2013年09月16日

赤ちゃんの骨でストロンチウム計測(2)−オーストラリアの人体実験

原発がないオーストラリア。しかも南半球と言うことで、あこがれている方も多いでしょう。
しかしながら、オーストラリアは英国の元植民地。やはり核汚染されていました。しかも、英米と同じように人体実験まで・・
(実際、オーストラリア東海岸でも0.2-0.4uSv/hr程度の線量があるという報告は、何人もの方から聞いています)

サンシャイン計画に関して「オーストラリア大地の友の会」が集めた記事
The Friends of the Earth Australia

(邦訳)
オーストラリア大地の友の会
死体泥簿
1957年から1978年、オーストラリアの一般庶民は、告知も同意もなく放射線実験のために家族の死体の一部を奪われていた。原子力機関および政府機関は、放射線実験のために、とくに子どもの死体を求めていた。ストロンチウム90への懸念がある中、成長する骨への潜在的な影響を見るためであった。以下、この「死体泥棒」に関する記事を集めた。

300人のお母さんへの答え
2003年5月5日 アドバタイザー誌 コリンジェームス記者
サウスオーストラリア州の300人のお母さん達が今になって初めて、自分の赤ちゃんが公立病院で亡くなってからどこに葬られていたのかを知らされた。最も古い案件は、40年前にまで遡る。
1,200人の市民が同意なしに家族の死体から臓器または骨が摘出されたとのことから、サウスウェールズ州政府は、これらの人々にカウンセリングを提供せざるを得なくなった。今回、回答を受けたのは、この1,200人のうちの300人。
社会福祉省は、公立病院が家族への告知または家族の同意なしに子どもの解剖を行い、臓器、細胞の試料および骨を摘出したという事実が発覚したことを受け、1,500の案件について公式に調査を行った。
社会福祉省の女性報道官は、300人の子どもが埋葬された場所を特定出来たことを「素晴らしい結果」と表現した。母親のほとんどは既に50代から60代で、やっと自分の赤ちゃんがどうなったかがわかったからだ。
「お母さん達は、当時の状況において、赤ちゃんに一目会うことも抱くこともできずに別れました。長年にわたって我が子はどうなったのだろうと思いめぐらしてきたのです」と女性報道官は言った。
「我々の調査の結果、お母さんがたの赤ちゃんを見つけることができたので、その場所をお伝えすることができました。いろいろな感情がないまぜになっています。とてつもない怒りや裏切られたという気持ちから、赤ちゃんが一体どうなったのかということがやっと少しでもわかったという安堵の気持ちまでが一緒くたになっています。」
多くの女性が赤ちゃんのお墓を訪ねたいと願った一方で、解剖所見、足形、写真のコピーを求めたお母さんもいた。また、婦人と子ども病院にある科学博物館に保存されている臓器を見たいと希望したお母さんもいた。

[訳注: 参考サイト
Women's and Children's Hospital

「婦人と子ども病院にある科学博物館」とは何かと検索をかけてみましたが、そのような施設は見つかりませんでした。唯一、見つかったのは、以下にリンクを貼った同病院の「オンライン麻酔博物館」でした。
Women's and Children's Online Anaesthetic Museum

以下は、この部分に直接関係があるわけではないですが、メルボルン大学医学部の医学史博物館のサイトです。興味深い写真が数多く掲載されています。
Medical History Museum]


30人の女性が、子どもの臓器または細胞の試料の返却を要求した。子どもから摘出された部分を、子どもの身体の他の部分とともに埋葬したいとの願いからだった。
他の5家族は、放射性降下物に関する国際試験の一環として燃やされた骨の灰の試料を要求した。「我々は、サウスオーストラリア州全土および他の州の方々とお話し、援助してまいりました」と、女性報道官は語った。
「これは大きなプロジェクトで、1,200人の方に電話をさしあげ、調査に関するご報告やカウンセリングを行いました。また、400人の方と面接致しました。」
「このように多くの対話を行いましたが、その内容の多くは、制度のあり方に幻滅されていた方々に信頼を取り戻して頂くためのものでした。」
臓器および細胞の試料に関する調査に対応するため、カウンセラーチームが結成されていた。女性報道官によれば、今年初め同チームを再編成し、オーストラリア政府が1957年から78年に行った秘密計画に関する問い合わせに対応してきたとのことだ。政府の秘密計画とは、イギリスがオーストラリアで行った核実験の副産物であるストロンチウム90が、オーストラリア人の死体から摘出した骨にどれくらい含まれているかを計測することである。
ストロンチウム90ホットラインは、2月に開設された。これに先立ち、主にサウスオーストラリア州の赤ちゃん、幼児、児童および13才から19才の若者の900の灰の試料がアデレードに返却された。
死体から摘出された3,058本の骨が、メルボルンに送られ、高温の炉で焼かれて灰にされた。そして、その灰を用いて放射能汚染についての分析が行われた。3,058本の骨の灰のうち、この900の灰の試料だけが残されていたのだった。
女性報道官は、ストロンチウム90ホットラインへの問い合わせ件数は、予期していたほど多くはなかったと述べた。192人が電話をかけてきて、オーストラリア放射線防護 原子力安全庁のデータベースに親族が載せられているかどうかを調べて欲しいと要望したとのことである。
「そのうち35人のご家族がデータベースに載っていることがわかりましたので、調査結果のご報告やカウンセリングをご提供しています」と、女性報道官は語った。

