年も前に言われとるやん、上記ブログにも書いてある。そもそも2年もあってなんで誰も物理学を学ばないのかと。そもそも想定される反論まで想定しておいて、更に理論武装してそれに対する反論も考えておくぐらいの準備は必須。それに対する反論、、といくつか続けて考えて理論武装しておくとなおよい。これが理解力の強化にも繋がる。とくにこういう物理方面の理論武装が脆弱だというのもある。当然ここらも抑える必要がある。

そもそも放射線を照射したとき何が起こるか知らない連中が多すぎる。放射線汚染とか言っている連中もいまだにおるし。というわけで、簡単な解説でも作ってみた。本当は図解でやりたいんだが、当方良い作図ソフトがないのでなかなか難しい。可能ならぜひやってほしい。

放射線だけを照射した場合、まず分子が破壊される危険性はある。場合によっては放射性物質変化することもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/誘導放射能

放射性物質に変化するってのがこの誘導放射能っていうわけ。初期の原子物理学ではアルファ線をあてて元素変換をやっていたこともあるが、誘導放射能は主に中性子線でおこり、アルファ線や陽子線などでも若干起こるかもしれない(具体例があると説得力が増す)。核同士や核子がぶつかると反応が起こることもあってその結果誘導放射能をもつ事もある。

誘導放射能を持たなくても分子を破壊する。とくに有機分子とか、ちょっと構造が変わるだけで性質が著しく変化することもあるからな。電子レンジも「非電離放射線」で、電離までは起こさなくても分子構造が変わるぐらいは起こる。本来そうやってできた分子一個一個を精密に検査できれば決着が着くんだが、現代の科学ではそこまでの分析は難しい。GM食品とかも同じで胃酸で99%分解できるから安全とかいうことに表向きにはなっているが、全て完璧に生成された分子を一個ずつ調べられないようになっている。

で、放射性物質っていうのは核そのものから放射線がでてくる物質なわけ。核自体は普通の物質の中にある。核をつくっている核子の比率がかわると放射性物質になったりならなかったりするが、どう変われば変化するのかということは完璧に理解されていない(大統一理論というのでわかるのだが未完成で、核の中身の理論は未完ということになっている)。この核が放射線を出してくるものに変わったのが放射性物質。これは普通の物質と見た目は変わらないし、1グラムにすら満たなくても何万、何億ベクレルもある。質量と放射能の定量的直感が無い連中も多すぎるが、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD#.E6.AF.94.E6.94.BE.E5.B0.84.E8.83.BD.E3.81.AE.E4.B8.80.E8.A6.A7

ここに一覧表があるのでどのぐらい、あるのか実感してもらえればとおもう(これも無味乾燥な数表ではなく図解や具体的なものとの比較があると馴染みやすいんじゃないか、表は表で大切だろうが)。

1グラムにすら満たない目に見えないぐらい(重さ換算で)微量な物質がついている、というのが放射性物質汚染の実態だ。ポイントは重量換算で極めて微量だということだ。庭の土や川の水の中にも砂金はあるかもしれないが、そういうものから金塊を作るのは難しいってのは誰でもわかるとおもう。

資源っていうのは地球に埋まってるんだが、鉱山とかにまとまって存在していれば使いやすいが、そうじゃないとまとめあげるほうが難しい、そっちのほうが金や労力に見合わないということもある。しかも放射性物質は放射線を出してくる。同量の化学物質汚染とかなら、まだ小さいロボットとかで除去できるかもしれないが、放射性物質の場合小さいロボットも放射線で破壊されるだろうからそれすら難しい。そもそも(重量換算で)微量の物質、それこそ分子一個一個がどのぐらいあるのか調べたり、それだけ分離するという技術を人類は持っていない。

こういうものであるから移動することだってあるし、移るわけだよ。移るっていうと細菌やウィルスのように思っているが日本人は科学リテラシーが低すぎて判断ができないレベルになっている。だから感情で反論する。日本人全体としてのレベルまで考慮にいれてある。こういう思想戦まで考慮に入れてどう情報を伝達するかも理論武装する必要ある。敵はそこまで考えてやっている。歴史をあげればきりがないが魔女狩りや阿片戦争までやった連中だよ?魔法や阿片を放射性物質に置き換えて、もし敵だったらどう動くか、それに対する反論は、と考えてみることだ。敵は物理学アレルギーも当然想定内だろう。ここで物理学者の大半が御用学者であるから短絡的に物理学=悪としてこの面の理論武装を弱体化させればしめたものだろう。敵はいかにして支配のツールを活用するか考えて尽くしている。ポイントは理論武装だ。反論を考えたり敵の立場に立って考えたりする、普段からこれを心がける。批判的思考を手っ取り早く鍛えるにはこういう方法を日常生活にも応用してみることだ。

放射能蓄積についてだが、食ったときどれだけ吸収されるかデータとかはないか。Sr吸収について東海アマが攻撃されていた。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/半減期#.E4.BD.93.E5.86.85.E6.BF.83.E5.BA.A6.E3.81.AE.E6.99.82.E9.96.93.E5.A4.89.E5.8C.96.E3.81.AE.E6.95.B0.E7.90.86

蓄積の理論はこれでいいが、体内にいれてもそのまま排出されるものと吸収されるものがある。蓄積量を計算するなら、摂取量にそのまま排出されるものを除く係数をかければ通用するだろう。例えば半分は排出されるなら係数0.5。これを実質摂取量として計算するといい。まあ排出される前までにも被害はあるだろう。早野が預託線量とかいってるやつだが。生物学的半減期が長いものはそれでも数万倍は濃縮する計算になる。セシウムは百倍程度にしかならないが、ストロンチウム、プルトニウムは何万倍だ。生物学的半減期が長いものが本命。いくら生物学的半減期を論じても感心がないし、東海アマのようにたんに簡略化しすぎて「排出されない」だけでは定性的すぎるのではないか。比喩や定性的議論よりもいかに定量的に(数字のインパクトなどはプロパガンダの常套手段)。問題は重要な情報をいかにわかりやすく伝えるか、だ。それこそ小学生の子供でもわかるぐらい簡単に、それでいてむやみに簡略化しすぎずに伝える。嘘も百回結果、放射線と放射性物質の区別もできなくなってしまっている。情報伝達(予備知識なしでいかにわからせるか)というものまで抑える必要ある。
Posted by 放射線と放射性物質の違いを理解する at 2013年04月18日 03:45
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