2013年12月01日

「オーストラリアの核開発の実態」核実験と核汚染(動画)

オーストラリアの核汚染については、今まで何度かブログにさせていただきました。
赤ちゃんの骨でストロンチウム計測(1)−英米の恐るべき人体実験2013年09月15日
赤ちゃんの骨でストロンチウム計測(2)−オーストラリアの人体実験2013年09月16日
赤ちゃんの骨でストロンチウム計測(3)−米英の新聞記事と簡易年表2013年09月16日
オーストラリア(南半球)の核汚染2013年10月04日

 オーストラリアの核開発、アトミックソルジャーの動画邦訳を作成していただきましたので、紹介させていただきます。

 にほんブログ村 環境ブログ 原発・放射能へ
Australian Atomic Confession [Full Documentary]
「オーストラリアの核開発 被曝者達の物語 人生において二度までも」

この番組をご覧になるアボリジナルおよびトレス海峡諸島の方々におかれては、同胞のご遺体の影像が映る場面があることにご留意ください。当番組制作者は、犠牲者のご遺族そして地域社会の皆様のお気持ちを乱したり沈ませたりすることを願っているものではございません。

ニュー サウス ウェールズ州映画テレビ局
若手映画製作者基金

[訳注: 参照サイト
アボリジニ
トレス海峡諸島民
オープニングの曲は、アボリジニの抵抗の歌「僕らは生き抜いた」(“We Have Survived”, 1981)。この曲は、エンディングの曲でもあります。]

[語り手たちが次々に登場する一方、オーストラリアの広大な大地が映される。]
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(アボリジナルの2人の女性長老) マラリンガの煙だけ。それだけ。もうやめて。私たちは家族をなくした。兄弟達をなくした。マラリンガはもうやるべきではありません。

(元オーストラリア兵) 私たちの国には、災いの歴史があります。なぜなら、イギリスが我が国で一連の核実験を行ったからです。
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(画面の表示) 原爆が広島と長崎を破壊し尽くしてから7年後、イギリス政府は、オーストラリアで核実験を開始した。

(アボリジナルの長老) 私たちはウランと呼んだことは決してないですが、それは私たちのものです。私たちの土地にあるものです。ウランという名前なんて聞いたことはありませんでした。それには、私たち独自の名前がありました。

(オーストラリア人男性)
オーストリアというのは、ウランを採掘して核開発国に輸出し、その国が製造した核爆弾をオーストラリアに持って来て爆発させることを許す唯一の国だと理解しています。

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「オーストラリアの核開発 被曝者たちの物語 人生において2度までも」

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(元オーストラリア兵の声) 核爆弾が炸裂すると、放射性粒子が拡散されます。ある放射性粒子は他の放射性粒子よりも重いものです。重い放射性粒子は先に降下します。それよりもずっと軽い放射性粒子は、降下するまえに地球を何度も周回してから地上に降りてきます。粒子が重かろうが軽かろうが、地上に落ちてくるという点では同じです。すべての放射性粒子が地上に降りてくるのです。

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イギリス政府は1952年から1963年、12回の大規模の核実験をオーストラリアで行った。以来、今日まで核の時代が続いている。

[Nuclear weapons tests in Australia]

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1952年、北西オーストラリア

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[オーストラリアの地図。北西部のモンテベロ諸島に焦点が合わされる。]

(元オーストラリア海軍兵(勲章受章)のマックス キンバーさん。核実験を生き残ったオーストラリア兵士の会の会長。以下「アトミック ソルジャーの会のキンバー会長」という。) 核戦争というものを初めて知ったのは、島に背を向けて立っていて大きな音を聞いたときのことでした。私たちは、大きな爆発音を聞きました。轟音がしてから島の方を振り返りました。大きなキノコ雲がゆっくりと立ち上り、砂も巻き上がっていました。私は、そのとき19才でした。私は、凄いものを見られて誇らしい気分でした。

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1952年10月3日、 モンテベロ諸島礁湖においてハリケーン作戦。水深5メートルで25キロトンの爆弾実験。

(元ジューブリー住民で、現在はウェスト オーストラリア州ブルーム在住のメイ トレス グーニヤンデさん) あれは、煙霧でしたね。空を覆っていた雲は、均一に広がっていたようでした。その雲は、空を流れて行きませんでした。4、5日間またはもう少し長い期間だったかもしれませんが、雲は動かずに同じ場所にありました。
 光はありましたよ。薄明るかったのです。太陽の光がその雲を通じて降りてましたからね。でも、とにかく空にはずっと雲があったのです。

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(元オーストラリア空軍パイロットで、モンテベロ実験のときに放射性雲の観測を担当されたバリー ネイルさん) 私の乗った飛行機は、夜の11時に飛び立ちました。
 私たちは、[雲の]パターンを見つけようとして飛んでおりました。インド洋の北東から南のモンテベロ諸島に向い、それから再度北東のブルームに向かいました。私たちは、約9時間飛びました。
 夜のことでしたから、雲に関する証拠を見たわけではありません。雲に関する証拠は、私たちが飛行機の翼の下に取り付けたフィルターから見つかりました。

[空を飛ぶ飛行機。飛行機のそばで作業する人々。上空から見たブッシュ。]SS

(グーニヤンデさん)私たちは皆、ブッシュで狩りをしますし、魚を捕ったりします。それが私たちの文化で、私たちのやりたいことです。子ども達が狩りをしたり、魚を捕ったりね。爆弾が爆発する前に戻れればね。そうやって人々は暮らしていたのですもの。何年もね。わかるでしょう?

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5、4、3、2、1、今だ。

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(元パイロットのネイルさん) ハリケーン作戦の爆弾の雲は、あきらかにオーストラリア大陸を横断しました。なぜなら3日後には、オーストラリア空軍の飛行機が、タウンズビルの上空で爆弾の炸裂で放出された粒子を観測しましたし、その2日後にはニュージーランド空軍の飛行機が、ニューキャッスル北部の太平洋上で放射性粒子を捉えたからです。その粒子は、同じ実験で爆発した爆弾からのものです。

[雲それから海]

(アトミック ソルジャーの会のキンバー会長) 私たちは、実験から1年にわたってかなり定期的に島に行きました。

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[船上で作業したり、船に乗って向かった島で無防備に作業したり、くつろぐ兵士達]

(キンバー会長) 私が2度目に島に行ったのは、1953年10月のことです。そのときには、イギリス人科学者も一緒でした。私たち兵士は、イギリス人科学者とともに作業をしました。島に関するデータを収集していたのです。私も島で働きました。
 私がよく申し上げることですが、イギリス人科学者は特製の作業着を着ておりましたし、手袋を着用して、長靴を履き、顔面にはマスクを付けておりました。一方、私といえば、Tシャツと半ズポンで歩き回っておりました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Nuclear_weapons_tests_in_Australia
ウィリアムペニー卿、核実験に関する見解を述べる

(テレビ ナレーション) 有名な原爆科学者であるウィリアムペニー卿がオーストラリアを訪問し、記者会見を開きました。近くマラリンガで行われる核実験の放射線についてペニー卿は、放射線の危険はないとの見解を述べました。ペニー卿は、実験の重要性について次のように語っています。

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いかなる兵器についても試験をしなければなりません。兵器が砲弾であろうと、飛行機等で運搬可能なものであろうと、試験をしなければなりません。

[William Penny

2013年8月11日付け47トピックス
「原爆の父」が米国批判、放射線過小評価と投下後4ヶ月に英博士 公文書で判明]
(筆者注)ピカの毒−英国の原爆の父も米国の情報隠蔽を糾弾していたこの人物は私も記事にしていました。糾弾しつつ、オーストラリアでは安全だという。二枚舌も甚だしいと思いますが、原子力村の人間は、立場が変わると言うことをころりと変えても何ら恥じません。

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[爆弾の炸裂。砂漠で上半身裸のまま作業する兵士。]

(元パイロットのネイルさん)私たちは、もっと頻繁にシャワーを浴びる必要があるなんて言われたことはありません。また一定の期間、少なくとも12ヶ月は子どもを作ってはいけないと言われたこともありません。実際、何も言われたことはないのです。雲の中を飛んだことの何が問題なのかということも一切教えてもらいませんでした。

(ネイルさん) モンテベロの見かけはきれいでした。

[砂漠で作業する兵士達。核実験時の人々。]

(ネイルさん) 目につく破片や瓦礫等は片付けられていましたからね。でも、本当の意味で除染されたことは決してありません。政府は一貫して、実験に関わった人間に一切の影響は出ないと言い続けておりました。それは嘘です。なぜなら、モンテベロ諸島は核実験以降、現在にいたるまで、入ってはいけない場所になっているからです。

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[放射線危険地域の立て札]

(ネイルさん) そこには「放射線危険地域」という立て札が幾つも立てられています。1時間以上滞在してはいけないとか、埃を巻き上げるなとか、島から物を持ち出すなとか、島で飲食するなとか書かれてあります。やってはいけないことだけが書かれてありますが、その理由については書かれていません。政府は、伝えたくないのです。

[轟音に驚いて飛び立つ鳥の群れ。背景にはキノコ雲。]

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1956年5月16日、モンテベロ諸島のトリモール島で、モザイクG1実験。15キロトンの爆弾実験。

(グーニヤンデさん)何年かが過ぎた時、私より先に夫が病に倒れました。私たちの前に、周囲の多くの人が病気になっていましたが、皆さん、ガンで亡くなりました。あらゆる種類のガンでした。

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[若き日のグーニヤンデさんとご家族の写真。上空からの大地の風景。]

(グーニヤンデさん) それから私の夫が1962年にガンに倒れ、1963年は私がガンになる番でした(笑)。私の夫が亡くなる前に、すでに12人がガンで亡くなっておりました。みんなアボリジナルの人で、すべての年齢層の人々が亡くなりました。ドゥービーからブルームにいたる場所に住んでいた人々が亡くなったのです。