冷戦下の骨をめぐる争い
2001年6月10日 エイジ紙 ポール ヘインリヒ記者、スティーブ ドウ記者
1955年1月18日のことだった。冷戦は、本当に冷たいものだった。それなのに、太平洋では、あらゆるものが熱しすぎていた。

[訳注: いきなり単に「1955年1月18日のことだった」と書かれています。そして、それに続く文章や段落からも1月18日が何のことだかよくわからない書き方をされています。「1955年1月18日」とは、アメリカのワシントンでサンシャイン計画に関する会議が行われた日のことです。4段落目の「アメリカ原子力エネルギー委員会が生物物理学会議を開催したこと」を指しています。]

威力を増していた水素爆弾の大気圏内実験が行われていたが、1954年3月に行われたブラボーの実験は、はからずもマーシャル諸島に放射線を照射した。
キノコ雲が立ち上るのと呼応するかのように、世論も急な盛り上がりを見せた。
このような状況において、アメリカ原子力委員会は、生物物理学会議を開催し、極秘計画を速やかに行うことを話し合った。極秘計画の目的とは、放射性降下物の影響予測に必要とされる正確な知識を獲得することである。
この計画の成否は、赤ん坊の骨が大量に供給されるかどうかにかかっていた。放射性降下物のなかで最も危険な元素であるストロンチウム90の測定に、赤ん坊の骨が適していたからだ。
運命的な日であった。その会議の議事録の一部は、インターネット上で公開された。その日、世界中の過去、現在、未来における赤ん坊が、生きているか死んでいるかにかかわらず、影響を受ける決定がなされたのである。
その結果の一つとして、議論を呼ぶだろうが、将来における世界の恐怖を取り除くことになったと言えるかもしれない。データを取得したことが、1963年の部分的核実験禁止条約に繋がったとも言えるからだ。

[訳注: 参考サイト
部分的核実験禁止条約]


しかし、知識を獲得するために犠牲になった人々がいた。今日でも、イギリスやオーストラリアでは、苦痛に苛まれている人々がいる。ずっと昔に赤ちゃんを失って、いまだに赤ちゃんがどうなったのかわかっていないお母さん達は困惑し続けているし、その悲しみはとどまることを知らないからだ。
イギリスでは新たに公開された証拠により、赤ちゃんの死体がアメリカの研究所に運ばれていたことがわかった。オーストラリア政府も現在では、大規模な計画が行われ、1957年から78年にかけて最大で5,000体から摘出された骨が実験に使われたことを率直に認めている。
本紙による1981年の調査および1990年代半ばの再調査によれば、少なくともロイヤル子ども病院、ロイヤル婦人病院、クイーンビクトリア医療センターというメルボルンの3大公立病院が、両親の同意を必ずしも得ることなく子どもの骨の摘出に荷担していた。

[訳注: 参考サイト
The Royal Children's Hospital
The Royal Women's Hospital
Queen Victoria Medical Centre]


摘出した骨は灰にされ、アメリカとイギリスに送られて検査された。1970年代になって、ようやくオーストラリアの研究機関でも検査ができるようになったが、それまでアメリカとイギリスに送られていたのだ。
このことは、科学者の間では良く知られていたことで、検査結果は公表されて広く討論が行われてきた。しかしながら、研究には初めから後ろめたさがあった。特にアメリカではそうだった。
サンシャイン計画またはガブリエル計画として知られる研究は、ゆったりとした科学的ペースで行われていた。しかし、より早く結果を出せというプレッシャーがかかったとたん、死産児の供給が止まったかのようだった。
このような流れのなかで、サンシャイン計画立役者の1人で、シカゴ大学の著名な化学者で原子力委員会の委員であるウィラード フランク リビー氏が、サンシャイン計画の指導的立場を取るようになったのだ。
リビー博士は、1941年から45年、マンハッタン計画に参加してウランの同位体の分離方法の開発に携わっていた。1947年、リビー博士は、炭素14年代測定法を発見し、1960年にノーベル化学賞を受賞した。炭素14年代測定法とは、炭素14を使用して、以前は生命を有していた有機物の年代を測定する方法である。この方法で、最長5万年まで遡って年代を測定することができる。炭素14年代測定法に関する論文は1952年に発表された。この方法を用いることにより、紀元前1400年のエジプト新王国のファラオなどという魅力的な古代の発掘物についても、その年代を測定することができるようになった。
[訳注: 参考サイト
ウィラードリビー
Willard Libby - Time Magazine Cover
放射性炭素年代測定法]


