カルディコット「ヒロシマ、ナガサキでは死の灰はほとんど残らなかった。ほとんどすべてが瞬間に発生した放射線によるモノの被害だった」
と説明しました。私はそれに対して
私「入市被爆というものもある。放射線を直接浴びていなくとも、後から後から人が死んでいるのになぜそのようなことを言うのか。見識を疑う」
と質問したところ、
カルディコット「残留放射能はほとんどなかった。それは、ABCCも証明している」
と答えてきたので、呆れたことがあります。
今月号のDAYS JAPANで藤田祐幸氏が書かれている文章にも同じような下りがあります。


原発は1年間に原爆の1000発分の放射能原発と原爆は、ウラニウムの原子核が分裂する際に放出される膨大なエネルギーを利用します。分裂したウラン原子のかけらは放射性物質になります。この放射性物質は「死の灰」とも呼ばれます。原爆と原発の違いは、この死の灰の量にあります。広島と長崎に落とされた原子爆弾から発生した死の灰はおよそ1キログラム程度でしたが、原発では、一年間に約1トンもの死の灰が生成されています。原発1基のもっている放射能は、原爆1000発分に相当するのです。原爆と原発の違いには、もう一つの問題があります。原爆が昨裂した瞬間に極めて強い放射線が放出されます。主にガンマ線と中性子線です。この中性子線がある種の金属の原子に当たると、その原子は放射性物質になることがあります。これは放射化生成物と呼ばれています。広島と長崎の原爆で発生した約1キログラムの死の灰は、超高温の火の玉の中で発生したため、その大部分はキノコ雲と一緒に成層圏に入っていきました。そのため、黒い雨が降った地域を除いては、放射性物質(死の灰)による汚染はほとんど問題になりませんでした。人々は、原爆が爆発した瞬間に浴びせられた放射線によって外部被曝をしたのです。ところが、後に爆心地に肉親らを探しに行った人たちも被曝しています。これは、大地や建物の中の一部の金属などが放射化したため、その二次放射繰で被曝をしたことを意味します。しかし、放射化生成物の放射能の寿命は比較的短いため、現在、広島・長崎の大地からはほとんど検出されません。それに対し、原発事故では、原子炉から噴出した死の灰が風に乗ってまき散らされ、大地と水と空気が汚染されます。広島では爆心地から3キロの範囲内に被害が限定されているのに対し、チェルノブイリ原発事故では、600キロ圏内まで放射能が広がっており、特に300キロ圏内は深刻な汚染が今もなお残っています。「核兵器はひとつの都市を滅ぼし、原発はひとつの国を滅ぼす」といえましょう
この藤田氏もカルディコット全くおなじ意見です。反原発でいろいろと意見をしていることはもちろん知っておりますが、残留放射能のことを無視しているのは、まさしく米国追従です。
あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいく-広島todayからには、つぎのように表現されています。
広島レポート
「広島で、初の原爆がその街を破壊し世界に衝撃を与えた三十日後、人びとは次々に奇怪な死に方をして亡くなっていく。あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいくのである。
広島は爆撃を受けた街というより、巨大なスチーム・ローラーがその上をとおり、影も形もなく押しつぶしていったように見える。私はこのような事実を、できるだけ冷静に、世界に対するひとつの警告となることを願って、書こうと思う。
この原爆の最初の実験が行なわれた地で、私は四年に及ぶ戦争の中でも最も恐ろしい、驚くべき荒廃を見た。それに比べたら急襲された大平洋上のひとつの島などエデンの園のように見える。その損傷はカメラが写し出せる限界をはるかに越えてすさまじいものである。
広島につくと周囲二十〜三十平万マイルを一望でき、建物がほとんど見あたらない、このような人の手による破緩行為を自にすると、胃のあたりに何ともいえない空虚感を覚える。
消え失せた街の中心部にある、臨時の警察本部として使用されていた掘っ立て小屋へ向かった。その建物から南の方を見るとおよそ三マイルに及んで赤味がかった瓦礁が続くのが見わたせる。原爆投下のあとに残ったものといえば、たった数十ブロックの区画内の建物、家屋、工場そして人びとであった。