(アトミックソルジャーの会のキンバー会長) 何年もしてから、私たちは健康上の問題に悩むようになりました。私に関して申し上げれば、50年代後半から60年代にガンにかかり、大きなガンを摘出しました。それ以来、ずっとガンに脅えています。

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[キンバー会長の痛んでいる皮膚]

(オーストラリア保護基金のデービッド ヌーランさん)1953年から70年代にかけて、大気圏核実験の明らかな影響があるだろうと理解されていました。子ども達の歯や骨のなかに、放射性同位体が沈着していると言われていました。

[Australian Conservation Fund]

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1956年6月19日、モンテベロ諸島のアルファ島でモザイクG2実験。98キロトンの爆弾実験。

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1985年のイギリスによる核実験に関する調査委員会が作成した「放射性雲の流れを示す公式地図」

(ヌーランさん) 人々は、放射線被曝には安全なレベルはないということを理解すべきです。法制度のもとでは閾値を決めて、これ以上なら危険などと言います。でも、それは法的に正しいとしても、安全な被曝ではありません。

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[流れる雲に続いてオーストラリアの汚染地図。元パイロットのネイルさんの話が始まる。]

(元パイロットのネイルさん) オーストラリアのほぼ全域が放射性物質の粒子で覆われました。特に、マラリンガ地域のエミュ平原という場所で12ヶ月後に行われたトーテム実験の影響は大きいものでした。

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[オーストラリアの地図のエミュ平原に焦点が当てられる]

(画面の表示) 伝統的なアボリジナルの人々は、核実験が行われたときに、サウスオーストラリア州の北部で遊牧生活を送っていた。

(ヤンクニ チャッジャラの会の広報担当者で、イラティ ワンティ運動家であるカリーナ レスターズさん) その場所で生まれ育った男の子がおりました。アボリジナルの伝統をすべて習い、狩りをしたり、アボリジナルの集会を行ったり、民族の伝統にのっとって部族の皆や長老と歩き回ったりしておりました。そのかつての男の子は、そのような経験をとても大切にしているのです。

[訳注: カリーナさんは、次に登場するヤミ レスターズさんのお嬢さん。
「ヤンクニチャッジャラ」というのは、おそらくアボリジナルの土地の名前です。この番組には、アボリジナルの部族や土地の名称らしき言葉がいくつか出て参りますが、一つ一つの訳注は省きます。
 「イラティ ワンティ」は、アボリジナルの言葉で「毒はいらない」の意味のようです。サウス オーストラリア州のアボリジナルの土地が放射性廃棄物投棄場の候補地になったとき、アボリジナルの女性達が行った反対運動のスローガンでもあります。
 番組の最後に出てきますが、この反対運動は1998年から2004年の6年間にわたり、アボリジナルの女性達の勝利となりました。

Irati Wanti the Poison - leave it!
http://echotango.org/portfolio/irati-wanti-the-poison-leave-it/
http://web.archive.org/web/20080718193150/http://www.iratiwanti.org/home.php3

「アボリジナル女性の勝利」の背景には、当時の第3期ジョン ハワード政権が2004年の連邦議会総選挙の戦略上、この核廃棄物投棄場計画を見送ったこともあるようです。2004年10月の総選挙でジョン ハワード首相率いる自由党は勝利を納め、第4期ハワード政権が始まりました。オーストラリア政府は翌年の2005年、オーストラリア北部に投棄場を造る計画を発表しました。
Friends of the Earth Australia
Nuclear racism
http://www.foe.org.au/anti-nuclear/issues/oz/racism]

[アボリジナルの子ども達の生活風景]

(エミュ平原の核実験生存者で、ヤンクニ チャッジャラ長老の会のヤミ レスターズさん) ここが中心の場所です。ワラティンナというとても大切な場所です。

[アボリジナルの人々の生活風景]

(ヤミ レスターズさん) この場所については、多くの伝統的な所有者がおりました。アボリジナルの歴史は、創世記にまで遡ります。土地の所有者は、黒トカゲを意味するニンティリという部族で、ここに住んでおりました。

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[大きなトカゲ]

(ヤミ レスターズさん) ペレンティトカゲのお話があります。私たちアボリジナルは、ペレンティトカゲの物語を語ることができるのですよ。
 「ある一匹のペレンティトカゲがおりました。名前はニンタカといいました。ニンタカは、ウェスト オーストラリア州との境界におりました。ニンタカは、ウェスト オーストラリア州に入って、ある物音を聞きました。創世記の人々は、非常に力が強かったので大きな音を立てました。その物音に驚いたニンタカは逃げ出して、このワラティンナまでやってきました。
 ワランティナに来たニンタカは、急ぎませんでした。ゆっくりと時間をかけて食べ物を作り、言葉を作りました。いろいろなことを表す言葉を作ったのです。それから、儀式も作りました。
 ウッドラフ山は、ペレンティトカゲのことです。ペレンティトカゲは、こうやってすっくと立って胸を張り、エヤーズ ロックの方を見ています。」

[ヤミ レスターズさんが「すっくと立って」と仰る時、ご自身も胸を張られる。]

 ペレンティトカゲは小さいですが、サウス オーストラリアでは一番高い山です。そう思います。ウッドラフ山はね、ペレンティトカゲのニンタカのことなのですよ。
 私の父が仕事をもらうたびに、私たち家族はあちこちを転々としました。私たちはワランティナからしばらく離れることがあっても、1950年代は必ずここに帰ってきました。

[Mount Woodroffe
http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Woodroffe]

(カリーナレスターズさん) マラリンガはワラティンナの南にありますが、私の家族や、私の父の家族や親族にとって心の拠り所です。

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[赤茶けた大地とブッシュ。赤い空。キノコ雲。]

(ヤミ レスターズさん) このワラティンナという場所は、いまでも大切な場所です。でも、今では昔ほど重要ではないかもしれません。なぜなら、1953年10月15日に、白人が朝の7時に爆弾を爆発させたからです。
 その朝、南から雲がやって来ました。エミュ平原の実験場からここまで雲がやって来たのです。黒い雲で、煙がモクモクしているような雲で、光っていて油がテカテカしているように見えました。そんな変な雲が、こちらに漂ってきました。
 専門家は、煙が60から75マイル(約96から120キロメートル)まで流れたと言います。
 彼らは、仕返しのために何かを作ったのです。雲を作ったのです。「ナパルティ」と言います。彼らは相手を滅ぼすために仕返しのものを作ったのです。

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ヤミさんは、1953年の核実験後にヤミさんの土地を黒い霧が横切ったときに視力を失った。ヤミさんは、この黒い霧を「マニュパルカ」と呼んでいる。大きな邪悪な精神のことだ。

(マラリンガでの実験当時、アントラー作戦技術部隊付中尉だった元オーストラリア空軍アラン バチェラー少佐) 黒い霧ができたのは、軍が安い兵器を作ろうとしていたからだと思います。プルトニウムが少ない低級の兵器をね。爆弾には、ウランがプルトニウムの22倍も入っているのです。それが蒸気と化し、酸化され、エアロゾルとして拡散したのです。

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1953年10月27日、エミュ平原のクレイパンにおいて、トーテム2実験。8キロトンの爆弾実験。

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[被害を受けたアボリジナルの人々と、1957年にウォーバートンでβ線熱傷の調査を行ったダグラス ニコルズ牧師の写真。]

[Warburton, Western Australia
Douglas Nicholls]
 
(カリーナ レスターズさん) 黒い霧が漂って来て、木々を覆い、大地を舐め、草花の間を通り過ぎて行きました。
 この黒い霧についての情報はもちろん、その土地にいた伝統的な土地の所有者やアボリジナルの人々にも伝えられませんでした。
 黒い霧について知っている人は誰もいませんでした。誰もどうすればいいの知らなかったのです。
 人々は黒い霧が通り過ぎてからすぐに倒れ始め、多くの人々が家族を失いました。私の父の家族も亡くなりました。多くの年上の世代も亡くなりました。祖母や、曾祖父や曾祖母が亡くなりました。当時そこにいた大勢の人たち、特にお年を召した多くの人たちが亡くなったのです。
 私の父にとっても大変に辛いことだったので、父は多くを語ろうとはしません。私の父よりも前の世代も語ろうとしません。私の祖父母の世代は、「もうマラリンガを繰り返してはいけない」と言います。
 でも、あいかわらずウランが採掘されていますし、危ないものが振り回されています。そのことに長老達だけが恐れを抱いているのではなく、私のような次世代の人間も怖いと思っています。本当に恐ろしいことです。

(マラリンガの女性長老のモイラさん) 私はあちこちに出かけたものです。ブッシュに行って食べ物を探したり、集めた食べ物を飯ごうに入れて、仲間と分け合って食べました。
 当時、私たちは子どもでした。みんな長い間、そこに暮らしていたのです。みんないい子でした。そして、みんな健康でした。

(元パイロットのネイルさん) 政府の人間は、何も決めませんでした。
 政府が出した「イギリスによるオーストラリアにおける核実験の記録」は、ニュー サウス ウェールズ州に降下した放射性降下物質により、リズモアとダボにホットスポットができたと認めています。
 ホットスポットというのは、放射性降下物質が非常に多く堆積したところです。そのような場所に行くと、飲食や吸気により多くの被曝をしてしまう危険があります。そして、ガンになる可能性が高まります。

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1956年9月27日、マラリンガでバッファロー作戦のワンツリー実験。15キロトンの爆弾実験。

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1956年から1957年にかけて、サウス ウェールズ州のマラリンガで地上核実験が7回行われた。

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[オーストラリアの地図。南部のマラリンガに焦点が合わされる。続いて砂漠に入る軍隊と作業する兵士達の影像。これらの影像とともに、マラリンガで実験当時、オーストラリア軍下級伍長だったジョン ハットンさんの話が始まる。]

(ハットン元伍長)
[訳注: ハットン元伍長の発音は不明瞭なため、聞き取ることが非常に難しいというか訳者には不可能です。それで、聞き取れた限りの言葉を繋げて日本語にして参りますが、ハットン元伍長の意図から大きくは外れていないと思います。] 