もしリビー博士が考古学で年代を測定するような「乾いた骨」の専門家であったなら、サンシャイン計画の人骨試料を追い求める嗅覚は、「乾いた骨」を追う場合よりかなり鈍かっただろう。 しかしながら、リビー博士は「まだ乾いていない骨」についても同じかそれ以上の鋭い嗅覚を有していた。
リビー博士の発言は、会議の議事録に以下のように記録されている。「人体の試料がもっとも重要である。それゆえ、死体泥棒を巧みにやる方法を知っている人間は、自分の国家に多いに貢献するだろう。」
リビー博士は、サンシャイン計画が1953年に始まったとき、死体泥棒が問題になるであろうと予測していたと回想した。
「どうやって死体を盗めばいいのかわかりませんでした」とリビー博士は言った。「研究が始まった当初、高い報酬を要求する法律事務所を雇って死体泥棒に関する法律を調べさせました。でも、あまり乗り気になれませんでした。法律を調査したところでは、死体入手を合法的に行うのは非常に難しいということがわかったからです。」
書類によれば、死体入手計画は初めからウソに基づいて進められた。医療関係者には、収集した骨は、放射性降下物の測定ではなく、自然放射線の測定のために使われると伝えられた。
1953年、20カ国から試料を集めた世界規模の分析試験が始まったが、この分析試験は秘密にされていた。
会議での討論の結果、死体は、あまり規則がない場所から非公式な「ルート」を通じて入手することになった。コロンビア大学の J. ローレンス カルプ氏は、ヒューストンを指してこう言った。「そこには多くの貧困があるし、いろいろな問題があるし...」また、カルプ氏の大学の医学部学長が、世界中にコンタクトを持っているとも述べた。「その学長は、我々が、同様な計画を他の場所にも立ち上げられると確信しているが、そのような場所のすべてにコンタクトを持っているとのことだ。特に、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、近東、スカンジナビア諸国などにだ。」

[訳注: 参考サイト
J. Lawrence Kulp]


カルプ博士は、医学分野の人間との良好な関係を通じて、難題を克服するべきだと主張した。また、供給を確保するために、国外の収集人に対価を支払うべきだと提案した。
他に討論されたのは、機密度を下げた場合、試料の入手が容易になるであろうかということだった。しかし、18ヶ月後、子どもの乳歯の入手に関する提案が出されたとき、リビー博士は警告を発した。「計画に関して宣伝することは勧めない。これまでの経験から、人体の試料入手にあたって宣伝活動が特に有益ではないということがわかっているからだ。」
しかしながら、サンシャイン計画は、結局は公になってしまった。1956年のアメリカ大統領選の際に、民主党のアドレイ スティーブンソン候補が話題にしてしまったからだ。

[訳注: 参考サイト
アドレー スティーブンソン

Adlai Stevenson II
http://en.wikipedia.org/wiki/Adlai_Stevenson_II]


1956年10月、リビー博士は、ワシントンに新しい研究棟を開設することを話していたときにサンシャイン計画について話してしまった。そしてカルプ博士が、1957年2月発行のサイエンス誌において、世界中のネットワークから得られたデータに基づく人体におけるストロンチウム90に関する論文を発表した。そのため、1957年の5月から6月にかけて、議会で初めて聴聞会が行われ、サンシャイン計画は解散の危機に瀕した。
イギリスでは先週、新聞各紙が、病院から入手されてアメリカに送られた死体の詳細なリストを報道した。1回の貨物輸送で27の死体が送られたとのことだ。
イギリスのハーウェル原子力研究所のファイルは公開されていない。しかし、クリントン大統領のもとで行われた調査の結果が1995年にアメリカで発表され、その詳細から証拠が得られのだった。

[訳注: クリントン大統領の指示により、1994年1月に放射能人体実験に関する諮問委員会が設立されました。同委員会は、1年半かけて調査を行い、1995年10月に最終報告を行いました。]

オーストラリアの政府機関は、赤ちゃんの死体そのものが分析試験のために送られたという証拠はないと述べているが、アメリカの政府機関は、アメリカ側の記録を確認しているところである。
先週、オーストラリア放射線防護 原子力安全庁のジョン ロイ氏は、21年にわたって骨検査計画が行われ、1962年発行のサイエンス誌に初めてその計画が記されたと確認した。

[訳注: 参考サイト
Loy, John]