約二十本の工場の煙突のほか立っているものは何もない−煙突だけで工場はないが−。内部を破壊された六つのピル群があり、そしてもうあとは何もなかった。
広島警察の幹部は、私を、広島にたどりついた設初の連合国公認の記者として、歓迎してくれた(原文のまま/)。彼は私を日本の主要通信社である同盟の地元支局長とともに市内を車で通りぬけ、というより街の上を走って、原爆犠牲者たちが治療をうけている病院へと案内してくれた。
これらの病院で私は、原爆が落ちた時には負傷もなかったのに、今になって、わけのわからない後障害のために死んでゆく人びとを見た。
これといった理由もなしに健康が衰えはじめ、食欲を失ない、髪の毛は脱け落ち、体に青みをおびた斑点が現われ、耳から、口から、鼻から、出血が始まるという。
医師たちははじめ、単なる衰弱だと思ったそうだ。そしてビタミン注射を打ったところそれはひどい結果に終わった。注射器の針があけた穴からどんどん肉が腐り始めたのである。そしてその注射を受けた犠牲者はすべて死んだと言う。
これが、人聞が初めて落とした原子爆弾というものの後障害の一例であり、私はもうこれ以上他の例を見たくはない。
私は、今まで嘆いだことのない何か異様な悪臭を嘆ぎつけた。硫黄に似ていたが、同じではない。まだくすぶっている火のそばや死体が発見され続けている焼跡を通ると、その臭いが鼻をついた。しかし、手をつけられていない場所からも臭っていた。
その臭いはウラニウム原子の分裂による放射能のしみこんだ土から発生する有毒ガスのせいだと信じられている。
そのために、広島の人びとは口と鼻とにガーゼのマスクをあてて、かつて自慢していた街の荒涼とした廃極を歩くのである。それは決して物理的な助けとはならないであろう。が、精神的助けにはなっているのである。
この破壊が広島の上にもたらされた瞬間から、生き残った人びとは白人を憎んだ。それは、原爆それ自体を恐れるのとほとんど同様の激しさの憎悪である。
死者は五万三千人と数えられた。他に三万人は行方不明とされているがこれは確実に死を認味する。爆発で重傷を負った一万三千人のうち百人が私が広島に着いたその日に死んだ。一日に百人の割で、彼らは息をひきとっている。そしておそらく皆、遅かれ早かれ死んでゆくのであろう。軽傷を受けた者は四万人であった。
「広島で、初の原爆がその街を破壊し世界に衝撃を与えた三十日後、人びとは次々に奇怪な死に方をして亡くなっていく。あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいくのである。
広島は爆撃を受けた街というより、巨大なスチーム・ローラーがその上をとおり、影も形もなく押しつぶしていったように見える。私はこのような事実を、できるだけ冷静に、世界に対するひとつの警告となることを願って、書こうと思う。
この原爆の最初の実験が行なわれた地で、私は四年に及ぶ戦争の中でも最も恐ろしい、驚くべき荒廃を見た。それに比べたら急襲された大平洋上のひとつの島などエデンの園のように見える。その損傷はカメラが写し出せる限界をはるかに越えてすさまじいものである。
広島につくと周囲二十〜三十平万マイルを一望でき、建物がほとんど見あたらない、このような人の手による破緩行為を自にすると、胃のあたりに何ともいえない空虚感を覚える。
消え失せた街の中心部にある、臨時の警察本部として使用されていた掘っ立て小屋へ向かった。その建物から南の方を見るとおよそ三マイルに及んで赤味がかった瓦礁が続くのが見わたせる。原爆投下のあとに残ったものといえば、たった数十ブロックの区画内の建物、家屋、工場そして人びとであった。
約二十本の工場の煙突のほか立っているものは何もない−煙突だけで工場はないが−。内部を破壊された六つのピル群があり、そしてもうあとは何もなかった。
広島警察の幹部は、私を、広島にたどりついた設初の連合国公認の記者として、歓迎してくれた(原文のまま/)。彼は私を日本の主要通信社である同盟の地元支局長とともに市内を車で通りぬけ、というより街の上を走って、原爆犠牲者たちが治療をうけている病院へと案内してくれた。