 それで1956年の1月に軍用トラックを連ねて何日かかけてマラリンガに行きました。私たちは、宿泊するテントを予約しました。私たちのテントの前には陸軍のテントがあり、後ろには空軍のテントがありました。
 私たちは降下物が貯まっている場所で働きました。朝から晩までね。1日に12時間。たまには13時間。1週間7日間。半ズボンと長靴を履いていました。
 立ち入っては行けない場所もあって、そこに行くときは、白い服を着なければなりませんでした。その白い服を着て、出かけて行って作業をし、帰って来てシャワーを浴びてから、放射線被曝量を測定されました。
 私たちが作業をしていたところは柵に囲われていて、爆心地から約150ヤード(約140メートル)の所だったと思います。
  
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1956年10月4日、マラリンガでマルコ実験。1.5キロトンの爆弾を地表面で爆発。

[ハットン元伍長の回想とともに、マラリンガ実験場の影像が流れる。]

(ハットン元伍長) 上官がある日の夕方、どこかの場所に行って放射線測定作業を手伝えと言いました。出かけた先には、まだ放射線があったので測定をしなければなりませんでした。とにかく私たちが行った先の周囲には、100メートル以上ものクレーターがありました。そしてクレーターは、ガラスの破片でいっぱいでした。爆発した爆弾は、粉々になってガラスの破片みたいになってしまったんじゃないか、と思います。
 保健物理学者のキャンプもあって、一方には「汚染あり」、もう一方には「汚染なし」と書かれてありました。そこに行って服を脱ぎ、白いつなぎに着替えて、白いマスクを被り、長靴も白いもので覆いました。全身、白尽くめ。
 ある時、のどが乾いて水を飲みに行ったら、アボリジニの人が見えました。夜のことでした。アボリジナルの人は、暗黒の世界から現れたように思いました。アボリジナルの人は、2つのフリスビーや手首に紐を巻き付ける投擲武器や槍を持っていました。
 私が同僚に「武器を持ったアボリジナルが外にいるよ」と言ったら、同僚は「えっ本当か」と驚いておりました。真っ青になっていましたね(笑)。
 そのアボリジナルの人と知り合いになったのですが、名前はチャーリーさんと言います。奥さんのディディさんと子どもが2人。男の子と女の子です。チャーリーさんは家族を連れて来てそこで水を飲んで、「美味しい水だ」と思ったのだそうです。そこに来たわけは、きれいな水を探していたからとのことでした。
 一方、イギリスはこの実験に大金をつぎ込んでいました。この実験のことは外部者には知られてはいけないとのことでした。もし秘密をばらしたら、30年投獄するよと。それで、誰も何も言わずにきたというわけです。

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1956年10月11日、マラリンガでバッファロー作戦のカイト実験。3キロトンの爆弾実験。

(ハットン元伍長) そこには何もなかったのですが、突然、砂だらけになりました。彼らはプルトニウムを使用することにし、その上にガソリンをかけ、トルニトロトルエン火薬で爆発して燃やしたのです。だから、マラリンガが今のようになっているのです。

[テレビニュースのナレーションとともに実験時および実験後の影像が流れる。]

(テレビニュースのナレーション) すべての兵器は技術開発上の兵器であり、戦闘地域でも使えます。
 この光景は、10マイル(約16キロメートル)離れた場所から映したものです。この影像から距離を判断するのは非常に難しいですが、この日にはほとんど風がありませんでした。
 雲が向こうにあり、こちらに向かってくるかのようです。20分後、雲が広がり始めました。降下物が雨のように落ちてくるのがわかります。雲は空にかかったままです。

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1956年10月22日、マラリンガでバッファロー作戦のブレイクアウェイ実験。10キロトンの爆弾実験。

[若い兵士の写真]

(バチェラー元少佐) 私は、マラリンガ実験場に中尉として配置されました。アントラー作戦技部隊の一員でした。私たちは、実験場から10マイル(約16キロメートル)のところに配置されました。私はそこに6ヶ月おりました。タジイ、ビアク、タラナキという3回の実験が行われました。

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1957年9月14日、マラリンガでアントラー作戦。2キロトンのタジイの実験。

[バチェラー元少佐の話とともにキノコ雲や実験跡地の影像]

(バチェラー元少佐)  初めての実験のすぐ後で私は、付属施設に出頭するように言われました。私たちは30分後、実験場から50ヤード(約46メートル)の所で、爆弾の爆縮に必要な放射線量を計測しておりました。後にその爆弾は、水爆であったことがわかりました。

[立ちこめる煙]

(バチェラー元少佐) あたりには、何もなくなっていました。私たちは、爆弾の爆発で破壊された塔の残骸が見えるくらいには近くにおりました。その塔は、爆発させる爆弾を設置していた塔のことです。そして、火の玉の形も見えました。火の玉は、アルミ製の塔の鋼鉄の脚のところで燃えておりました。私たちは、そこに30分ほどいて、その時間に収集すべき初期のデータを集めておりました。

[機材の修理にあたる作業員。キノコ雲を撮影する人たち。]

(バチェラー元少佐) 

 魚介類は、すぐに死んでしまいました。アルファ線を出すものにやられたのですね。アルファ線を出す物質が崩潰するには長い時間がかかります。半減期が何千年もありますからね。それらが体外にあるなら、あまり危険はありませんが、一旦体内に入ると普通は血液を作る骨髄に行きます。そして体内にとどまり、免疫系に影響を与えるのです。それで、ガンになったりと、いろいろとおかしな症状が出てくるのですね。

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1967年までプルトニウム、ベリリウム、濃縮ウランおよびコバルト60を使用した「小規模」の実験が600回も秘密裏に行われた。プルトニウム239の半減期は、2万4千年である。

[訳注: 英文ウィキによると、小規模の実験は700回に上るとのことです。
British Nuclear Tests At Maralinga]

(バチェラー元少佐) もっとも衝撃的だったことの一つはもちろん、記録がなくなってしまったことでした。

[バチェラー元少佐の回想とともに映されるのは、実験場施設や病院の影像]

(バチェラー元少佐) バッファロー作戦とアントラー作戦に関する技術部隊の記録がなくなりました。それらには、技術部隊員の放射線被曝量が記録されていました。記録がなくなれば、「公式の記録はない」ということになります。ですから、彼らは記録を消したに違いないのです。
 病院の記録もなくなりました。マラリンガ病院の記録がなくなってしまったのです。でも、その病院の記録がどこに行ったのかなんて、誰も言いたがりませんでした。

[ハットン元伍長の回想とともに映されるのは、病院や医療記録の写真。放射線を計測する人々の影像。]

(ハットン元伍長) マラリンガ病院での記録を持っているのは、私だけです。なぜ私がその記録を持っているのかというと、オーストラリア軍が私に対し、従軍傷病兵に対する補償を却下するための証拠として、マラリンガ病院の記録を私に送ってきたからです。
 私は、1957年にマラリンガ実験場でしつこい嘔吐に悩まされ、マラリンガ病院に10日間入院していました。
 オーストラリアが1963年から66年のインドネシアとマレーシアの紛争に軍隊を派遣したとき、私もマレーシアに行きました。そこで私は酷い腹痛に襲われて病院に入りました。胃潰瘍でした。マレーシアの病院の記録には、私のマラリンガ病院での記録は書かれていませんでした。
 とにかく私は、オーストラリア軍に傷病兵としての補償を請求しました。しかし、オーストラリア軍は、私の胃潰瘍は戦場での傷病ではないから補償は支払わない、と言いました。私の胃潰瘍は、マラリンガ実験場の環境に起因するものであり、マラリンガは戦場ではないため従軍兵への補償は支払わない、と主張したのです。そして、その主張を裏付ける証拠として、私のマラリンガ病院での記録を送ってきたのです。だから私は、マラリンガ病院の記録を持っているのです。
 私は、従軍兵としての補償を受け取れませんでした。ただ、言えることは、そのときには、まだマラリンガ病院の記録はあったということです。
 でも、1984年から1985年の核実験調査委員会の後に補償を受けようとしていた人たちは全員、病院の記録を入手できませんでした。記録なんてものは、なくなっていたのです。消えてしまっていたのです。1978年のことです。マラリンガの記録は、1978年になくなってしまいました。以来、見つかっていません。
 記録のありかは、誰かがきっと知っているはずです。ジョン ハワードは、当時の財務大臣です。マルコム フレーザーは、記録が消えた当時の総理大臣です。なぜ1万2千件もの記録、結局は1万5千件の記録だったとわかりましたが、それらがなぜ紛失したのか、誰かがきっと知っているはずです。1万5千人もの病人または病気になりそうな人達の記録が、この地上から消えてしまったのです。

[訳注: ハットン元伍長の発音が不明瞭で聞き取れた単語が少なかったのとお話の情報量が十分ではなかったため、苦し紛れの和訳をつくることさえできませんでした。困り果てて、聞き取れた単語をキーワードにネット検索し、なぜハットン元伍長だけがマラリンガ病院の記録を持っていたのかがわかりました。
 ここでの前半の文章は、ハットン元伍長の発語を和訳したものではなく、ネット検索して見つけた記事からハットン元伍長の発言の意図を推測のうえで書いたものです。

参照サイト
Friends of the Earth Australia
Human Guinea Pigs in the British N-tests in Australia
http://foe.org.au/anti-nuclear/issues/oz/britbombs/guinea-pigs

上記サイトより文章作成に使用した記事
Maralinga guinea pigs demands justice
by Brendan Nicholson
The Age
May 27, 2001

他の参照記事
Paul Langley's Nuclear History Blog
December 28, 2011
The 'missing' Maralinga Hospital nuke test treatment records a lesson for us and for Fukushima
http://nuclearhistory.wordpress.com/2011/12/page/3/

McClelland Royal Commission
http://en.wikipedia.org/wiki/McClelland_Royal_Commission

Australian War Memorial
Indonesian Confrontation, 1963-1966
http://www.awm.gov.au/atwar/confrontation.asp]