ロイ氏によれば、骨検査計画は、核兵器実験安全委員会の後援により行われたとのことだ。同委員会は、オーストラリアでのイギリスの核実験をめぐる安全性に関する問題を考察していた。
骨検査計画のもと、メルボルン、パース、アデレード、シドニー、ブリズベーンの病理学者が、赤ん坊を含む40歳迄の人々の骨細胞の試料を提供した。これらの試料は、灰になってから国外での分析にまわされた。
1981年、本紙は、骨検査計画について報道し、多くの病院が親の同意なく赤ちゃんから骨を摘出していたことを明らかにした。ある政府官僚は、解剖は同意なく日常的に行われていたことで、「同意は厳密に求められていたものではなかったし、必ずしも得られるものでもなかった」と説明した。
ロイヤル子ども病院の広報担当者は、長年にわたって1年当たり200体から摘出した骨を提供したと述べた。この広報担当者によれば、親または保護者から解剖の同意が得られた場合にのみ医療スタッフが細胞を採取したが、その際、医療スタッフは、細胞が必要とされる理由およびその使用法を常に説明したとのことだ。ロイヤル子ども病院は、同意を得るのに「特に問題になったことはない」としている。
しかし、10年も経つと、骨を提供していた病院は「物忘れ」をするようになった。それで、オーストラリア連邦政府は、病院がコモンウェルスX線 ラジウム研究所(後のオーストラリア放射線研究所)に提供する骨について、1年当たり100ドルから200ドルを支払うことにした。

[訳注: 参考サイト
National Library of Australia
Commonwealth X-ray and Radium Laboratory (1935 - 1972)
Australia Radiation Laboratory Melbourne]


ロイヤル婦人病院では、政府から受領した対価はまっすぐ葬儀社に支払われた。一方、シドニーにある病院では、政府からの対価は職員基金に入金されたと言われている。
ニューサウスウェールズ州の健康委員会が問い合わせたところ、骨は主に赤ちゃんから摘出され、そのことを隠蔽するためにプラスチックが挿入されたことが確認された。
キャンベラの連邦政府健康省の報道官によれば、骨検査は、環境中に蓄積されたストロンチウム90を測定するための唯一正確な方法であり、なんら後ろめたいことはないとのことだ。「道徳的または倫理的な懸念があったことは承知しておりますが、個々の病院がそれぞれのやり方で行っていたことです。」
どのように行ったのかというのは、いまだにビクトリア州の死産と新生児死亡をサポートする会の関心事である。同会の元代表のジャネット レイノルズさんは、大きな病院に尋ねる必要があると考えている。

[訳注: 参考サイト
Sands Victoria
http://www.sandsvic.org.au/]


レイノルズさんによれば、火曜日にこの問題に関する報道が始まってから、同会のボランティアメンバーは電話対応に追われているとのことだ。死産児がどうなったのか知らされなかった家族や、病院の対応に憤りを覚えた家族からの電話が殺到したためである。
レイノルズさんは、次のように語った。「私たちは、赤ちゃんを捜す旅に出たご家族とともに歩んで参りました。おそらく何人かの赤ちゃんは、外国に行ったことでしょう。
ロイヤル子ども病院の前病理部長で、現在はビクトリア州の検死官のもとで働いているピーター キャンベル氏は、死産児のことや、死産児の骨が外国に送られていたことは知らなかったと述べた。

[訳注: 参考サイト
Campbell Peter, E.]


しかし、28週未満の胎児が「廃棄物」として扱われていることは確かなことであった。
「私たちは、態度が異なる何年も前のことを話しているのです」とキャンベル医師は言った。「私は、骨検査計画に関わっていた科学者が正しかったと申しているのではありません。彼らは異なっていた、と申しているのです。胎児が無名のまま捨てられたり、葬られたのは本当のことです。確かに、処分された赤ちゃんもいました。当時、核について多くの懸念がありました。冷戦の真っ最中であったということは覚えておかねばなりません。冷戦だったということで、すべてのことが正当化されるのです。」