これらの病院で私は、原爆が落ちた時には負傷もなかったのに、今になって、わけのわからない後障害のために死んでゆく人びとを見た。
これといった理由もなしに健康が衰えはじめ、食欲を失ない、髪の毛は脱け落ち、体に青みをおびた斑点が現われ、耳から、口から、鼻から、出血が始まるという。
医師たちははじめ、単なる衰弱だと思ったそうだ。そしてビタミン注射を打ったところそれはひどい結果に終わった。注射器の針があけた穴からどんどん肉が腐り始めたのである。そしてその注射を受けた犠牲者はすべて死んだと言う。
これが、人聞が初めて落とした原子爆弾というものの後障害の一例であり、私はもうこれ以上他の例を見たくはない。
私は、今まで嘆いだことのない何か異様な悪臭を嘆ぎつけた。硫黄に似ていたが、同じではない。まだくすぶっている火のそばや死体が発見され続けている焼跡を通ると、その臭いが鼻をついた。しかし、手をつけられていない場所からも臭っていた。
その臭いはウラニウム原子の分裂による放射能のしみこんだ土から発生する有毒ガスのせいだと信じられている。
そのために、広島の人びとは口と鼻とにガーゼのマスクをあてて、かつて自慢していた街の荒涼とした廃極を歩くのである。それは決して物理的な助けとはならないであろう。が、精神的助けにはなっているのである。
この破壊が広島の上にもたらされた瞬間から、生き残った人びとは白人を憎んだ。それは、原爆それ自体を恐れるのとほとんど同様の激しさの憎悪である。
死者は五万三千人と数えられた。他に三万人は行方不明とされているがこれは確実に死を認味する。爆発で重傷を負った一万三千人のうち百人が私が広島に着いたその日に死んだ。一日に百人の割で、彼らは息をひきとっている。そしておそらく皆、遅かれ早かれ死んでゆくのであろう。軽傷を受けた者は四万人であった。
このように、放射能の惨禍が書かれていながら、なぜ無視をするのか。しかし、これといった証拠もなく、腹を立てる程度でしたが(何度も言いますが、原爆で本当に怖いのは、残留放射能そして、遺伝の問題です)、先日紹介した「死の灰と戦う科学者」に降下物の分析が描かれていました。
木村、南両教授のこと
木村教授は若いころ、デンマークのニールス・ポア博士のもとでまなんだ。ポーア博士といえば、当時、世界の物理学界の第一人者であった。コペンハーゲンのボーア博士の研究室には、世界中から、俊秀が雲のごとくあつまり、あたらしい原子構造理論の研究に没頭していた。木村教授は第七二番元素ハフニウムを発見(一九二二年)したへヴェシー博士(ハンガリー出身の化学者、一九四三年度ノーベル化学賞受賞)たちと共同で、ハフニウム、ジルコニウムなどの化学的特性に関する研究に従事した。日本からは物理学者仁科芳雄博士が長いあいだボーア研究室にとどまり、原子物理学のあたらしい発展につくしていた。
コペンハーゲンから帰国してからの木村博士は、外国留学の前から、柴田雄次教授の指導ではじめられていたウラン、トリウムなどの放射性元素や、希土類元素など、いわゆる希元素をふくむ鉱物の化学的研究をつづけた。この一連の研究には「希元素の地球化学的及び分析化学的研究」として、一九四五年に帝国学士院貨が授与された。
木村教授の帰国後まもなく、仁科博士も帰国して、理化学研究所に入所した。仁科博士が理化学研究所に研究室をひらいて、サイクロトロンを設置(一九三六年)してからは、木村教授は仁科博士と共同で、原子核反応でできる新しい核種の研究をはじめた。
広島、長崎に原子爆弾がおとされたときには、木村研究室で、いちはやく、降下物の分析がおこなわれた。協力者は村上悠紀雄、斎藤一夫、山寺秀雄の諸博士であった。その結果は、広島の降下物からストロンチウム八九、バリウム一四〇、ランタン一四〇、ジルコニウム九五、ニオブ九五、イットリウム九一が検出された。また、長崎の降下物には、ストロンチウム八九、バリウム一四0、セリウム一四四、プラセオジム一四四、ジルコニウム九五が検出された。この分析結果から、いわゆる「新型爆弾」が、原子爆弾であることが証明された。
南英一教授は木村教授とともに、柴田雄次教授の門下生の一人である。南教授はゲッチンゲン大学にまなぴ、ゴールドシュミット教授とともに、堆積岩中の希土類元素の研究をおこなった。これは地球上における希土類元紫の相互の存在比をきめた研究として、世界的に商い評価を得た。近年に至るまで希土類元紫に関するミナミの分析値は重要文献として、多くの著書、論文に引用されている