[核実験に参加した元兵士の会の儀式の影像とともに、元パイロットのネイルさんが語り始める。ハワード首相からネイルさん宛の書簡の写真。空を飛ぶ飛行機や飛行場の影像。]

(元パイロットのネイルさん) 政府は一貫してなんの影響もないと主張してきました。実際50年後に私は、ジョン ハワード首相から手紙を頂き、「なんの影響もない」とのお言葉を頂戴しました。実験に参加した兵士にもこの国の人々にも健康への影響は一切ない、と言われたのです。
 さて、このようなことを申し上げるのは遺憾ではありますが、知的に優れていなくても、天才でなくても、次のようなことは矛盾しているとおわかりになると思います。
 よろしいですか。1953年にトーテム作戦に参加したパイロットの飛行スーツやブーツやその他操縦に必要なもの一式が取り上げられ、ウーメラの飛行場に埋められました。また、パイロットが操縦した4機のリンカーン爆撃機が、非常に汚染されていて除染不可能であるとして廃棄処分になりました。
 このような事実があるのに、「健康被害はない」と政府は言っているのです。何かが絶対におかしいはずですね。

[ジョン ハワード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89

マルコム フレイザー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC]

[爆弾を装填する者。機密と記された放射線の毒性を示す書類。実験場の兵士たち。]

(ハットン元伍長の声) 1953年以来、軍はベリリウムを使用しました。そして軍は「無害だ」と言いました。核実験調査委員会が調べて、最近知られるようになったことですがね。とにかく、ベリリウムはとてもとても有害なものです。なにが言いたいかといえば、半減期が猛烈に長くて2万4千年ということです。つまり、今ある毒の毒性が半分になるのに、2万4千年もかかるってことです。こんなものがあっていいわけないですね。危険なものですからね。5千年も、1万年も毒なんですよ。でも、人間が取り除けるものではないのです。

(画面の表示) 科学者は、ベリリウムの粉塵はアスベストと同様、肺に致命的かつ治癒不能な影響を疾病を引き起こす可能性があると確認した。

(元パイロットのネイルさん) 後年思ったことなのですが、私たちは実験場の羊だったのですね。

[マラリンガを中心とする地図が表示され、テレビニュースのナレーションが流れる。]

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(テレビニュースのナレーション) マラリンガでの実験期間中、放射性物質を含んだ雲について、雲が海に到達するまで注意深い観測が行われました。爆弾爆発後に発生した雲のほとんどは、大陸を縦断または横断して海のほうに流れました。マラリンガから北向き、東向き、南東向き雲の流れがあります。

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1957年9月14日、マラリンガでアントラー作戦のタジイ実験。2キロトンの爆弾実験。

(元パイロットのネイルさん) 当時のメンジー政権以降すべての政権が、実験に参加した兵士およびこの国の人々へのいかなる毒性または危険もないと主張してきました。

[メンジーズ首相の写真]

(ネイルさん) さて、このような毒性や危険性の否定は政治の一環ですから、政治家として言わなければならなかったことです。しかし後年私たちは、もちろん実際には大きな危険があったとわかるようになりました。実験に参加した兵士は、なんの防護服も身に着けておりませんでした。この国の一般庶民も放射性降下物に曝されました。

[訳注: メンジーズ氏は、1949年に首相となり1966年まで長期政権を敷きました。メンジーズ首相は、対米依存の強化による安全保障の確立を推進する一方、イギリスへの忠誠を示したとのことです。
ロバートメンジーズ
Robert Menzies]

[流れる雲]

(サウスオーストラリア州知事マイク ラン氏) 少し考えてみてください。イギリスがマラリンガで行ったような実験を、果たしてスコットランドやウェールズといったイギリスの辺鄙な場所で行ったと思いますか。マラリンガで行われたことは恥ずべきことで、他では起きるはずがなかったことです。アボリジナルの人々の権利が否定されていたから起きたことで、筆舌に尽くしがたい悲劇的な結果がもたらされたのです。

[ラン州知事の発言が流れる一方で、1957年にウォーバートンでβ線の影響を調べていたニコルズ牧師が同胞とともに実験の犠牲者を運んでいる影像が映し出される。ちなみにニコルズ牧師もアボリジナルで、イギリスに留学された方。ラン州知事が「筆舌に尽くしがたい悲劇的な結果」と言うときに、犠牲者のご遺体が大写しにされる。]

[Mike Rann]

(ハットン元伍長) 軍隊は、もう壊す物がなくなるまで爆弾をぶっ飛ばしたのです。それで「バイバイ。」いなくなってしまった。

[砲弾を発射する兵士。走り去って行く軍用トラック。] 

(ハットン元伍長) それでおしまい。あそこは先住民の土地です。その土地を破壊したことを隠蔽するのは止めろと言いたい。アボリジナルの家族や人々が4万年以上もそこに住んできたのですからね。

[平原。アボリジナルの歌と子ども達。]

(マラリンガ実験の被曝者でクーパービーディー在住のカンガジュタ族のモイラ ワトソンさん) これから私はなにか別のことを言いますよ。私はなにか別のことを考えていたのです。
 なんででしょう?なぜ、彼らは爆弾を落としたのでしょう。
 私たちは、その爆弾について何も知らなかったのですよ。誰も私たちに爆弾のことを言いませんでしたよ。
 彼らは爆弾を落として、私たちの生活のすべてを滅ぼしてしまいました。私たちの家族の全員が亡くなりました。それから自分たちだけでやっていかねばなりませんでした。私たちの家族全員、年取った男も女もみんな亡くなってしまいました。
 私は、オルディーの家に住むようになりました。でも、そこは本当の意味での家ではありません。私は、ブッシュの中に住んで、そこを歩き回っていたのですからね。ブッシュで生活していたのです。自由な生活でした。すべてが本当に素晴らしかった。

[夕空]

(アラバンナ族長老で「核のない未来賞」の受賞者であるケビン バザコットさん) 私は、古い国と古い精神と古い創造物がどのようにバランスを取っていくのかわかりません。何人も国に干渉してはなりません。国を破壊して逃げたり、責任を逃れたりしてはいけません。私は、そのような行為に大きな懸念を抱いています。私だけでなく、他の人々も同じように心配しています。それで、私たちはいつも話し合っているのです。

[Kevin Buzzacott
http://en.wikipedia.org/wiki/Kevin_Buzzacott

Kevin Buzzacott, 2001 Nuclear-free Future Award
http://www.nuclear-free.com/eng/buzzacott.htm#lark]

[マラリンガを訪問するウィリアム ペニー卿とサウスオーストラリア州知事で空軍少将のロバート ジョージ卿が握手している影像。ラン州知事の言葉が流れ始める。]

[Robert George (RAF)
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_George_%28RAF_officer%29]

(ラン州知事) 1950年代から60年代にかけて受け入れられたことは、今では受け入れられることではありません。一方、現在受け入れられることは、今から1万年後には受け入れられないかもしれません。

[風向観測のための風船を飛ばす影像。それから核実験に参加した兵士の影像。「爆発。用意、振り返れ」という号令のもと、兵士が一斉に振り返ってキノコ雲を見る。]

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[画面の表示: 1957年10月9日、マラリンガでアントラー作戦のタラナキ実験。32キロトン爆弾の実験。]

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[ラン州知事の言葉とともに、 1967年から始まったマラリンガの第一回除染作業「ブランビー作戦」の記念碑や除染跡地の影像が流される。]

(ラン州知事) 1989年の終りに私は、アボリジナル問題担当大臣になりました。そして私はイギリスに行き、損害賠償とマラリンガの土地の除染を求めました。なぜなら、マラリンガの土地には、アメリシウム、ストロンチウム90、ウランやプルトニウムが残っていたからです。プルトニウムはあたり一面拡散していました。
 私は、除染がうまくいくかどうかについて疑っておりました。除染作業でやったことと言えば、放射性物質に汚染された土壌を取り除いて脇にやっただけですからね。

[訳注: ブランビー作戦にもかかわらず、1985年の公式調査の結果、マラリンガにはいまだに著しい量の放射性物質が残っているとの報告が出されました。以下のサイトの除染活動と効果の項(Clean up and effects)をご参照のこと。
British Nuclear Tests At Maralinga
http://en.wikipedia.org/wiki/British_nuclear_tests_at_Maralinga

この調査結果を受けてその後も除染作業が行われたそうですが、除染作業は非常にいいかげんなものであったことが多くの記事に記されています。それらの記事を集めたサイトは以下。
Friends of the Earth Australia
Flawed 'Clean-up' of Maralinga
Information about the flawed 'clean up' of the Maralinga nuclear test site in 1990s
http://www.foe.org.au/anti-nuclear/issues/oz/britbombs/clean-up]

[モイラさんと一緒に写っているのは、エミュ平原実験とマラリンガ実験の2つの実験の被害を受けたアイリーン カンパクタ ブラウンさん。アイリーンさんは、1995年にクーパービーディー女性住民委員会を設立した方であり、かつイラティ ワンティ運動のメンバー。
Eileen Kampakuta Brown http://en.wikipedia.org/wiki/Eileen_Kampakuta_Brown]

(アイリーンさん) まず、マラリンガを繰り返さないこと。今、あちこちにウランがあります。毒です。マラリンガの煙だけで十分です。もうやめてください。私たちは家族を失いました。兄弟達を失いました。マラリンガを繰り返してはいけません。

[砂漠]

(カリーナレスターズさん) 私たち被曝2世や次代を担う人間には、責任があると思います。私たちは民族の文化だけではなく、西洋の文化についても前の世代よりは知っているからです。私たちの前の世代は、被害を受けて苦しんでいたので、西洋の文化を何も把握できませんでした。

[モイラさんとアイリーンさんの影像]

(画面の表示) オーストラリア連邦政府は、核実験の影響を受けた人々の土地とまさに同じ場所に、国立核廃棄物投棄所を造成する予定である。]