死体泥棒
2001年6月9日 シドニー モーニング ヘラルド紙
何千もの赤ちゃんの死体が核実験の降下物の測定のために使われた、という証拠がある。背筋が凍るような話をデボラ スミス記者がお伝えする。
1955年1月、「サンシャイン」という極秘計画に参加していた科学者の誰もが、その研究の緊急性について疑問を抱いていなかった。科学者は、ワシントンでの年次会議に集まったとき、何が最も必要なのかを知ることになった。それは、人間の死体を確実に提供してくれる供給源だった。とくに子どもの死体が必要だった。そのため、遠くはオーストラリアからも死体を入手するということだった。
1954年、アメリカ政府は、最大規模で最も劇的な核実験を行った。ソビエトの技術に追いつき追い越せという闘いにおいてアメリカは、マーシャル諸島に大量の核爆弾を落とした。サンシャイン計画は、前年の1953年に立ち上げられた。同計画の目的は、核爆発による放射性降下物が、全世界の植物、動物および人間にどのような影響を及ぼすかを調査することだった。同計画の一員が1955年の会議で端的に言い表したように、同計画は「核爆弾を使用しても人類を滅亡の危機に曝さずに済むためには、何発の核爆弾を使用することができるのか」を調べるためのものだった。
計画のリーダーは、シカゴ大学のウィラード リビー博士だった。1947年、リビー博士は、高感度のガイガーカウンターを使用して古代の物体の年代を測定する炭素年代測定法を開発した。そして、その測定法を実証するために、エジプトの墓から発掘された5千年前のものとわかっている試料の年代を測定した。この方法の発見により、リビー博士は1960年にノーベル賞を受賞した。しかしながら、1954年のマーシャル諸島での劇的な核実験のせいで、学究的な科学者の関心は、「昔亡くなった人よりも最近亡くなった人」に向けられるようになった。
1955年の秘密の科学会議でのリビー博士の発言が、同博士を語るものとして最も有名だろう。リビー博士は、会議に集まった29人の科学者に向かって、サンシャイン計画のために、世界中からより多くの人体の試料を集め、骨中放射性ストロンチウム90を測定することが最も重要である、と述べた。「死体泥棒を巧みにやる方法を知っている人間は、自分の国家に真に貢献するだろう。」
1953年には、高額の報酬を請求する法律事務所が雇われていた。サンシャイン計画チームが「死体泥棒に関する法律」について弁護士の助言を必要としていたからだった。リビー博士は、以下のように述べた。「あまり乗り気になれませんでした。弁護士の助言から、死体入手を合法的に行うのは非常に難しいとわかったからです。」リビー博士によれば、サンシャイン計画で多くの死産児が集められたことは幸運だったとのことだ。「しかしながら、この死体供給源もいまでは断ち切られていますし、回復の兆しもありません。」
会議での討論およびリビー博士が1956年に米国科学アカデミー紀要に発表した死産児に関する論文から、死産児の主な供給源はシカゴだったというものの、死産児はすべてアメリカから来ていたように思われる。しかしながら、その当時、サンシャイン計画チームは、人骨についても検査していた。「通常、肋骨や背骨や足の骨でした。」それらの骨は、イギリス、日本、インド、チリ、ブラジルから来たものだという。
測定試験を行う研究所は、当時、技術を磨いている途中であり、1955年の会議に参加した科学者が測定した測定値にはばらつきがあった。科学者は、各人が測定した人骨中のストロンチウムの測定値を互いに付き合わせて詳細な比較検討を行っていた。また、科学者は、各人が測定した牛乳、土壌、植物、動物の骨の中のストロンチウム90の測定結果をも互いに付き合わせて比べていた。もっと多くの死産児が必要だと決定を下すより、むしろ幼い子どもの死体が必要だというのが科学者の総意だった。
ストロンチウム90は、成長途中の骨に取り込まれる。それゆえ、成人の骨に含まれるストロンチウムは少ない。また、科学者は、死産児の測定値が驚くほど低かったのは、おそらく妊娠中の母親と胎児との間の骨の交換によるものだろう、と結論づけた。
このことを解説する例として、ローレンス カルプ博士は、「興味深い母子」を挙げている。分娩途中に死亡した29才の母親と、その母親が生んだ42週の死産児である。カルプ博士がその母子の骨中ストロンチウムを計測した結果、両者の骨には、同じ濃度のストロンチウムが検出された。
この他にもカルプ博士には、研究仲間に伝えるいい知らせが沢山あった。クルプ博士は、「人間の試料の優れた供給源」がバンクーバー、ヒューストン、ニューヨークの3カ所に見つかったと発表した。そして、試料がすでにどんどん流れ込んで来ていると付け加えた。「それはすばらしい」とリビー博士は叫んだ。
カルプ博士が続けた。「ヒューストンには、あまり規則がないんだ。ヒューストンの供給源によれば、我々が欲しい年齢層[1才から40才]の死体を事実上すべて手に入れられるとのことだ。ヒューストンには貧困が多いし、他にもいろいろな問題がある。それで、この種の組み合わせ [死亡した母親と赤ちゃん] が、1ヶ月当たり少なくとも1、2組、入手できるというんだ。」