。東京大学でのビキニ灰の分析は、三月一八日ごろからはじめられた。分析をはじめて二日後には、はやくも四種の核分裂物質(主として希土類元素)が検出された。一週間のうちには、一五種、三月の末には一七種の放射性核種がみつかった。けっきょく、全体で検出された核種は二七種になった。その大部分は核分裂で生じた核種であった。しかし、そのほかに、イオウ三五、カルシウム四五、ウラン二三七、プルトニウムニ三九がみつかった。これらは、すべて核分裂生成物ではない。なかでも、ウラン二三七やプルトニウム二三九の存在は、プラポl爆弾の秘密をしめすものとして、非常に重要なことだった。だが、分析のはじめの段階では、それがなにを意味しているかは、すぐにはわからなかった。 木村研究室では、まえにものべたように広島、長崎の原子爆弾の降下物を分析したことがあった。その当時はガイガー計数務もなく、放射能をはかるには、ローリッツェン検電器などにたよらざるを得なかった。ガスも十分に出ないときで、七輪で炭火をおこしてビーカーをあたためるような状態であった。
今回はガイガl計数器がつかえた。そのうえ、イオン交換樹脂による放射性核種の分離技術がすすんでいた。このため、核分裂生成物の測定が迅速にできたのであった。
都築正男博士は、木村・南研究室の迅速な分析ぶりを賞讃し、「短時間によくこれだけの核種の分析ができたものだ。放射性ストロンチウムなどの存在が明らかになったことは、われわれが治療方針をきめるうえにも非常に重要なことである」とかたった。たしかに、木村・南両研究室のよいチームワークは、日本の分析化学界の潜在的な実力をしめしたものであった。
木村教授は若いころ、デンマークのニールス・ポア博士のもとでまなんだ。ポーア博士といえば、当時、世界の物理学界の第一人者であった。コペンハーゲンのボーア博士の研究室には、世界中から、俊秀が雲のごとくあつまり、あたらしい原子構造理論の研究に没頭していた。木村教授は第七二番元素ハフニウムを発見(一九二二年)したへヴェシー博士(ハンガリー出身の化学者、一九四三年度ノーベル化学賞受賞)たちと共同で、ハフニウム、ジルコニウムなどの化学的特性に関する研究に従事した。日本からは物理学者仁科芳雄博士が長いあいだボーア研究室にとどまり、原子物理学のあたらしい発展につくしていた。
コペンハーゲンから帰国してからの木村博士は、外国留学の前から、柴田雄次教授の指導ではじめられていたウラン、トリウムなどの放射性元素や、希土類元素など、いわゆる希元素をふくむ鉱物の化学的研究をつづけた。この一連の研究には「希元素の地球化学的及び分析化学的研究」として、一九四五年に帝国学士院貨が授与された。
木村教授の帰国後まもなく、仁科博士も帰国して、理化学研究所に入所した。仁科博士が理化学研究所に研究室をひらいて、サイクロトロンを設置(一九三六年)してからは、木村教授は仁科博士と共同で、原子核反応でできる新しい核種の研究をはじめた。
広島、長崎に原子爆弾がおとされたときには、木村研究室で、いちはやく、降下物の分析がおこなわれた。協力者は村上悠紀雄、斎藤一夫、山寺秀雄の諸博士であった。その結果は、広島の降下物からストロンチウム八九、バリウム一四〇、ランタン一四〇、ジルコニウム九五、ニオブ九五、イットリウム九一が検出された。また、長崎の降下物には、ストロンチウム八九、バリウム一四0、セリウム一四四、プラセオジム一四四、ジルコニウム九五が検出された。この分析結果から、いわゆる「新型爆弾」が、原子爆弾であることが証明された。
南英一教授は木村教授とともに、柴田雄次教授の門下生の一人である。南教授はゲッチンゲン大学にまなぴ、ゴールドシュミット教授とともに、堆積岩中の希土類元素の研究をおこなった。これは地球上における希土類元紫の相互の存在比をきめた研究として、世界的に商い評価を得た。近年に至るまで希土類元紫に関するミナミの分析値は重要文献として、多くの著書、論文に引用されている