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[照準を定める兵士。荒野のなかで発射される砲弾や銃弾。それらの影像とともに、アデレードのコーカサ広報担当者のレベッカ ベアウィングさんが語り始める。オーストラリア連邦政府所有の土地で立入禁止区域を示すウーメラ試験場の立て札。]

(ベアウィングさん) 彼らは先住民の土地を盗みました。オーストラリア政府は、ミサイルや銃弾の実験をし、私たちの土地には核爆弾が落とされました。私たちはもう沢山だと言っているのに、政府はこれからその土地に核廃棄物を投棄しようというのです。

[ウーメラ
ウーメラ試験場
Woomera, South Australia
Woomera Prohibited Area Coordination Office]

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[砂漠。シドニーのルーカス ハイツ原子炉の影像。同原子炉から核廃棄物を移送するトラック等が写される。それらの影像とともにオーストリア保護基金のヌーラン氏がイギリスの核実験の遺産について述べる。]

[High Flux Australian Reactor
Lucas Heights, New South Wales]

(ヌーランさん) イギリスの核実験が残したものは、環境汚染やマラリンガの土壌の浅いところにプルトニウムなどを埋めただけではありません。
 イギリスは、シドニーのルーカス ハイツに原子炉を設置しました。以来、オーストラリアは世界の「原子炉クラブ」の一員となりました。その原子炉から出る廃棄物は、オーストラリア北部にある初の国立放射性廃棄物投棄場に投棄される予定です。
 原子炉が閉鎖され解体されそうだとは言っても、放射性廃棄物を運ぶトラックは、地域社会を通りながらオーストラリアを横断または縦断するのです。

[2005年にルーカス ハイツ原子炉から出発する放射性廃棄物を積載したトラック]

(ラン州知事) 私たちは、連邦政府がサウスオーストラリア州に放射性廃棄物投棄場を造ることに反対する法案を可決しました。

[平原。「左方向屈曲あり」の交通標識。その交通標識には、「投棄場はいらない」と落書きされている。連邦政府所有の土地であることを示す立て札。]

(ラン州知事) オーストラリア連邦政府は、サウス オーストラリア州所有の土地を強制的に収用しました。このようなことは、この四半世紀において初めてのことです。

[核廃棄物保管場のドラム缶]

(ラン州知事) 国際的な核の専門家は口を揃えて、「放射性廃棄物または原発の使用済燃料は、それらが生成された場所から可能な限り近い場所に保管すべきである」と述べています。
 しかし、今、連邦政府がやろうとしているのは、国際的な安全指針や手順に重要なこととして書かれているのとは正反対です。連邦政府は、廃棄物や使用済み燃料を何千キロも移動させようとしています。近くに保管しようとせずに、初めから運搬することを考えているのです。
 私たちは、ルーカス ハイツ原子炉の廃棄物が私たちの州境を越えて持ち込まれ、私たちの地域社会を通り抜け、私たちの道路の上を運ばれていくことに反対です。

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[ヌーランさんの言葉とともに画面に映されるのは、ヨーロッパ核廃棄物保管場のドラム缶。]

(ヌーランさん)  私たちは、地上の乾燥した場所にある監視態勢が整った厳重な保管所に核廃棄物を管理することが望ましいと考えています。その保管所には、技術革新に伴う新たな技術を随時適用可能とすることで、環境と人々の健康を守れるようにすべきです。
 核廃棄物を屋外の鉱山または国立核廃棄物投棄場に埋め立てるというのは、埋める深さに関わらず、今申し上げた適切なやり方とは合致しません。

[オーストラリアの平原。アボリジナルの人々の座り込みデモ。]

(カリーナ レスターズさん) 私たちは、投棄場のことよりも、マラリンガのことや私たちがマラリンガに関して抱いている懸念についてより熱心に語ることができるだろうと思います。でも、投棄場の問題は、人々の話題になっていることですし、投棄場反対運動も行われていて、大きな懸念になっていることも確かです。なぜなら、投棄場の問題は、アボリジナルの人々の土地にいる生き物、土地の水源、土地に伝承されてきた物語、そしてこの土地の風景が実際にどう変わってしまうのかということに関わっているからです。

[大平原。サングラスをかけて立っているのは、オーストラリア連邦政府防衛省ウーメラ防衛局職員でコーカサのアボリジナル地域担当のアンドリュー スターキーさん。スターキーさんの言葉とともに、アボリジナルの人々の生活風景が映される。]

(スターキーさん) このグレートアーテジアン盆地は、オーストラリアの4分の1の大きさです。そして、とても大切な場所です。儀式や宗教的なものが残っているからです。すべての風景に民族の文化が残っていて、大切にされてきました。先祖代々が創り上げて来た風景です。信じられないほど見事な風景です。
 ここには私たちの路や物語や歌が残っているし、小川も流れています。小川に沿って路ができているのは偶然ではありません。その路は、何十万年も前からあるものです。路をずっと向こうに行ったところは、生活空間です。そこには良質の木材や砂があります。そしてそこは、人々が野宿をするところです。
 このように、ここには多くの遺産が残っておりますが、この土地の先住民が「政府の言うことはまったく信じられない」と言っていることも特筆に値するでしょう。ここに政府が作った道路は、マラリンガやウラン鉱山のあるロックスビー ダウンズに向かうもので望ましいものではありません。また政府は、私たちに核廃棄物投棄場を受け入れるよう強要しています。
 私たちは、道路の行く先に核廃棄物投棄場ができることを望んではいません。そのようなものは欲しくないのです。ここの人々も、オーストラリアの人々も、核廃棄物投棄場など望んではいないのです。政府は、人々の声に耳を傾けるべきです。

[訳注: スターキーさんの発音も非常に不明瞭なので、聞き取れた言葉を繋げて苦し紛れの日本語にしてあります。
 そして、この方には、冒頭の一文で悩まされました。聞こうと思えば、次のいずれにも聞こえるからです。
This is Corner County. ここは、コーナー郡です。
This is a quarter of our county. ここは、我が郡の4分の1です。
This is a quarter of our country. ここは、我が国の4分の1です。
 いろいろと調べて考え込んだ挙げ句、出だしの一文は、「ここは我が国の4分の1です」を選び、「このグレートアーテジアン盆地は、オーストラリアの4分の1の大きさです」と言い換えることにしました。その意味に取れば、番組の流れとして最も自然かと考えたからです。
 スターキーさんが立っている広大な平原は、一見何もないようですが、長年、先住民が生活してきたところです。なぜなら、そこに水があったからです。この平原はグレートアーテジアン盆地で、地下の帯水層には、莫大な量の地下水が蓄えられているのだそうです。そして、このグレートアーテジアン盆地は、オーストラリア大陸の約4分の1を占めるということです。(記事によっては「約5分の1」と記しています。)
 番組の前半は、イギリスの核実験に焦点が合わされておりました。後半では、核実験後の除染問題から始まって核廃棄物投棄問題に焦点が移りました。また、これからウラン採掘問題についても語られることになります。そして、核廃棄物埋立やウラン採掘は、水質汚染または水源の枯渇という問題と切り離すことができません。
 それゆえ、「このグレートアーテジアン盆地は、オーストラリアの4分の1」という訳にしておきました。

グレート アーテジアン盆地
File: Great Artesian Basin.png
次の動画は、オーストラリア大陸の成り立ちからグレートアーテジアン盆地の帯水層についてわかりやすく解説したものです。
How The Great Artesian Basin Works(5分36秒)
http://www.youtube.com/watch?v=oI3QI5SRBFY]
[流れる雲]

(モイラさんとアイリーンさん) 私たちは、もうマラリンガは欲しくない。そうでしょう? そうよ、もういらない。放射能が人々を殺したり、爆弾が爆発したり。それに、埋めようとしている。彼らは、ウランのゴミを私たちの土地に埋めようとしている。遠くから持って来てね。そうよ!シドニーで沢山作っているのよね。

[モイラさんとアイリーンさんがお喋りしながら「シドニーで沢山作っている」と言うとき、シドニーの影像が映される。]

(モイラさんとアイリーンさん) 彼らは自分の場所で作ったものを自分の場所に埋めればいいのよ。いつも私が言っているでしょう? そうよ、そうよ。いつも私たちは、そう言っているのよ。

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[「クーバー ピーディーは、核のない土地を支持します」という立て札。「オーストラリアの核マップ」を背にしたヌーランさんのお話が始まる。 ヌーランさんの事務所のロッカーには、「インシチュリーチング法を用いるウラン鉱山は、液体核廃棄物投棄場」というポスター。ウラン精錬工場内外の影像。 ヌーランさんのお話の終わりに示されるのは、工場内の「この水は飲めません!」という日本語の表示。]

(ヌーランさん) たんに技術的な問題でも、環境上の問題でもありません。核廃棄物の埋立ては、地域社会がその将来を決める権利を脅かす問題なのです。政府は、原子炉の危険性や廃棄物を地域社会に押し付けて、その社会が大切にしてきた多くの価値を壊そうとしています。政府は、これまでわかってきた放射能の健康リスクや原子炉の廃棄物生成のリスクを認めようとしないのです。

(バザコットさん) まず彼らはウランを取って聖地を破壊し、それからそれを埋めて、他の聖地を汚染したり、他の聖地に毒を撒こうとしています。

[警察官の隊列]

(バザコットさん) 私にはどうしたらいいのかわかりません。それは、彼らが以前に使用したものよりも毒性が強くなっています。彼らは、それをある種の「廃棄物」と呼んでいます。彼らは、廃棄物と呼んでいるのです。

[流れる雲]

(ヌーランさん) オーストラリアは、マラリンガの経験からこれまで50年間、ほとんど何も学んできませんでした。そのことを示す例として、ゼネラルアトミクス社というアメリカの巨大な軍需企業がビヴェリーのウラン鉱山で行っている採掘方法を挙げることができます。
 この会社のウラン採掘法はインシチュリーチング法です。この方法は、経済協力開発機構に加盟している他の国では認められていないものです。
 また、このゼネラルアトミクス社は、ビヴェリー鉱山において放射性の鉱山廃棄物のすべてを直接地下水に流しています。また本来、ウラン採掘後の地下水の水質は、ウラン採掘前の状態に修復すべきですが、同社は水質を元に戻すこともしていません。それなのに、我々の法制度のもとで何らの責任も問われていません。それどころか、実際には、サウスオーストラリア州環境保護法のもとで免責されているのです。