1ヶ月当たり10本から20本の骨の試料は肋骨であろう、とカルプ博士は言った。しかし、「ヒューストンからは、足の骨の試料も入手した。なぜかというと、ヒューストンの骨の供給源は、骨を取ったあとの死体の見かけがどうなろうと気にしなくていいからだ。」
しかし、いい知らせとは、それだけではなかった。カルプ博士は、最近、コロンビア大学院医学部の医師と話したとのことだった。「彼は、我々が、世界中に似たような計画を立ち上げることができるだろうと確信していて、そのような場所のすべてにコンタクトを持っていると言うんだ。アメリカ側の人間が望めば、特に、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、近東、スカンジナビア諸国で計画を立ち上げられるだろうとね。」
それから2年後の1957年初め、カルプ博士は、サイエンス誌において、解剖から1,500本の骨を入手したと発表した。それらの骨のほとんどは肋骨で、ドイツ、台湾、プエルトリコなど世界17カ所の骨収集拠点から受け取ったものとのことだった。
これらの拠点は、「我々が特定の機関の内科医と接触を持っている場所に限られる」とカルプ氏は論文に記した。同論文には、オーストラリアは、まもなく業務を開始する4つの拠点のうちの1つと記されていた。
1958年の初めまでには、オーストラリアの4才未満の乳幼児3人、子ども2人、成人10人の「肋骨」が分析された。
1960年代半ばまでに、科学者チームは、30カ所から9,000本の人骨の試料を収集した。「これらの骨には、胎児の骨、あらゆる年齢の人たちから1本づつ摘出された骨の試料、そして[主にニューヨークから提供された]全身骨格の試料が含まれている」と、カルプ博士はサイエンス誌に記した。
オーストラリアからの試料には、以下のものが含まれる。赤ちゃんから4才未満の乳幼児の52の試料。子どもおよび13才から19才の若者の27の試料。大人の87の試料。これらの試料に続いて、20年以上の長きにわたって何千もの骨の試料が提供された。1960年までに、サンシャイン計画チームは、人間の身体がストロンチウム90を取り入れる主な方法は、放射能汚染された雨水からストロンチウム90を取り込んだ植物を食べることである、と結論づけていた。恐ろしい研究により明らかになったのは、世界中の人々のストロンチウム90の濃度が上昇しており、1958年から1959年にはそれ以前の50%増だったとのことだ。
1959年において、1才の乳児のストロンチウム90の濃度が最も高く、平均値の7倍であった。しかし、この濃度は「さらに大気が汚染されない場合」には急速に低下するだろう、とカルプ博士は1960年の論文に記した。
アメリカ政府は6年前、人間を巻き込んだ冷戦について徹底的な調査を行ったが、その調査の一環としてサンシャイン計画についてもメスを入れた。1955年の秘密会議の議事録など何百も書類がインターネット上に公開された。
1995年に発表された報告書に、妊婦に放射性物質のカクテルを飲ませたり、囚人の睾丸に放射線を照射したりなどの恐ろしい実験の数々が公表されたことで、骨泥棒問題には多くの関心が向けられなかった。しかし、今週、イギリスの新聞がこの問題を報道したことで、あらたな注目が集まるようになった。イギリスの新聞は、オーストラリアにおいても、死産児が「核に関する極秘実験のために盗まれてアメリカに送られた」と報道したのだ。
オーストラリア連邦政府およびほとんどの州政府の健康省の大臣が、調査を行うように促した。オーストラリア放射線防護 原子力安全庁は水曜日、骨収集計画は1957年、オーストラリア連邦政府の承認を得て開始され、同政府の核兵器実験安全委員会の後援により行われたと確認した。骨収集計画は1978年まで続き、何千もの赤ちゃんや成人の死体から骨が摘出されたが、必ずしも家族の同意を得たわけではなかった。
原子力安全機関によれば、パース、アデレード、メルボルン、シドニーの病理学者が、0才から40才までの人間の骨を提供した。それらの骨は、オーストラリアで灰にされ、アメリカおよびイギリスに送られてストロンチウム90が測定された。このような測定は、後にオーストラリアでも行われるようになった。原子力安全機関は、現在、オーストラリア連邦政府に提出する報告書を作成中だが、オーストラリアの死産児が国外に輸送されたという証拠は今のところ見つかっていない、としている。ヘラルド紙も調査を行ったが、機密解除されたアメリカの文書には、オーストラリアの死産児がアメリカに輸送されていたという記載はない。
しかしながら、1950年代からのイギリスの文書には、死産児のストロンチウム90に関する調査がどの程度イギリスで行われていたかが記されている。ハーウェル原子力研究所の報告書には、死産児の供給源であった数多くの地区が列挙されており、死体から摘出した骨(殆どの場合、足の骨)の検査が行われたと記されている。また報告書には、協力した病理学者の氏名が記されて謝辞が捧げられている。
リビー博士が勤務していたシカゴ大学の広報担当者であるラリー アーベイター氏は、今週、兵器開発競争時代において大量の放射性物質が大気中に放出されたため、サンシャイン計画は必要であった、と同計画を擁護した。アーベイター氏は、同計画の結果が重大なであったために各国政府に圧力をかけることになり、地上での核実験が禁止されることになったと述べた。