。東京大学でのビキニ灰の分析は、三月一八日ごろからはじめられた。分析をはじめて二日後には、はやくも四種の核分裂物質(主として希土類元素)が検出された。一週間のうちには、一五種、三月の末には一七種の放射性核種がみつかった。けっきょく、全体で検出された核種は二七種になった。その大部分は核分裂で生じた核種であった。しかし、そのほかに、イオウ三五、カルシウム四五、ウラン二三七、プルトニウムニ三九がみつかった。これらは、すべて核分裂生成物ではない。なかでも、ウラン二三七やプルトニウム二三九の存在は、プラポl爆弾の秘密をしめすものとして、非常に重要なことだった。だが、分析のはじめの段階では、それがなにを意味しているかは、すぐにはわからなかった。 木村研究室では、まえにものべたように広島、長崎の原子爆弾の降下物を分析したことがあった。その当時はガイガー計数務もなく、放射能をはかるには、ローリッツェン検電器などにたよらざるを得なかった。ガスも十分に出ないときで、七輪で炭火をおこしてビーカーをあたためるような状態であった。
今回はガイガl計数器がつかえた。そのうえ、イオン交換樹脂による放射性核種の分離技術がすすんでいた。このため、核分裂生成物の測定が迅速にできたのであった。
都築正男博士は、木村・南研究室の迅速な分析ぶりを賞讃し、「短時間によくこれだけの核種の分析ができたものだ。放射性ストロンチウムなどの存在が明らかになったことは、われわれが治療方針をきめるうえにも非常に重要なことである」とかたった。たしかに、木村・南両研究室のよいチームワークは、日本の分析化学界の潜在的な実力をしめしたものであった。
原爆投下当時にこのようにストロンチウムの分析までができていたことに私は正直驚きを覚えました。そして、8月10日に日本政府の出した唯一の次の原爆に対する非難声明は、この分析を元にした確信のある声明だってと想像できるでしょう。
本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、
本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、
また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、
抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり[30]、
米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、
而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す
本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、
また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、
抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり[30]、
米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、
而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す
なぜ、未だに残留放射能の被害はたいしたことがないといいきれる人間がいるのか。本当に残念でなりません。(それにしても、本当のことは後から後から、いろいろな資料が出てくるので、本当におそろしく思います。このように細かいところまで整合性がとれることこそ、真実の証しであろうといつも感じています。)
藤田祐幸氏には、熊本市で公演をされたときに残留放射能を無視するのはおかしいと直接抗議したのですが、取り合ってもらえませんでした。
◆関連ブログ
あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいく-広島todayから2013年04月15日
「海の放射能に立ち向かった日本人〜 ビキニ事件と俊鶻丸」-全部知ってる日本政府2013年10月07日
群馬CTBT 亜鉛−65検出の意味2013年10月21日

タグ:原爆
私「入市被曝というものがある?