2013120149.jpg2013120150.jpg
[流れる雲。ヌーランさんの言葉とともに、「オーストラリアの核マップ」の南部に焦点が合わされる。続いて、土地の断面図。 断面図左:硫酸注入井、断面図右:回収井、
断面図下:地下100メートルのグレートアーテジアン盆地の帯水層]

[軍需企業の一覧
General Atomics
インシチュリーチング(ISL)法についての詳しい解説は、こちらのサイト。
ATOMICA
オーストラリアのウラン鉱山
ウラン採掘法とその特色
インシチュリーチング法の実際例

以下、一部抜粋のうえ構成。
「 2000年から、Beverley鉱山がオーストラリアで最初の商業規模のインシチュリーチング(ISL)採鉱法による生産活動を開始した。(「オーストラリアのウラン鉱山」より)
 インシチュリーチング(ISL)法とは、地上から試錐井を通してウラン鉱体に水溶液(酸またはアルカリ溶液、または酸素と炭酸ガスを混入した水)を注入し、原位置(in situ)においてウランを溶かして、溶液の形で試錐井から地上に回収する方法。(「ウラン採掘法とその特色」より)
 ISLが適用されるためには、鉱体・母岩の透水性がよく、母岩の上盤・下盤が不透水層に囲まれており、鉱体・母岩が地下水位より下位に位置することが必要条件である。すなわち、注入した水溶液がすべて地上に回収され、溶出したウラン溶液が開発対象範囲から外側に漏れ出さないように操業できることが絶対条件。
 ウラン回収が終了した後、WellFieldの地下水は回収開始以前の元の地下水と同様のレベルまで修復されることが必要である。修復に要する期間は、元 の地下水の水質の程度によって大きな差がある。すなわち、南オーストラリアのように元の地下水の塩濃度が高く飲用に適さない場合は短期間ですむが、米国ワイオミング州のように飲用に使用されている場合には数年を要する。(「インシチュリーチング法の実際例」より)」

Wikipedia
In-situ leach
World Nuclear Association
In Situ Leach Mining (ISL) of Uranium]

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[南部のアデレード、東部のルーカスハイツそして北部のダーウィンが記されたオーストラリアの地図。
白い曲線は、ヨーロッパ、日本、北米および韓国へのウラン輸出航路。
白い点線(シドニーから斜め上に向かって伸びている線)は、ヨーロッパおよび北米への使用済み核燃料輸出航路。
白い点線(地図の下部の線)は、ヨーロッパから日本向けのプルトニウム燃料および核廃棄物輸出航路。]

(ヌーランさん) サウスオーストラリア州のウランは原子炉で使用され、プルトニウムを生みます。世界のプルトニウムの半分は、商業用原子炉において生産されるものです。それゆえ、サウスオーストラリア州は、原子炉の危険性を認識のうえで放射性廃棄物生産に荷担しているだけではなく、世界におけるプルトニウムの蓄積にも荷担していると言えます。

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[夕空の雲。夕陽。煙感知器の注意書き。クローズアップされるのはアメリシウム241という言葉。北部のラムジャングルにある閉山されたウラン鉱山の影像。]

(ヌーランさん) 原子力業界は、自分たちの物質が市民生活に貢献していると見せようとします。自分たちの業界は、有害ではないんだと思わせようとするのです。
 従来使われてきた使い捨て煙感知器には、アメリシウムが使われています。アメリシウムというのも、原子力業界の「副産物」です。アメリシウムを用いた煙探知機は、火災時にそれ自体が燃焼し、粉塵となります。それゆえ、火災現場やその周囲の人達が吸引してしまうことになり、健康リスクがあるというわけです。
 原子力業界が放射性物質を生み出してから拡散するまでのサイクルを示している、といっていいでしょう。まったくのナンセンスです。アメリシウムを使用していない煙感知器のほうがより効果的なのですよ。

[原子力資料情報室
アメリシウム241
放射能から岩沼を守る会
アメリシウム241は身近な煙感知器に潜んでいた]

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[「警戒」と記された看板。その写真とともに、ベアウィングさんさんの声が流れる。平原。ウラン鉱山や廃棄物投棄場候補地が記された地図。]

(ベアウィングさん)なぜ、あちら側は間違うのかしら。そして、なぜ間違い続けていても、許されるのかしら。

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[ロックスビー ダウンズの場所を示す核マップ。バザコットさんが話し始める。お話とともに流れる影像は、鉱山、狩りをするアボリジナルの男性、ベルトコンベイヤー。大平原。泉。]

(バザコットさん) ロックスビー ダウンズには、世界最大級の鉱山があります。私たちは、その場所を知っています。私たちは、昔からその場所を知っていました。白人がそこにやってくる前から、その場所を知っていました。キャプテン クックが知られるようになる前から、その土地を知っていました。キャプテン クックが生まれる前から、その土地を知っていました。
 だから私たちは、ウランを聖なるものと呼んでいるのです。ウランは、その土地の一部です。夢の時代の一部です。その土地で夢見ることは、私たちに許されていたことでしたし、すべての人々に許されていたことでもありました。だからこそ、私たちはとても心配しているのです。
 ウラン採掘会社は、エーア湖から水をポンプで汲み上げていますから、私たちは、とても苦しむことになります。ウラン採掘会社は、そこから1日に5,000万リットル以上もの水を取っています。その水は、良質で、清らかで聖なる水でした。でも、およそ5,000万リットルもの水が、鉱石から異物を除去してウランを精製するために使われ、汚い水となって鉱滓ダムに行きます。1日当たり、大変な量の水です。そしてそのため、私たちの泉や水源のすべてが影響を受けることになります。私たちは、泉や水源を見つけられなくなるでしょう。
 もうすでに何年かウラン採掘が行なわれてきました。ですから、とんでもなく大量の汚染水があるはずです。

[訳注: ロックスビー ダウンズには、オリンピック ダム鉱山があります。

ジェームス クック
Roxby Downs, South Australia
Olympic Dam, South Australia
グレート アーテジアン盆地
エーア湖
よくわかる原子力
「少しの燃料で大きなパワーというけれど」ちいさなウラン燃料ができるまで
http://www.nuketext.org/uranium.html

鉱滓ダム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%B1%E6%BB%93%E3%83%80%E3%83%A0
Lake Eyre Basin
Welcome to Lake Eyre Basin
以下は、最近の記事(2005年の番組製作時点より日付が新しい)ですが、ウラン採掘が水質汚染をもたらすことを示すものです。

日豪ニュース 2009年3月15日
レンジャーウラン鉱山で沈殿池から汚染水漏洩
JAMS.TV カガドゥ国立公園で、ウラン鉱山の汚染被害]

[一緒に歩いているモイラさんとアイリーンさん。続いて、アボリジナルの集会。メダルを授与されたアボリジナルの女性。これらの影像とともに、ヌーランさんの声が流れる。]

(ヌーランさん) オーストラリアの南部や北部のアボリジナルのカンガジュタ族の女性長老達が、自分たちの土地に汚染物質を押し付けられるのに反対して、民族の文化や土地や社会のために闘っています。このことは、すべてのオーストラリア人の問題でもあります。私たちもみな精神的に成熟し、この女性達を応援するとともに私たちの大切にしてきた生活を守らねばなりません。

(モイラさんとアイリーンさん) ヤンクニチャッジャラやピッジャンジャッジャラの土地。可哀想な国です。オーストラリアはね。
 これらの土地は、オーストラリアのもの。私たちのだけではなく、オーストラリア全体のもの。そう、サウスオーストラリア州のもの。オーストラリア全体が壊されていく。可哀想に。危ないの。危ないのよ、ウランはね。

[あたり一面のソーラーパネル。ヌーラン氏の声が流れる。ルーカスハイツ原子炉の影像。同原子炉のそばの公園で遊ぶ子ども。原子炉施設の内部の影像。]

(ヌーランさん) オーストラリアは、世界でも最も太陽の光に恵まれているのですが、太陽光発電開発のための研究資金をもらうことは大変に難しいのです。一方政府は、5億ドルもの資金をシドニーの原子炉につぎ込んでいます。政府は、現在直面しているエネルギー問題について、間違った対応をしているとしか言えません。
 医療用アイソトープの生産方法には、原子炉を使わない代替方法があります。加速器を使ったり、放射線を用いて製造することができるのです。これらの代替生産方法で、主な医療用のアイソトープであるモリブデン99(テクネチウム99)を生産できます。我々の政府は、この医療用アイソトープを安定的に生産するためにシドニーに原子炉を置いておかねばならないと言いますが、それは嘘です。
 核兵器開発は、いわゆる民間の原子力利用政策とともに行われてきました。そして、原子力の軍事利用と民間利用の間には、ほとんど差異はありません。核兵器の拡散は、それはそれで一つの問題ではあります。しかしながら、原子力技術および原子力資源の拡散こそが、多くの国々に危険をもたらしていることを理解しなければなりません。

[マイナビニュース
JAEA、核医学診断用のラジオアイソトープ国内生産技術の開発に進展
http://news.mynavi.jp/news/2012/09/19/010/]


[ベアウィングさんの声とともに流れるのは、チェルノブイリのお墓の影像。]

(ベアウィングさん) チェルノブイリ原発事故は、生活が破壊されることを示す証拠として十分ではなかったのでしょうか。 

[流れる雲]

(ベアウィングさん) 私たちは涙を流しました。それから、私たち個人の生活が破壊されてしまったという事実を受け入れました。私たちの生活が深刻な影響を受けたということを見て参りました。そして、核爆弾が爆発するところにいてはいけない、ということもわかりました。核爆弾が炸裂するところに行ったら、とんでもないことになりますからね。