[訳注: 参考サイト
CURRENTS
University of Rochester
Larry Arbeiter named associate vice president for communications]


核実験に使われた死産児
2001年6月5日 オーストラリアン紙 ジェイミー ウォーカー記者
健康省大臣のマイケル ウッドリッジ氏は昨夜、1950年代および1960年代の核実験のために、オーストラリアの死産児がアメリカに送られていたという申し立てについて調査していた。
[訳注: 参考サイト
Michael Woodridge

AUSTRALIAN POLITICS.COM
Sep. 7, 2001
Michael Woodridge Announces Resignation from Parliament]


「死体貿易」の詳細は、アメリカエネルギー省が情報自由法のもとで公開した書類に記されている。それらの書類によれば、「死体貿易」は、15年以上にわたって行われたという。核実験の放射性降下物が人体に与える影響を見るために実験が行われた。アメリカの科学者は、死産児だけではなく、幼児の死体をも入手した。
オーストラリア、イギリス、カナダ、香港、南アメリカおよびアメリカの病院が、合計6,000体の死体を提供した。オーストラリアから何体が送られたかについての詳細はない。
イギリスのデイリーメール紙の報道によれば、赤ちゃんや子どもの親は、同意を求められたことはなく、骨または臓器を摘出した後の遺体がどうなったかについても何も知らされていなかった。
最高機密の実験は、サンシャイン計画と命名され、死体は実験に使用された後、アメリカで埋葬された。
ロンドンのオブザーバー紙によれば、人間「モルモット」に関する記載は、各人の名前ではなく、実験の厳格な機密保持のためにコードネームで行われたとのことだ。赤ちゃん B-1102 は生後8ヶ月で死亡した男の子で、赤ちゃん B-595 は生後13ヶ月でなくなった女の子、という具合だ。
イギリスは、1955年にシカゴ大学のウィラード リビー博士が秘密会議を招集したときにサンシャイン計画に参加した。同会議においてリビー博士は、多くの死体(特に死産または新生児の死体)を収集するよう呼びかけた。
オブザーバー紙が入手した書類によると、後年、炭素年代測定法でノーベル賞を受賞したことで有名なリビー博士は、1955年の会議で次のように語ったとのことだ。「人間のサンプルがもっとも重要だ。それゆえ、死体泥棒をどのように巧みにやるかを知っている人間は、自分の国に多いに貢献することになるだろう。」
「高額な報酬を請求する法律事務所を雇って、死体泥棒に関する法律を調査させました。でも、あまり乗り気にはなれませんでした。死体入手を合法的に行うのは、非常に難しいということがわかったからです。」
約50体の死体がイギリスからアメリカに送られたが、それらの死体のいくつかはイギリスでもトップクラスの病院から提供されたものだった。セントラルミドルセックス病院、ロンドンの王立癌病院、王立子ども病院のほか、ブリストルやグラスゴーの病院からも死体が提供された。

[訳注: 参考サイト
Central Middlesex Hospital

The Royal Marsden(ロンドンにあるがん専門の病院)

Great Ormond Street Hospital(ロンドンにある病気の子どものための病院。以前の名称は、The Hospital for Sick Children )

Great Ormond Street Hospital for Children]


昨夜、ウッドリッジ氏は、この問題に関心があり、申し立てを受けて問題の真相を健康省の職員とともに確認したいと述べた。
「現代においてこのようなことが行われていたら、違法と言わないまでも非常に倫理観にかけているということになります。」と健康省の報道官は語った。
問題に関する直接の責任は、病院を管轄下においている州および地域の政府にある、と報道官は述べた。

赤ちゃんの骨や臓器が返却される可能性も
2002年7月22日 サンデータイムス紙 ショーン パーネル記者
何千もの人間の臓器や骨が死体から摘出され研究に提供されたが、それらが遺族に返却される可能性がある。
オーストラリア連邦政府の健康高齢者担当省は、オーストラリア健康倫理委員会が2回に分けて行った問い合わせを受けて、摘出された身体の部分に関する情報を求める人々のために、全国的なホットラインを開設することを検討している。
臓器は解剖後に保有され、骨は21年にわたる核実験計画において使用された。臓器または骨のいずれについても、それらが葬られていないのか、それとも死者とともに焼かれたのか、ほとんどの家族は知らされていなかった。
健康倫理委員会は、骨の灰の一部がいまだに保管されていることを突き止めた。また、骨を実験に提供していた医療機関のほとんどは公立病院であるが、それらの病院が家族の求めに応じて処理費用を負担するべきだとしている。
健康倫理委員会は、解剖後に保有された臓器に関しても同様な知見を得て勧告を行った。また、オーストラリア連邦政府に対し、州政府の健康省が臓器の処理にかけた費用の払い戻しを検討するよう促した。
骨または臓器のいずれの場合においても、倫理委員会は、遺族のほうから初めに連絡を取ってくるようにすべきだと政府機関に促した。遺族のなかには、亡くなった大切な人の身体がどうなったかを知りたくないという方もおそらくいるだろうからだ。
全国的な情報提供の機会が9月に予定されている。
クイーンズランド州健康省の報道官は、同省が遺族からの問い合わせに対応するカウンセラーを配置すると述べた。
この報道官は、遺族が特別な処理法を望む場合、臓器または骨を取り戻すことができるであろうと述べた。
3年が経過しても遺族から請求を受けなかった臓器および骨のすべては、公的な式典において処理されることになりそうだ。
健康高齢者担当省の女性報道官は、先週、電話を返してこなかったが、ダーウィンで開催された連邦政府および州政府の健康省大臣の会議において問題が討論されたことと思われる。
放射性同位元素であるストロンチウム90の測定試験のために使用された約22,000本の骨の3分の1以上は、クイーンズランド州からのものだった。
メーター病院とロイヤルブリズベーン病院が1957年から1978年に研究計画に参加した。
[訳注: 参考サイト
Mater

Queensland Government
Royal Brisdbane and Women's Hospital]


この4月、連邦政府および州政府の健康省の大臣は、解剖の際に摘出された身体の部分の使用に関する新たな規則を定め、臨床医が必ず初めに遺族の承認を得るようにすることに合意した。