このように、放射能の参加
このように、放射能の惨禍
そして入市被曝隠しが68年!
温め孵す先生の熱意、そのもとの番組の製作者の意気、感謝にたえません。
正に驚愕の連続です!!核による世界支配とは核被曝隠し「学」の番頭連れでした当たり前でしたが。広島長崎の神話作りでした。福島も同じでした。
思いだしたのは、昨年NBCで報じられた大量の北極グマやアザラシの不思議な病気や死。定期調査で毛皮がごっそりと抜け、皮膚に傷害のある傷がある北極グマが33匹も見つかったニュースです。毛が抜け、首の左側にじくじくとした傷口があるクマの写真が載っています。
2012年4月12日 NBCニュース
毛が抜け開いた傷口の北極グマ
“Fur loss, open sores seen in polar bears“
http://usnews.nbcnews.com/_news/2012/04/08/11083494-fur-loss-open-sores-seen-in-polar-bears
毛が抜けたりするのは動物ではよくあることですが、このように大量に見つかるのは異常なこと。しかも、福島原発事故の年の夏にはすでにアラスカの北極海沿岸で大量のアザラシが同じ症状−毛抜けと開いた傷口−で大量死しています。死んだのは若いアザラシがほとんどで呼吸困難を伴っていたといいます。この症状はベーリング海峡近辺のカナダやロシアでも発見されており、全身の毛すべてが抜けたアザラシさえ見つかったので安楽死させたとも報告されています。
以下の写真は、アラスカで見つかった毛が抜けて鼻やエラを含むあちこちから血を出しているアシカの写真。広島リポートで亡くなった方たちはきっとこんなかんじだったのでしょうね。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2079317/Seals-damaged-flippers-hair-loss-killed-radiation-Fukushima-plant-biologists-warn.html
ちなみに以下が現在のアメリカ各地での放射線モニタリング結果。明らかにウエストコーストは影響を受けています。バカトロまぬけ会社はよくもここまで太平洋をメチャクチャにしてくれましたよ!
U.S. Nuclear Emergency Reporting Center
http://www.netc.com/
こんなバカトロまぬけに懲りずに莫大な税金を投入し、数年かけて完成したところで10年ももたない巨大アイスキャンディーを作ろうとしているわけね。前代未聞の複雑、デリケート且つ超危険な使用済み燃料棒も自信ありげに自分達だけで取り出すと言っている。
引き続き潘 基文国連事務総長とオバマ大統領への署名活動は続いています。バカトロまぬけ会社に殺されたく無い人はご参加ください。拡散歓迎。
The World Community Must Take Charge at Fukushima
http://petitions.moveon.org/sign/the-world-community-must/
毎回有益な情報発信をありがとうございます。
>カルディコット「残留放射能はほとんどなかった。それは、ABCCも証明している」
ええーーーーっ!(驚)
カルディコットさん、全然だめじゃん!!と思いました。
科学者なのに、そもそも信じてよい機関、だめな機関、信じてよいデータ、だめなデータの見分けもついていないんですね。
「真実がどうだろうと、事実がどうだろうと、自分は信じたいことだけを信じている」
そういう人に思えました。
以前、イトイ氏のHPに、だから放射能は安全なんだよっていうことを力説したいんだなと思うページに、アメリカのいかにもずるがしこい狡猾なペテン師といった顔の科学者の書いた文章を載せていましたが、ああ、なんかもう狂ってると思いますね。
生き物の感覚、センサーとして
ああ、これはおかしいよーーと思います。