[アボリジナルの集会]

(ベアウィングさん) 私の母は、核爆弾に被曝しました。私は、母の遺伝子を受け継いだので遺伝的な異常があります。私は、子どもを生むことができませんでした。でも、3つの子宮があります。
 私の地域社会には、妊娠出産に関する問題を抱えている多くの女性がいますが、私もその一人です。妊娠出産というのは、伝統的にも文化的にも話題にすることではありません。話せることではないのです。

[夕空。バザコットさんがオーバーラップされる。バザコットさんは静かにアボリジナルの言葉で語り出す。]

(バザコットさん) 今、私の言葉で話していました。夢の時代から受け継いで来た私たちの言葉で話しておりました。この言葉は、古い国のようです。古いものなのです。そして、人々はそれを掘り出して壊したけれど、私たちのことは知らないのです。彼らは、自分の国も知らないのです。彼らは、自分が何をやっているかわかっていないのです。

[2003年、ジャービス湾にある HMAS クレスウェル 海軍基地 で行われたモンテベロ実験50周年追悼式の影像。アトミックソルジャーの会のキンバー会長の声が流れ始める。追悼式で犠牲者に捧げられた花束が海を流れて行く。]

[HMAS Creswell
http://www.navy.gov.au/establishments/hmas-creswell]

(アトミック ソルジャーの会のキンバー会長) 核爆弾が落とされてから52年になりますが、政府は実験に参加した元兵士が死に絶えるのを待っているのだろうか、と私は思います。政府は、実験に参加した元兵士が死ねば、支払い相手が減ると考えているのでしょうか。
 政府は、元兵士に向かって「君は被曝していない」と言ってきましたが、私たち元兵士は被曝していました。多量な被曝をしておりました。

(ヌーランさん)  オーストラリアというのは、ウランを採掘して核爆弾を製造する他国に輸出し、その他国が製造した核爆弾をオーストラリアに持って来て爆発させることを許す唯一の国だと理解しています。

[海を行くオーストラリア海軍の戦艦]

(モンテベロ実験50周年追悼式に参加した元アトミック ソルジャーの未亡人) 私は、この核爆弾が後々にも及ぼす影響を知りたいです。私には3人の子どもがおります。その子ども達が生んだ私の孫達には、みんな異常がありました。それで、その孫達の異常が核爆弾のせいなのかを知りたいのです。それに私の娘はガンになりましたね。

[訳注: このご婦人のお孫さん達には全員、何かの先天的異常があったのですが、発音が不明瞭なため、どのような異常だったのかがわかりません。仕方がないので、和訳には単に「異常がありました」と記しておきました。]

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スコットランドのダンディー大学の公式報告「1952年から58年にかけてマラリンガに駐留したイギリス兵の子孫について調査したところ、流産、死産、先天性奇形を含む放射線による出産異常は17%に上る。」

[アトミック ソルジャーの会のパレード。ハットン氏の声が流れ始める。オーストラリア軍基地の風景。昔のオーストラリア海軍の影像。]

(ハットン元伍長) 突然ね、仲間が去年亡くなってしまったのです。なぜかというと、ガンでした。仲間のだれも、心臓発作とかでは亡くなっていません。みんなガンで亡くなっています。みんな年を取りましたから、1人や2人が亡くなってもおかしくないとは思いますよ。心臓発作とか老衰とか他の病気とかでね。でも、みんながみんなガンで亡くなってしまったのです。こんなに多いとね、なんでみんなガンになってしまうんだ、と思うのですよ。

(アトミック ソルジャーの会のキンバー会長) 私たちは全員、戦争に参加しました。「冷戦の戦場」に行ったのではありませんが、私たちはオーストラリアで戦争に関わっておりました。私たちがオーストラリアで実際に仕事をしていたのだということを認めてもらいたし、受け入れてもらいたいのです。私たちは、そのことを一番望んでいるのです。

[キノコ雲の影像。アトミック ソルジャーの会の集まり。]

(元パイロットのネイルさん) 私たちは、退役軍人補償法を核実験に参加した元兵士達にも適用してほしいとお願いしてきました。私たちの主張は、その点につきます。

[核爆弾の閃光に背を向けていた兵士が、轟音とともに振り返る影像。アボリジナルの人々の座り込みデモ。ベアウィングさんの声が流れ始める。]

(ベアウィングさん) 私たちは「もうウラン採掘も爆弾実験もいらない」と言っているのです。そして、誰かの放射性廃棄物をここに持ってこられて埋められるのも嫌なのです。

(元パイロットのネイルさん) 政府は嘘をついたのです。核爆弾の炸裂について、嘘をついてついてつきまくったのです。

[アボリジナルの犠牲者。キノコ雲。ネイルさんの声が流れる。]

(元パイロットのネイルさん) 私たちは言われた通りにやりました。

[海で作業するオーストラリア兵]

(元パイロットのネイルさん) 言われたときに言われたことを言われた通りにやりました。

[立ち上るキノコ雲] 

(声を荒げる元パイロットのネイルさん) 私たちは、国家を裏切りませんでした。悲しいことですが、我々を裏切ったのは国家です。

[アボリジナルの歌声とともに画面の表示が現れる。]

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核実験に参加した元兵士達は、復員兵補償法にもとづき、非戦闘事態における有害な軍務の認定を求めている。
 これまで核実験に参加した元兵士は、なんらの補償も受けていない。彼らは、ガンおよび死亡率に関する報告書が作成され公表されることを待っている。
 2004年7月、自分たちの土地に放射性廃棄物貯蔵所が建設されることに反対していたクーバー ピーディーのカンガ ジュタ族の女性長老が、6年の闘いを経て勝利を納めた。

[Coober Pedy
http://en.wikipedia.org/wiki/Coober_Pedy

'We are winners because of what's in our minds not what's on paper' by Irati Wanti Campaign Office
August 2004
http://web.archive.org/web/20080720065153/http://www.iratiwanti.org/iratiwanti.php3?page=news&id=244&start=0&year=2004]

2013120159.jpg
連邦政府は、適切な場所を探し続けている。

2013120160.jpg
私たちの核の歴史は続いて行く...

(クレジット)

[訳注: クレジットとともに流れる曲は、「僕らは生き抜いた」というアボリジナルの抵抗の歌です。そして、最後にほんの一節流れるのは、おそらくはアボリジナルの方が口ずさむ賛美歌312番の「いつくしみ深き」です。
 付録2として、アボリジナルの抵抗の歌「僕らは生き抜いた」の歌詞そしてその私訳を付けました。]

(私訳了)


(付録1) 以下は、ウラン採掘に関する最近の記事です。

資源について オーストラリア ウラン
http://resource.ashigaru.jp/country_australia_2_uranium.html

二本松の子ども達 福島原発 放射線の現場さんから
2012年3月13日
「イエローケーキ ウラン採掘の現場から」
http://nagiwinds.blogspot.hk/2012/03/blog-post_3600.html

ビッグイッシュー 2012年11月19日
オーストラリア、年間95基を動かすウラン輸出。先住民の”神泉な泉”を汚染
http://bigissue-online.jp/2012/11/29/from-hisaichi-21/

NNA. ASIA
オーストラリア 2012年12月10日
ウラン最大輸出国から転落も、非公開報告が警告 [資源]
http://nna.jp/free/news/20121220aud004A.html

日豪プレス 2013年4月13日
QLD州ウラン開発でリーフ危機感
http://nichigopress.jp/ausnews/entertainment/47878/

日本商工会議所 海外情報レポート 2013年7月19日
オーストラリアのウラン開発と原子力利用(シドニー)
http://www.jcci.or.jp/international/latest-reports/2013/0719194811.html


(付録2) オープニングとエンディングの曲の歌詞とその私訳

番組を飾った曲は、以下にリンクを貼った音源の曲を編曲したものだと思います。

We Have Survived (1981)
http://aso.gov.au/titles/music/we-have-survived/clip1/

You can’t change the rhythm of my soul, You can’t tell me just what to do.
You can’t break my bones by putting me down, Or by taking the things that belong to me.
We have survived the white man’s world And the horror and the torment of it all. We have survived the white man’s world And you know you can’t change that.
All the years has just passed me by, I’ve been hassled by the cops nearly all my life. People trying to keep me so blind, But I can see what’s going on in my mind.
We have survived the white man’s world And the horror and the torment of it all. We have survived the white man’s world And you know you can’t change that.
You can’t change the rhythm of my soul, You can’t tell me just what to do. You can’t break my bones by putting me down, Or by taking the things that belong to me.
We have survived the white man’s world And the horror and the torment of it all.
We have survived the white man’s world And the horror and the torment of it all.
We have survived the white man’s world And the horror and the torment of it all.