[訳注:
オーストラリアでは、イギリスが12回の核実験を行ったそうです。
以下は、オーストラリアの核実験場、核廃棄物投棄場所、原子炉、ウラン鉱山などを示す地図。
(核実験場を示すマークは、黒い骸骨。)
2013091601.jpg
Australian Map of Nuclear and Uranium Sites

オーストラリアの地名に弱い方のための、オーストラリア地図

世界の被曝被害を考える会さんより
「オーストラリアの核実験」

上記ブログに掲載されている
オーストラリアの核実験場の地図
2013091602.jpg

原子炉の一覧 ウィキペディアより

以下、オーストラリアの箇所の抜粋。
ルーカス・ハイツ原子炉 HIFAR
(High Flux Australian Reactor; 10
MWt)…心臓病やがんの治療のための原子炉。(患者は1年の治療につき約50万円支払う必要がある)1958年1月26日に初めて臨界に達し、2007年に解体が開始され、解体完了には10年かかるとみられている[1]。
HIFAR:OPAL 炉に変更。2006年8月12日午後11時25分に初めて臨界を迎えた[2]]


◆関連ブログ
赤ちゃんの骨でストロンチウム計測(1)−英米の恐るべき人体実験2013年09月15日
タグ:P 人体実験
posted by いんちょう at 21:25| Comment(5) | 原子力
この記事へのコメント
http://www.youtube.com/watch?v=FbbSEkyPtkY

Silent Storm というタイトルで 骨を集め 調べた動画があります。昔見たのは分割されていませんでした。 同じものと思いますが 他にも別のがあるかもしれません。
Posted by koba at 2013年09月17日 15:14
先生こんにちは。
いつもブログ、ツイッターと拝見しています。


オーストラリアの核汚染とても気になることを思い出しました。

3年前私の妹はオーストラリアに留学しました、毎回メールや電話で聞く毎に心配していたので鮮明に覚えていることです。妹は留学してまもなく、体調の変化を訴え始めました。連絡を取り合う度に、背中が痛い、足が痛い、足が痛くて歩けなくなるほど、腰が痛い、話す度にその様なことを言っていたので、とにかくおかしい、早く病院へと何度も促しました。
病院へ行ったものの原因はわからず、鎮痛剤の処方だったと思います。


1年の留学を終えて帰国、あらゆる検査の結果、膠原病でした。
帰国して1年目は症状もひどく、とても辛そうでした。しかし2年ほど経つと、症状は落ち着いてきています。


因果関係はわかりません。元々妹に膠原病の要素があったのかもしれません。しかしあの時の妹の体調変化を思い起こしてみると、今まであんなに元気だった妹がオーストラリアへ行ってから突然に体調不良を訴え続けて、膠原病の診断。
考えてしまいます。。。


Posted by Maika Ikeda at 2013年09月18日 06:22
オーストラリアの核汚染、恥ずかしながら全く知りませんでした。衝撃を受けています。
去年の子供の誕生日には、オーストラリア産のクリームチーズでチーズケーキを作り、最近ではニュージーランド産のクリームチーズを2キロ購入し度々料理に使ってきました。
共に、「南半球ならば大丈夫だろう」という甘い認識。
大後悔です。
オーストラリアやニュージーランドの牛乳やチーズの汚染について、現在はどうなのか、ちゃんと調べなければなりませんね。
Posted by 青緑 at 2013年09月18日 13:06
連投申し訳ありません。
オージービーフや、ニュージーランド産蜂蜜の放射能汚染についても、現在どうなのか知らなければなりませんね。
原発事故後、我が家では牛肉はオージービーフに切り替え、蜂蜜は西日本産を使っていましたが数ヶ月前にニュージーランド産蜂蜜をキロ単位で購入してパン作りや子供の飲み物にどんどん使い続けてきました。
肉で問題になるのはやはりセシウムでしょうか。
セシウムならば民間の測定所ではかれますね。
汚染を避けていたつもりが、汚染された物を食べ続けていたかもしれないとは…。
とりあえず、測るなり調べるなりしてみようと思います。
オーストラリアの記事をブログにしてくださいましてありがとうございました。
Posted by 青緑 at 2013年09月18日 13:18
世界最大級オーストラリアウラン鉱山がシャットダウン 放射能高汚染水の漏出に打つ手なし

http://www.juno.dti.ne.jp/tkitaba/earth/nuclear/news/11042001.htm

オーストラリアで計測された放射能高汚染
オーストラリアといえば、原発のない国だし安全、こんなイメージがあると思う。


が、この動画を見て、おののいてしまった。オーストラリア(メルボルン)の線量が異常に高いのです。計測器の誤作動などの可能性も考えられますが、とにかく高いのです。

最高で・・・

5マイクロシーベルト以上

http://sekaitabi.com/australia.html


原水爆禁止2001年世界大会
国際会議

オーストラリア平和委員会
フィリップ・ホワイト

オーストラリアにおける核兵器実験―最近の展開の概論

http://www10.plala.or.jp/antiatom/jp/NDPM/WC/01wc/Intl/j01AU-White.html
Posted by 大和 at 2013年09月30日 15:27
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