(私訳)
僕の魂のリズムを変えることなんて君にはできないよ
僕にどうしろなんて言えないよ
僕を押さえつけて骨を折ることなんてできないよ
僕のものを持っていくこともできないよ

僕らは白人の世界を生き抜いてきたんだ
恐怖や苦痛のすべてをくぐり抜けてきたんだ
僕らは白人の世界を生き抜いてきたんだ
誰がなんて言ったって、僕らは生証人なんだ

何年もの時が僕を通り過ぎて行った
僕はいつも警察に脅されてきた
みんな僕に目をつむれって言ったけど
僕にはみんなお見通しだよ

僕らは白人の世界を生き抜いてきた
恐怖や苦痛のすべてをくぐり抜けてきたんだ
僕らは白人の世界を生き抜いてきたんだ
誰がなんて言ったって、僕らは生証人なんだ

僕の魂のリズムを変えることなんて君にはできないよ
僕にどうしろなんて言えないよ
僕を押さえつけて骨を折ることなんてできないよ
僕のものを持っていくこともできないよ

僕らは白人の世界を生き抜いてきたんだ
恐怖や苦痛のすべてをくぐり抜けてきたんだ
僕らは白人の世界を生き抜いてきたんだ
恐怖や苦痛のすべてをくぐり抜けてきたんだ

僕らは白人の世界を生き抜いてきたんだ
恐怖や苦痛のすべてをくぐり抜けてきたんだ

(付録3) 略年表

5万年から12万年以上前 アボリジナルの先祖、オーストラリアに上陸

1770年4月29日 ジェームス クック、オーストラリアのボタニー湾に初上陸
1770年8月22日 ジェームス クック、オーストラリアのポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言
1778年5月18日、イギリス政府、退役海軍将校アーサー フィリップを初代総督に任命し、オーストラリアの植民地支配に当たらせる。先住民への迫害、人種差別政策を行う。
1827年 イギリス、オーストラリア全大陸を領有
1850年以降 白豪主義の強化
1876年5月8日 タスマニアの純血アボリジナルが全滅

1949年から1966年 メンジーズ首相の長期政権。対米依存の強化による安全保障の確立を推進する一方、イギリスへの忠誠を示す。
 
1952年10月3日 モンテベロ諸島でのハリケーン作戦(25キロトン爆弾)

1953年2月23日 オーストラリア空軍少将のロバート ジョージ卿、南オーストラリア州の州知事に就任。

1953年9月下旬 イギリスの原爆科学者のウィリアム ペニー卿、オーストラリアを訪問

1953年 エミュ平原でのトーテム作戦
1953年10月14日 トーテム1実験(9.1キロトン爆弾)
1953年10月26日 トーテム2実験(7.1キロトン爆弾)

1955年から63年 マラリンガおよびエミュ平原で700回もの小規模核実験。これらは完全な秘密裏に行われ、主にプルトニウム、ウラン、ベリリウムなどを拡散。

1956年 モンテベロ諸島でのフリントロック作戦
1956年5月16日 モザイクG1実験(15キロトン爆弾)
1956年6月19日 モザイクG2実験(98キロトン爆弾)

1956年 マラリンガでのバッファロー作戦
1956年9月27日 ワンツリー実験(12.9キロトン爆弾)
1956年10月4日 マルコ実験(1.4キロトン爆弾)
1956年10月11日 カイト実験(2.9キロトン爆弾)
1956年10月22日 ブレイクアウェイ実験(10.8キロトン爆弾)

1957年 マラリンガでのアントラー作戦
1957年9月14日 タジイ実験(0.93キロトン爆弾)
1957年9月25日 ビアク実験(5.67キロトン爆弾)
1957年10月9日 タラナキ実験(26.6キロトン爆弾)

1960年代 ウランの採掘が盛んになり、対米、対日輸出が増加

1960年3月7日 オーストラリア空軍少将で南オーストラリア州知事のジョージ氏、退任

1967年 マラリンガで初の除染活動の「ブランビー作戦」が始まる
1967年5月27日 アボリジナルへの公民権付与が国民投票で可決
1972年 オーストラリア連邦政府、アボリジナル問題省設立
1978年 マラリンガ病院の記録が紛失
1984年から1985年 イギリス核実験に関する調査委員会が開かれる
1985年 調査委員会、マラリンガに除染後も著しい量の放射能汚染があると報告
1989年 南オーストラリア州アボリジナル問題担当大臣のラン氏、イギリスに賠償および除染作業を請求
1994年 オーストラリア連邦政府、マラリンガのジャウジャ族に損害賠償を支払う
1998年 オーストラリア連邦政府、南オーストラリア州に放射性廃棄物投棄場を造るとの意思表示。アボリジナルの女性長老達が反対運動(イラティ ワンティ)を開始
1998年7月6日 オーストラリア連邦裁判所、アボリジナルに海域での先住権を初めて認める
2000年 マラリンガの2度目の除染作業終了
2002年 労働党のラン氏、南オーストラリア州知事に就任
2003年7月 オーストラリア連邦政府、南オーストラリア州の核廃棄物投棄場候補地の土地を収用
2004年7月 オーストラリア連邦政府、南オーストラリア州の核廃棄物投棄場造成計画を見送り。イラティワンティ運動の女性達の勝利
2004年10月 ジョンハワード首相、総選挙に勝ち第4期政権へ
2005年 オーストラリア連邦政府、北部に核廃棄物投棄場造成計画を発表


付録4 オーストラリアの核マップ

番組のあちこちに登場する核マップです。
地図全体をご覧になりたい場合、以下のサイトにアクセスして下さい。
この地図は、A2サイズという大きなものなので、4分割したものがPDFファイルに納められています。
地図を詳細にお読みになりたい場合、以下のサイトからPDFファイルをダウンロードして下さい。
Australian Map Of Nuclear Sites]

(訳者の断り書き)
 日本語では、普通「アボリジニ」と言うと思っていましたが、ウィキペディアによると「アボリジニ」という言葉には差別的な響きがあるとのことでした。それゆえ、和訳には「アボリジナル」と記すことにしました。
 この番組には多くの語り手が登場します。字幕翻訳ではないので、語り手の発語をすべて訳そうと努めました。そう申しておいてなんですが、聞き取れなかった箇所も沢山あります。訳者の聞き取り能力はもちろん良くないのですが、語り手の発音が不明瞭な箇所においては、完全にお手上げでした。その場合、聞き取れた限りの単語を繋げて苦し紛れの日本語にしてあります。
 アボリジナルの方々の発言には、非常に簡単な英文字幕がついています。これには、2つの理由があると思います。
 まず、アボリジナルの言葉を英語に翻訳するのは言語間の乖離が大きくて難しいこと。
 そして、アボリジナルの方が英語を話された場合、その英語が正確とはいえないこと。 
 これらの理由により、語り手の意図を正確に英語で表現するには、かなりの加筆が必要になると思います。しかし、番組制作者は加筆しませんでした。おそらく、発言者の雰囲気を重視することにし、発言者の発語をそのまま英単語に置き換えただけの英文字幕にしたのだと思います。
 その英文字幕を和訳するのも辛いものがありました。少々悩んで、訳者も発言者の意図を推測して加筆した和訳にするより、発言者の素朴な言葉を日本語に置き換えるだけにとどめました。(バザコットさんの発言の一部については、若干加筆して訳しました。)
 動画をご覧になっていただければおわかりになりますが、画面は頻繁に切り替わります。多くの影像や写真や地図が出て参りますが、その一つ一つは語り手のお話の背景であったり、なにかを暗示しているかのようです。私訳には、角括弧のなかにト書きのような形で、影像や写真や地図の説明を記しておきました。


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posted by いんちょう at 21:06| Comment(7) | 原子力
この記事へのコメント
当然ながら核はこわいですね。
さて、私は最近ここに貴ブログが宗教団体のトップページにおかれているということを書き込んだ者です。
ほかにも、武田先生や木村先生がおかれています。http://www.sagegroup.jp/index.htm
これはどういうことでしょう?
Posted by 太 at 2013年12月01日 23:52
>「木村先生」
木下先生 でした(汗
Posted by 太 at 2013年12月02日 00:00
オーストラリアの皮膚がんは、オゾン層でなくて、
本当は核汚染が理由ですか?
と、考えてしまう。
Posted by ひよこ at 2013年12月02日 11:25
オーストラリアの核実験の詳細は初めて知りました。犠牲になったのはアボリジニ。
沖縄と福島がだぶって見えました。
国家秘密保護法の目的は、もしかしたら核兵器開発ではないでしょうか。
このビデオを見てそんな気がしてきました。
それにしても英国はえげつない国ですな。
Posted by にくのおおいはおおのくに(回文) at 2013年12月03日 00:09
児玉龍彦先生、相変わらずの「除染」音頭、一段と声高になってきました。そらまぁ、業者(業者名も判明していますが)に肩入れしていますから当然てば当然なんでしょうが、いささか度を越して、音程が外れっぱなしの様相です。

原子力規制委員会が各都道府県等からの報告に基づき作成した環境放射能水準調査結果(月間降下物)という資料がありますが、ワーストスリーは福島・茨城県ひたちなか市・東京都ということになっています。

http://radioactivity.nsr.go.jp/ja/contents/9000/8485/24/195_1129.pdf

先生は水戸市を例にあげてセシウムの飛散は一過性のものであって、グラフを掲げて激減の様子を伝えていますが、上の資料でいけばひたちなか市の今年の10月の降下量は50M(メガ)Bq/平方kmです。つまり50Bq/u。ひたちなか市も水戸市もどっこいだと私は思うのですが。

結論として、放射線障害は、細胞増殖の盛んな子ども・免疫障害のある病人に起きやすいことから、保育園・幼稚園・小学校・中高等学校と年齢の若い児童の接触、吸入可能性のあるところからの除染が急がれる。

と仰っては居ますが「除染は無駄です。避難して下さい。」とは間違っても言わない様相です。取り敢えず避難させといて、除染をして、時間をおいて効果を調べるという気持はさらさらないようです。チェリノブイリの教訓は生きていないようです、残念ながら。

先生の資料はコチラを参照して下さい。

http://plusi.info/wp-content/uploads/2011/08/Vol.41.pdf
Posted by ハマの住人 at 2013年12月04日 19:02
先生、こんにちは。いつも読ませて頂いています。
今回の紹介もありがとうございます。
有り難く読ませて頂きました。
ものすごく時間がかかったと思います。
お疲れ様でございます。

残酷で無惨で悲しくて、もう知るのがしんどくなります。
でも巨悪のやることを止めるには、まず真実を知ることが一番大事なので、核や原発のことはこれからも積極的に知っていこうと思います。
こういう紹介はとても有り難いです。

今さらに思うのは、NZ、それからグリーンランド、アイスランド、南極北極の海、ああいったところも核の廃棄物不法投棄場所になっている(いた)んじゃないかなと思いました。
あそこらへんは、まだキレイだろうなあーなんてイメージを持っていると全然違うのでしょうね。
Posted by りえ at 2013年12月04日 19:09
日本から避難移住でオーストラリアへ・・・なんてネバダに移住するようなもんですね。全く論外。
それにしても汚染のあったところに明るい未来はないですね。
Posted by r at 2014年07月20日 06:39
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